【閑話休題】
[記事配信時刻:2017-12-15 15:39:00]
【閑話休題】第500回・ミューズ(芸神)
※早いもので、これで閑話休題も500回目になりました。今は便利なもので、ネットでいくらでも材料や、思想の断片を手に入れることができます。昔から忘れないように読んだ本に赤線を引いたり、大量の書き写しなどをしてきたのですが、それでも閑話休題を書き続けるのに、素材が足らなくなります。ネットのおかげで、昔と同じ苦労をする必要が、まったくなくなったことは、ほんとうに驚きでもあり、幸せなことです。
投資理論と同じく、この雑文集は、その内容の多くは、わたしのオリジナルというわけではありません。盗んで、まとめて、自分なりに咀嚼して、納得のいく文章に仕立て上げているものがほとんどです。それでも、人間の積み重ねてきた知恵や経験を、こんな形とはいえ世に伝えていくことができるのは、大変幸せなことだと思っています。長く愛読していただいている方に、改めて感謝申し上げます。
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▼一人の男が、その才能を激発させていく。そのとき、それを開花させる触媒のような、あるいはブースター(増幅器)のような女性が登場することがある。しかし、女は男を高見に押し上げる縁の下の功労者であるとは限らない。
▼それどころか、その女性自身も、相手の男に勝るとも劣らぬとんでもない才能に溢れているというケースが実際にあるのだ。残念ながら、このペアは、往々にして悲劇的な結末を迎えることが多い。今日は、そんな話だ。
▼この火花と火花がぶつかり合うような、常に危機をはらんだ天才の男女関係というのは、確かにある。ショパンとジョルジュ・サンド。あるいは、アポリネールとマリー・ローランサン。ニーチェとルー・フォン・サロメ(ルイーズ・アンドレアス・ザロメ)。
▼たいていの場合、一時的にせよ、その後生涯にわたってにせよ、男たちはミューズたちによって、錯乱に近い状態を強いられている。
▼恋と呼ぶのか、不倫と呼ぶのか。どちらでもいい。ここに、とても後味の悪い、有名な例がある。 “近代彫刻の父”と称される彫刻家オーギュスト・ロダンと、弟子である美貌の女性彫刻家カミーユ・クローデルの禁断の恋だ。
(ロダン)
▼可憐な天才美少女が中年の師匠に若さと才能を15年間捧げた末に捨てられ、神経が次第に壊れていき、48歳から30年間、精神病院で過ごし、「ロダンがわたしのアイデアを盗みに来る」という妄想にかられ、呪いの言葉を吐き続け、生き続け、78歳にして死ぬ。時代は、ちょうど第二次大戦中、ナチス・ドイツによる占領下のフランスだった。カミーユを魔女と化し、そこまで追い込んだものは一体なんだったのだろうか。
(カミーユ・クローデル)
▼不倫が、文化となりえた、というのは後世、われわれが勝手に美化しているだけのことで、当人たちは地獄絵図そのものだったのだ。
▼1864年、フランスで生まれたカミーユ・クローデルは、母親の愛情を十分に受けずに育った。長男が流産したため母親はそのショックを引きずり、次に産まれたのが娘(カミーユ)だったからだ、と言われるが、本当のところはよくわからない。なぜなら、この母親、妹のほうは溺愛しているのだ。カミーユを、最後まで支援し続け、愛したのは、弟のポール・クローデルだけだった。
▼当時、まだ女性が芸術家になることはごくまれであった。弟の家庭教師が、カミーユの芸術的才能、とくに彫刻の才能を見出した。しばらく、彼はカミーユに手ほどきをしていたようだが、その後留学しなければならなくなったので、カミーユの指導を、ロダンに頼んだのである。
▼彫刻は、力仕事である。絵画ならまだしも、女が彫刻などといって、家族からは大反対されるが、17歳のカミーユはこれを説得し、ロダンのもとに身を寄せる。
▼カミーユの美貌、才能、若さに魅了されたロダンはたちまち彼女に夢中になった。内縁の妻ローズとの間に子供もいる身で、彼女を熱心に口説き落とす。42歳のロダンに対し、カミーユは19歳だ。
▼天才同士の生活は、共同で数多くの作品を制作。ロダンの熟練とカミーユの若い感性が混じり合い、傑作を世に送り出した。残念ながら、当時のカミーユに対する評価は、「しょせん、ロダンの模倣」というものが一般的で、それがカミーユをノイローゼになるほど悩ませた。
▼現在、残る数少ないカミーユ自身の作品を見ると(90作しか現存しない。あとはすべて後に錯乱したカミーユが破壊した。)、そのまま成長すれば、恐らく大輪の花と咲き誇っただろうと思わせるほど感動的なものが多い。ロダンより、はるかに繊細な表情などの表現に成功している。
▼ロダンは、優柔不断だった。内縁の妻・ローズは、ロダンが成功するずっと前から支え続けてきた、いわば糟糠の妻(そうこうのつま)である。
(花飾りの帽子の娘~ロダンが、ローズを彫刻したもの)
穏やかな母性で、ロダンの日常をやさしく包み込んでいたローズは捨てがたく、一方芸術的刺激でカミーユを手放すこともできない。ロダンは、どちらか一人を選ぶことができず、あいまいな態度を取り続け、結局15年もカミーユは宙ぶらりんのままの生活を余儀なくされた。
▼結局この危険な三角関係が崩壊したのは、カミーユがロダンの子を妊娠したからだ、といわれている。
▼カミーユは中絶し、ロダンは次第に若さを失いつつあるカミーユを切り捨て、糟糠の妻ローズの元に戻る。このときの、カミーユの悲嘆と絶望は、「分別の年代」という作品に余すところなく表現されている。ほとんど鬼気迫る迫力の作品といってもいい。
(カミーユ作、分別の年代)
▼話は変わるが、カミーユの唯一の理解者であり、支援者であった弟のポール・クローデルだが、外交官になっていた。フランス大使として、日本に駐在している。
▼カミーユ自身は、いわゆるジャポニズム趣味の信奉者であり、熱狂的に日本芸術に傾倒していた。ポールは彼女から、葛飾北斎や喜多川歌麿を紹介され、彼自身もジャポニズムの信奉者になっていった。
▼ポールは、日本に行きたいばかりに、一番手っ取り早いのは外交官になることだと考え、実際に外交官になってしまったのである。明治23年1890年、フランスの外交官試験をなんと、トップで合格してしまったのだ。
▼もっとも、彼が駐日フランス大使として日本に赴任できたのは、アメリカ、中国、そして欧州諸国などの駐在生活を経た後、1921年になってからのことだ。第一次大戦後、ロシア革命の動乱の時代である。大正10年といったほうがわかりやすいかもしれない。
▼ポールの、日本びいきは、カミーユのさらに上を行っていた。
「日本は極東最大の陸海軍を持つ強国ということにとどまりません。日本は非常に古い文明を持ちながら、それを見事に近代文明に適応させた国、偉大な過去と偉大な未来をあわせ持つ国なのです。」
▼ポールは、在日中、暇さえあれば、能や歌舞伎、文楽に親しみ、京都・奈良を訪ねあるき、水墨や花鳥画を研究し、当時の画壇の代表的な数多くの人士と交流し、フランスにそれらを紹介していた。任が解けてフランスに帰国したのは、1927年だった。
▼昭和18年1943年。すでに、第二次大戦が始まっていたが、ポールはパリのある夜会に招待されたとき、このようにスピーチしている。
「わたしがどうしても滅びてほしくない一つの民族があります。それは日本人です。あれほど古い文明をそのままに今に伝えている民族は他にありません。日本の近代における発展、それは大変目覚ましいけれども、わたしにとっては不思議ではありません。日本は太古から文明を積み重ねてきたからこそ、明治になって急に欧米文化を輸入しても発展できたのです。どの民族もこれだけの急な発展をするだけの資格はありません。しかし、日本にはその資格があるのです。古くから文明を積み上げてきたからこそ資格があるのです。彼らは、貧しい。しかし、高貴なのです。」
▼そのポールが、ようやく長い外交官生活から母国に戻って、早速駆け付けた姉のカミーユはどうなっていたかというと、すでにロダンとの決別の後、どんどん精神を病んでしまい、母親と姉によって精神病院に入れられていたのだ。その別人ではないかと思うくらい、見る影もなくなった姉を目の当たりにして、ポールは衝撃を受けている。
▼別離後しばらくは、カミーユはロダンを失ったショックを振り払うように創作に打ち込だが、むなしかった。ロダンの愛人だったという醜聞もあり、「淫乱女だ」、「ロダンの真似でしかない」と、正当な評価が得られることは生前つとに無かった。15年である。カミーユの若さ、芸術性、情熱、美貌、そのあらゆるものをロダンは奪っていったことになる。
(ロダンのために、ポーズをとるカミーユ)
▼もともと繊細な彼女が行き着くところは、狂気であった。「ロダンがアイディアを盗みに来る」という妄想にとりつかれ、48歳の時、統合失調症を発症し精神病院に収容されてしまったのである。
▼晩年のカミーユは狂気とともに、30年もの間、精神病院の中で過ごした。ロダンへの憎しみの言葉を常時つぶやき、自分の殻に閉じこもったまま、1943年78歳で死んだ。ポールは、「才能は、姉を不幸にしただけだった」と述べている。
▼怪物級の天才といってもいいロダンは、カミーユからすべてのエキスを搾り取り、捨てた。その結果、ロダンの天才性は肥え太り、歴史に残る傑作を生みだした。
▼ある意味、三流タレントが言っていた「不倫は文化」は正しいのかもしれない。その「文化」のために、一人の女性が生贄にされたとするなら、芸術家の道に大反対をしたカミーユの家族の判断も、ある意味「まとも」であったということになる。ロダンは、カミーユのほとばしるような才能を吸い尽くし、肉体を貪り尽くし、その魂を念入りに破壊し尽くした。
▼ロダンのような天才にとっては、ローズのような大きく包み込むような母性に安住を求め、一方で自身の才能を開花させるのにカミーユのような刺激を求めた。たまたまそれを合わせもつ異性ではなく、二人だったことが悲劇の発端だったともいえる。
▼ではもし、逆にカミーユに、ロダンにとってのローズのような夫がいたら、どういうことになっていたのだろう。ロダンは、理性を失い、悪魔になっていったのだろうか。
▼実際、そういう例はある。サルヴァドール・ダリ(スペインの画家)と、その夫人、ガラ・エリュアール・ダリである。
▼ダリのような天才画家(本人が天才だと自称していた)にとって、ガラは、明かにミューズであった。
▼ところが、ガラ夫人は、性的衝動が強く、若い男を求める性向が収まらず、それは老齢まで変わらなかったというから、実際にはダリは何度も地獄を味あわされている。そして、すべての芸術的インスピレーションの源泉であったガラが亡くなると、ダリは途端に亡霊のようになり、一切絵を描かず、引きこもり、翌年死んだ。
▼ダリは、発狂もせず、怨念を抱いて生き続けることもせず、あっという間に出がらしのようになって死んだところをみると、旺盛で頻繁なガラの性的衝動にもかかわらず、家庭にはダリが望むやすらぎもあったということなのだろうか。インスピレーションも安らぎも、すべて同時に失ったダリは、だからすぐに死んだのだろうか。
▼幸せなのか、不幸なのか。非凡な人種の人生など、わたしにはとても思いも及ばない世界だが、凡人にも凡人なりの苦労はあるのだ。ただ、非凡な人たちにとってのそれを、「苦悩」と呼ぶが、わたしのような凡人のそれは、「ストレス」と言うのだ。ロダンやカミーユにとってみれば、笑ってしまいたいくらいの「かすり傷」にすぎないのだろう。
増田経済研究所 日刊チャート新聞編集長
松川行雄
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