【閑話休題】
[記事配信時刻:2017-03-24 15:54:00]
【閑話休題】第493回・幽霊画
▼彼岸だったので、それに関連した話題を書こうと思う。幽霊画のことだ。
▼幽霊画というのは、江戸時代から明治時代にかけて描かれた日本画や浮世絵の様式のひとつだ。あらゆる絵画の中でも最も難しい技法とされる。
▼文字通り死者の魂、幽霊を描いた絵を指す。一つのジャンルをなすほどに多く描かれており、葛飾北斎、歌川国芳、月岡芳年らも多くの作品を残している。
▼鶴屋南北の『東海道四谷怪談』が流行して以来、その影響は錦絵の上においても顕著で、幕末から明治時代にかけて多数のお岩が描かれることになった。
▼日本では毎年、お盆の時期には、墓参りなどをして先祖の霊を供養する風習がある。これは、死者たちが冥界で安寧に過ごすことを願う、日本人独特の死生観を映し出すものといえる。
▼死んだ人間がこの世に現れる幽霊の概念は、西洋世界でも見られるが、幽霊を絵に描く、いわゆる幽霊画がひとつのジャンルといえるまでに展開を見せたのは、日本美術に特有な現象といってよい。
▼東京・台東区谷中にある全生庵には、国内でも有数の幽霊画コレクションが所蔵されている。全生庵は、怪談で名を馳せた明治の噺家・三遊亭圓朝(大圓朝)の菩提寺だ。
▼圓朝と言えば、二葉亭四迷が『浮雲』を書く際に圓朝の落語口演筆記を参考にしたとされ、明治の言文一致運動にも大きな影響を及ぼした、現代の日本語の祖でもある。
▼全生庵所蔵の幽霊画は圓朝ゆかりのコレクションが伝わったものだ。毎年8月には11日の圓朝忌にちなんで、堂内で幽霊画を展示するのが恒例ともなっている。
▼全生庵所蔵の圓朝コレクションは、圓朝自身があつめた幽霊画に加え、歿後、支援者であった藤浦家がその遺志を継いであつめた作品を含んでいる。今日ではどれが圓朝自身によるコレクションなのかを正確に示すことが難しいのだが、全体の特徴と言ってよいのは、圓朝の怪談噺に通じる、人間味のある表情をたたえた幽霊たちが多いということだ。
▼圓朝が創作した怪談(たとえば、中国の奇譚を翻案してつくられた『怪談牡丹灯篭』)は、人を驚かせたり怖がらせたりすることよりも、人間の心にある恨みや浅ましさを語って聴かせる、道徳的要素のあるものだ。そのために、聴く側はどんな人間の心にも潜んでいる弱さや後ろめたさといった感情をくすぐられ、何とも言えない怖さを感じる。したがって、圓朝コレクションには、滑稽な仕草で暴れ回る妖怪たちの姿はなく、怪しくも美しい幽霊たちばかりだ。
(牡丹灯篭、作者不明)
▼幽霊画の代表的な例が、円山応挙だ。応挙は18世紀後半に京都で活躍した画家で、実物の写生を重んじた制作態度によって知られている。
▼三井寺(みいでら)円満院の祐常門主や豪商三井(みつい)家が、応挙の主要なパトロンであった。ちなみに、大本教祖の一人、昭和の怪物とも称された出口王仁三郎は応挙の家系から出ている。
▼その応挙が架空の存在である幽霊を描くのは矛盾ともとれるが、龍や仙人を描くことの延長と見なせば、応挙の創意は架空の存在を、いかに生き生きと描くかに向けられていたと見るべきだろう。
(丸山応挙の幽霊画)
▼乱れた黒髪をたらし、白い衣装を着て右手を胸元に添え、そして足が描かれない応挙の幽霊画スタイルは、その後の幽霊画に大きな影響を与えた。いわゆる「足の無い幽霊」画を生み出したのは、この応挙である。
▼これは、古くから画題としてあった「反魂香」という画題を意識していたからとも言われる。漢の武帝が亡き后、李夫人の姿を見ようと反魂香という香を焚くと、その間だけ美しい夫人が姿を現すという故事だ。つまり、生きている人間が死んだ人間に逢いたいという願望から、美しい幽霊画が誕生した可能性もある。
(渡辺省貞の幽霊画)
この渡辺省貞の幽霊画などは、まさにその情景を描き出したように、わたしなどには思える。
▼圓朝の創作した『怪談牡丹灯籠』に登場する幽霊・お露は、反対に生きている恋人に逢いたいばかりに現れるのだが、その際に、カランコロンと駒下駄の音を響かせてやって来ることはよく知られている。
▼そのお露を描いたとされる鰭崎英朋(ひれざきえいほう)の『蚊帳の前の幽霊』は、圓朝歿後の七回忌の年に制作されたものだ。数ある多くの幽霊画のうち、わたしは個人的にもっとも好きな幽霊画の一つである。
(蚊帳の前の幽霊、鰭崎英朋)
▼白い衣装に身を包み、足下が描かれないスタイルは応挙の幽霊を踏襲している。その表情は近代美人画の清楚な趣を兼ね備えており、恐ろしさより、むしろはかなさや美しさを表現したものといってよい。
▼ちなみに幽霊という題材は、『東海道四谷怪談』などをはじめ、歌舞伎でも重宝がられたが、能という世界は、まさに幽霊(死者)と生者との交流がほとんど題材のすべてである。まさに「幽玄」の世界と呼んでよい。
▼幽霊画には、先述のはかなさ、美しさを表現しようとする意図のものとは別の流れで、「うらみ」を表現する流れが一方ではある。こちらのほうの絵はかなり、惨たらしく、鬼気迫るものが多い。ここでは割愛する。
▼珍しく、女性が描いた幽霊画というものもある。上村松園43歳の時の作品、『焔(ほのお)』がそうだ。女性画家としての経験を踏まえ、女の情念を絵画化した本作は、松園にとっては異色作だ。一般には、この『焔』を幽霊画のジャンルに入れることはないが、この作品が人間の心の奥底に潜む「うらみ」の感情を芸術表現に昇華した傑作だという点では、あまり異論がないようだ。要するに、生きていようと、死んでいようと同じことなのだ。肉体を持っているかどうかの違いにすぎない。ただ、今回割愛する「惨たらしい、うらみの幽霊画」というものとは、明かに一線を画している。
(『焔』、上村松園)
▼不思議と幽霊画というのは、圧倒的に女性が多い。人間社会において、女性そのものが畏怖の対象といってもいいのだろう。その最大のポイントは、出産するということにほかならない。生き死にの執念が、土台、男とは数段違うのである。
▼その奇蹟を生まない男性は、そもそも画材にならないのである。慶応大学図書館所蔵の幽霊画は、(おそらく作者不詳だと思う)生まれたばかりの我が子を抱いていると思われる、後ろからの立ち姿を描いたものだ。いわゆる「産女(うぶめ)」を描いたものだ。腰から下は鮮血で染まっている。幽霊画としては、傑作の一つとして知られているものだが、これは女性でなければまったくインパクトが無い。
(産女、作者不詳?)
▼おそらく、幽霊画を描くという意思は、供養という動機が非常に強いのではないかと思う。ちょうど、怪談というものが(百物語の儀式もそうだが)、もともとは死者のことを語ることで、往生を願い、供養する意味合いから始まっていることと同じではないかと思う。
▼供養というと、わたしなどはすぐに「首切り浅右衛門」のことを思い出す。男である。だから、自身が幽霊の題材にはなりにくい。それだけに、浅右衛門一党の死者に対する供養の念の強さを思い起こさせるのだ。
▼山田浅右衛門というのは、江戸時代から明治初期にかけて、いわゆる死刑執行人として知られる一党だが、もともとそれが公務だったのではない。
▼彼らは刀の鑑定士である。これが公的な職務であり、各藩主などから依頼された刀の鑑定に携わっていた。その報酬は、ほとんどスズメの涙ほとであり、到底生きてはいけない。
▼そこで、自身が金を払い、死刑(斬首の場合)の執行を当局に頼んで、その刀で斬らせてもらったのだ。なにしろ、刀である。人を斬らねば、その太刀筋の良し悪しがわからないのだ。
▼ただ、役得のようなものがあり、自腹を切って死刑執行をやらせてもらえば、当局からはその死体をどうしようと、浅右衛門に一任されていた。
▼そこで、浅右衛門は、刑死した罪人の死体から内臓を抜き取り、薬を作って販売した。それが、いわゆる「じんたん」である。当時は「人肝丸(じんたんがん)、あるいは山田丸」と呼ばれていたようだ。
▼浅右衛門家には『胆蔵』といって胆を陰干しにする専用設備があったそうだ。胆を干しているときに下にたれる(脂肪か?)は、梅毒その他の薬として貝殻に詰めて別売した。 この場合の『肝(きも)』とは、肝臓ではなく胆嚢だろうと言われている。『熊の胆=くまのい』』という漢方薬が、熊の胆嚢を乾燥させたものだから、これと同じだ。また安物は豚の胆嚢だということだ。
▼浅右衛門家には、時々夜中に無頼の者がたずねてきて、「いずれあんたに胆を取られることになるから少し前払いしてくれ」などと言ったそうだ。 浅右衛門家では、ある程度包んでやったと言われている。
▼よく知られる『森下仁丹』は、明治に森下博が、1905年(明治38年)に「懐中薬」として発売したものだ。発売当初の仁丹は赤色(丹色)で大粒の物だったが、年を追うごとに改良が重ねられ、1929年(昭和4年)に現在の形となる銀粒仁丹が発売される。
▼医療水準が十分でなかった当時の日本において、創業者の森下博が「病気は予防すべきものである」という考えに基づき、毎日いつでも服用できるようにと、台湾出兵に同行した際、現地の住民が服用していた丸薬をヒントに開発したものだそうな。果たして森下博が、かつて日本で大いに重宝がられた「人肝丸」から、その音読を重ねていたかどうかは、不明である。
▼この人の内臓から薬をつくるというのは、昔からあったことで、江戸時代、薩摩では若者の肝試し修練の一環として、刑死者があると夜半一人で刑場へゆき、刑死体から胆を取ってくるということが行われていたそうだ。 これも薬用にしたと推測される。
▼浅右衛門家では、不思議なことがある。普通この種の役得のある家柄というのは、一子相伝で家督が継がれていくものだが、浅右衛門家では一度も、実子に家を継がせたことがない。
▼実子がいなかったのではなく、意図的に実子に家督を譲らなかったのである。そして、代々弟子の中で一番腕の立つ者に譲渡し、浅右衛門を名乗っていったのである。
▼祟りを恐れたか、それはわからない。また、この『人肝丸』の製造・販売で巨利を得ており、大変な財力があったことが知られている。そして一方では代々、惜しみなく寺を建てている。どう考えても、自分たちが斬った者たちへの供養の意味合いとしか考えられないところだ。
▼どうも男というものは、やはり芸術の対象にはなりにくい。男は結局、生々しい話で人生が終わってしまうのだ。それに引き換え、女性というのは最終的に、畏怖され、祀り上げられるものらしい。幽霊は、基本的に女でなければ、サマにならないということだ。
増田経済研究所 日刊チャート新聞編集長
松川行雄
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