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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第555回・ナポレオンの遺体はどこにある?

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【閑話休題】第555回・ナポレオンの遺体はどこにある?

【閑話休題】

[記事配信時刻:2019-01-04 16:46:00]

【閑話休題】第555回・ナポレオンの遺体はどこにある?

▼明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。正月明け、とはいえ幕の内なので、オカルトでも書こうと思ったのですがやめました。今年は、2019年、つまり、ナポレオン生誕250周年にあたるので、ナポレオンの遺体の謎にしました。

▼歴史家のブリューノ・ロワアンリ氏は18日、パリのアンヴァリッド軍事博物館に展示されているナポレオンのものとされるデスマスクが偽物だとの見解を示した。これが、デスマスクの真贋疑惑だけにとどまらないので、結構ミステリーである。

▼ナポレオンがセントヘレナ島で死亡したのは、1821年5月5日。翌6日に、主治医のフランチェスコ・アントンマルキによって解剖された。彼はデスマスクを取る事に強い抵抗を覚え、立ち会ったイギリス人の軍医、フランシス・バートンにその役目を譲っている。
バートンは7日、ナポレオンの死去2日後にデスマスクを取った。

▼このデスマスクのオリジナルは、ナポレオンと生前、親交があった英国人聖職者の手に渡ったとされているものだ。

▼ところが、ロワアンリ氏によれば、この本物のデスマスクはその後、直近では約25年間ロンドンの英王立統合防衛研究所の博物館に展示された後、2004年に競売に付され、個人の手に渡っている。競売価格は邦貨換算で2400万円であった。

(ナポレオンのデスマスク・オリジナル)

▼問題のマスクは、ナポレオンの墓があるパリのアンバリッド(Invalides)軍事博物館に展示されているが、このマスクについて同氏は、1815年にワーテルロー敗戦の後に英国人画家チャールズ・ロック・イーストレイクが描いたナポレオンの肖像画と違うというのである。肖像画に描かれている左頬の傷跡がないと指摘するのだ。

▼一方、ロンドンの博物館に展示されていたマスクには傷跡があったといい、同氏はさらに、パリの博物館のマスクは、大きな頭や力強いあごといった、ナポレオンのよく知られた外見とも一致しないと語る。

▼ここからがミステリーである。フランスのリベラシオン紙はアンヴァリッド軍事博物館に展示されているマスクは、ナポレオンの給仕長だったチプリアーニ・フランチェスキのものであると報じたのだ。

▼セントヘレナで1818年2月27日に先に死亡していたチプリアーニは、ナポレオン同郷のコルシカ人で、体はナポレオンより大きいが、顔立ちは比較的似ていた。死亡後、セントヘレナ島の中心街、ジェームズタウンに埋葬されていたが、後に墓地から消えてしまっているという事実があるのだ。

▼都市伝説では、本物のナポレオンの遺体は、英国本土のウェストミンスター寺院に無名のまま安置されているとする向きが多い。実際、生前のナポレオンも、「わたしが唯一恐れているのは、イギリス人がわたしの遺体をウェストミンスター寺院に安置することだ。無理にでもフランスに戻してほしい。」と述べており、生前からそうした「陰謀」というものが存在していたフシがある。

▼遺体をすりかえた理由だが、ナポレオン死亡当初は、「危険人物」の遺体をフランスに戻したくなかったということだろうと推察される。なにしろ、イエスの聖骸布や聖杯と同じく、英雄の遺品や遺体というものは、それ自体がとてつもない社会運動の起爆剤になってしまう恐れがあるからだ。

▼ナポレオン死すと言えども、ナポレオンへの敬慕や崇拝は消えるどころか、王政復古となったフランスでは、革命再発のマグマが煮えたぎっていたわけで、英国としてはその「引き金」になりうるナポレオンの遺体を、戻したくなかったということだろう。

▼ただ、その後、英仏の関係はナポレオン時代とはがらりと変わって改善していったので、その恐れはなくなっていった。しかし、いざ遺体返還となったとき、もし英国がナポレオンをヒ素で毒殺していたのであれば、遺体解剖でそれが露呈することになる。これは、英国にとっては非常にまずい事態である。それで、遺体をすり替えた、というのである。

▼今さら事を荒立てたくないフランスとしても事情は同じだといえる。「不都合な真実」が明らかになることで、英仏間の関係がこじれてしまうのは、得策ではない、ということだ。ナポレオンの遺体の再解剖検証について、何度も民間から要求がだされてきたが、フランス政府は常に拒否している。

▼ロワアンリ氏は遺体のすり替え疑惑にまでは言及していないものの、少なくとも「ナポレオンの臨終の顔とされる『偽物のマスク』の公開はやめた方が良いと語っている。この件に関して、アンヴァリッド軍事博物館を所管するフランス国防省からは、コメントを得られていない。

▼実は、ナポレオンの遺体が、すり替えられたのではないかという疑惑については、1840年の発掘→フランスへの返還当時から、存在していたのである。なぜなら、死亡して埋葬された当時の状況を記録した文書と、発掘されたときの状況記録と、あまりにも相違が大きいためである。

(発掘された当時のナポレオンの遺体写真)

☆1821年の埋葬時の状況の記録:

1 ナポレオンの棺の下には2本の材木が敷かれて、湿気が棺に達しないようにされていた。

2 三重の棺。内側から、錫(すず)→鉛→マホガニー(高級木材)の順 だった。

3 銀の拍車の付いた乗馬用長靴をはいていた。

4 白い絹の靴下をはいていた。

5 三つの飾り。レジオン・ドヌール、鉄冠章、レユニオン章を胸につけていた。

6 色あせた軍服

7 革命の3色の帽章の付いた帽子が足に載せられた。

これらの諸点と、1840年発掘時の状況記録が、まったく合わないのである。

☆1840年の発掘時の状況記録:

1 棺を支える材木が無くなっていた。

2 4重の棺になっていた。外側から、錫→マホガニー→鉛→マホガニーの順。

3 長靴には拍車が無い。縫い目がゆるんで、指が露出していた。

4 絹の靴下が無い。

5 二つの飾りしかない。レジオン・ドヌール、鉄冠章のみ。

6 非常に新しく見える軍服。

7 帽章の無い帽子が腰にあった。

どうだろうか。かなりの違いである。帽子の位置は、遺体の腐敗や棺の運搬時に変わってしまうということはあるだろうが、飾りの数、靴下、長靴の拍車、棺そのものの数や順番が異なるというのは、致命的である。
1840年パリで棺を開けたときのダゲレオタイプの写真が残っているが、それは、おおむね上記の発掘後の状況記録と一致している。確かに、埋葬時の状況記録とは違うとわかる。

▼ちなみに遺体そのものの状況について、比較してみよう。このへんは、法医学でもやっていないとよくわからないが。

☆1821年埋葬時の遺体の状況記録:

1 顔も頭も完全に剃られていた。
2 口は閉じていた。
3 顔立ちは完全に変質し、見分けがつかなくなっていた。
4 体は腐敗が進み、崩れかかっていた。
5 内臓を抜かれた体は伸びていた。

1821年、5月5日に死亡したナポレオンについて、イギリス人軍医ヘンリーが証言を残しているが、「なんと美しいことかと皆が言った。皆、こんなに綺麗で整った死に顔は見た事が無いと異口同音に言った」。としている。

▼しかし、セント・ヘレナの熱帯性気候は、容赦がなかった。6~7日には、イギリス人士官や島の住人が弔問に訪れたが、もうその時には遺体の腐敗は進み、悪臭が漂っていた。ナポレオンの侍従の回想によると、「遺体の臭いがきつくなったので、ドアや窓を開けねばならなかった。人々は側に長く居る事に耐えられなかった。」 という。

☆1840年、発掘時の遺体状況記録:

1 顔には髭が生え、頭にもいくらか髪の毛があった。
2 口は開き、3本の白い歯がのぞいていた。
3 顔は若く気品があった。顔立ちは変化していない。
4 肉体はミイラ化され、体型を保っていた。
5 内臓を抜かれた体は新鮮さを保っていた。

いずれも、内臓を抜かれていたとある。検死の際に抜かれて、廃棄されていたということかもしれないが、腐敗といったような点は、先述通り法医学でもなければよくわからない。また、もし遺体がチプリアーニのものにすり替わっていたとするなら、2年も先に死んだチプリアーニの遺体を掘り起こしたところで、執事の遺体を死亡当時に防腐処理などしておいただろうか。

▼ナポレオンの死因については、1821年の死亡時、セントヘレナ島のハドソン・ロウ総督が命じて、ナポレオンの検死解剖結果が出ている。それによると、胃癌の末期であったということだ。これが歴史上定説になっているわけである。

▼ただこの当時から、早いとこナポレオンに死んでもらいたかったのは英国であり、流刑から5年たってもまだ死なないナポレオンを、毒殺したのではないかという疑惑は当時からあった。

▼ナポレオンは生前、非常に関係が険悪だったロウ総督にこう皮肉を言っている。

「わたしたが死んで5年もすれば、ナポレオンの名は再び歴史上に燦然と輝くだろう。そのとき、わたしこの島で迫害し続けた貴公の名は、極悪人として歴史に残ることになるだろうな。」

ロウ総督はこれがかなりショックだったようで、毒殺疑惑を打ち消すように検死解剖を急いだのである。したがって、ロウ総督やイギリスが、必死に「胃癌末期説」をアピールすればするほど、フランスでは「謀殺疑惑」が強まるという皮肉な結果になった。

▼そして、時代が下って、1950年代に、ナポレオンの侍従でセント・ヘレナ島につきそった人物の日記が発見された。そこには、死亡する一か月前のメニューに、・・・

ポテトフライ
ライススープ
ポテトのスフレ
魚料理
デザート

となっており、どう考えても、胃癌の末期患者がこれだけのものを食べることはできないということがわかる。さらにナポレオンの体調について日記をたどっていくと、徐々に弱っていく様子が明らかに記録されている。ヒ素による毒殺説は、この日記からは一つの可能性として根拠が強まったといえそうだ。中毒死である。

▼さらに驚くべきことは1990年代に発見された、モントロン将軍の書簡である。モントロンは夫婦で、セントヘレナ島に赴いた側近たちの一人である。セントヘレナに赴いたときは32歳だ。もともと魚色家であったナポレオンは、モントロンの妻とねんごろになり、愛人にしていた。モントロンは、見て見ぬふりをしていたようだということは、知られている。

▼そのモントロンの書簡によると、・・・

・屋敷のネズミ退治を名目としてヒ素を購入した。
・ナポレオンの毒見役はわたしだったから、容易に毒を混入できた。
・食事にヒ素を混入し始めたら、ナポレオンはヒ素中毒症状を見せるようになった。

と書かれている。こうなると、ほぼモントロンが実行犯であることは確実である。推理の必要すらない。

▼では、英国による謀殺説というのは、これで消えたのだろうか。そうとも言えない。裏で糸を引いていたのは、英国であるという可能性はやはり捨てきれないのだ。

▼モントロンのその後がそれを物語っている。モントロンというのは、旧貴族の出身で、賭博好きの大変な浪費家だったようだ。兵士への給料を横領するという不祥事も起こしているくらいである。

▼実はモントロンは、ナポレオンとはそれほど親しい間柄ではかった。たとえば、ナポレオンが最初の流刑地・エルバ島から脱出して、フランスに戻ったときにも、モントロンは駆けつけてはいない。

▼ところが、ナポレオンがワーテルローの戦いに敗れてすべてを失ったとき、突然、ナポレオンにつき従ってセントヘレナに行ったのである。当時モントロンは先述の給料横領の件で訴えられており、さらに破産状態で債権者にも追われていた。ほかに行き場が無かったということもいえるだろう。が、それにしても絶海の孤島だ。しかも妻を従えてである。一説には、ナポレオンの遺産にあずかれることを期待して、献身的に尽くしたのではないか、という見方もあるようだ。

▼妻のアルビーヌは、ナポレオンと頻繁に夜を過ごす関係となり、なんと1818年1月26日には、アルビーヌがナポレオンによく似た女児を出産している(翌年死亡)。

▼実は、アルビーヌは、セントヘレナで二度出産している。最初は1816年6月で、生まれた女の子はナポレオーヌと名づけられた。 ただし、この子の父親はモントロンである。この女児がどういう人生を送ったかまったく不明だが、はっきりしていることは1907年まで、つまり日露戦争の後、90歳まで存命で、フランスで亡くなっているということだけだ。このナポレオーヌの次の女児の父親が上述の通り、ナポレオンだったのだ。

▼実際、生まれて間もなく、侍従長ベルトラン伯爵の夫人ファニーは「赤ん坊の顎や手が皇帝にそっくりだ」と吹聴していた。

▼後述するが、その後アルビーヌは体調を崩してフランスに戻っている(夫はセントヘレナに残った)。そして、匿名で『モイナの歌』という小説を出版した。

▼その女主人公モイナは、二人の男を同時に愛する女である。男の一人、レオは亡命して島に暮らしている人物で、政治的な理由からモイナと別れることになる。

▼この小説は美化されているものの、まごうことなく、アルビーヌが自らのセントヘレナ島での「恋愛」を告白したものである。

▼後年やはり、フランスに帰国した侍従長ベルトラン伯爵も1949年に手記を発表している。手記の原本は、暗号を用いて書かれていた。解読された原稿が出版されたわけだが、アルビーヌとナポレオンとの関係が証言されている。

▼ちなみに『モイナの歌』という小説だが、刊行自体は1823年だが、その作者は匿名であり、長いこと誰かは不明であった。それが、アルビーヌだということが判明したのは、近年、それも1998年のことである。

▼ナポレオンとともにセントヘレナに赴いた側近たちは、次第にフランスへ帰国していった。ラス・カーズ伯爵が1816年に、グールゴー将軍も1818年に島を去っている。多くは、モントロンと仲たがいをした末のことと言われている。

▼周囲がだんだん減っていくと、ナポレオンのモントロン夫妻への依存心はますます強まっていったに違いない。遺産目的であったとすれば、モントロンにしてもナポレオンの取り巻きが少なければ少ないほど良い。

▼ナポレオンが寵愛したモントロン夫人アルビーヌは、1819年7月12日に体調を崩し、フランスに帰国することとなった。ナポレオンからは20万フランの手形と、ダイヤをちりばめた肖像入りの小箱が送られる。ナポレオンは、別離を大変悲しんだようだ。(ちなみにアルビーヌは、ナポレオンの遺体がフランスに返還された1840年から8年後に死んでいる。)モントロン本人には、島にとどまるということなので、4万4000フランの年金と、14万4000フランの手形を贈与した。

▼1818年には、尋常ではない事件も起こっている。ナポレオンの信頼篤い給仕長チプリアーニと、召使の女性とその子供が突然、下腹部の激しい痛みを訴えて昏倒し、3日持たずに全員死亡している。召使の女性というのは、チプリアーニの愛人だった。3人で食事をした際の出来事である。

▼ヒ素は、グラス一杯ぐらいなら直ちに症状が現れることはないが、一度に何本も飲み干すようなことがあれば、急性ヒ素中毒で短期間に死亡する。彼らは当然ワインを常飲していたわけで、この夜何者かがワインのボトルに大量のヒ素を混入させていた可能性はある。当然、モントロン以外にはありえない。

▼ナポレオンは、ワインを瓶一本飲むようなことはしなかった。一日にグラスで一杯か二杯だったそうだ。これなら、ゆっくりとヒ素中毒が進行していくことになったはずだ。チプリアーニは、ナポレオンのワインを盗み飲みして死んだのか。それとも邪魔者を消すために、モントロンが故意にヒ素を混入させたのか、それは不明である。

▼1820年にナポレオンが死亡すると、セント・ヘレナにまで尽き従っていった主要人物たちに、ナポレオンの遺言による遺産の分配がなされた。ベルトラン伯爵に28万5000フラン。ラス・カーズ伯爵に6万フラン。忠実な従僕マルシャンに24万8000フラン。だが、モントロンには他を突き放す、なんと135万フランが分配されたのである。

▼この多額の遺産を受け取ったモントロンなのだが、浪費に浪費を重ねて、大量の負債を抱え込んだ。1828年には、妻のアルビーヌとも離婚。翌年には裁判所から破産宣告されている。

▼そこでターナーと言うイギリス人に助けられ、15万リーブル・スターリング(現在の額で70万ユーロ)の巨額の資金を融資されている。しかし、モントロンは、この金を不正に着服した。巨額の資金を騙し取られたにも関わらず、ターナーは告訴もせず、イギリス政府からもなんのお咎めも無かった。実質的には、イギリス政府から金を贈られたようなもので、何とも不自然である。

▼モントロン自身には、ナポレオンを殺害する動機は確かにあったろう。もともと、遺産狙いであった可能性。セント・ヘレナ滞在中、妻を公然とナポレオンに寝取られた遺恨。しかし、その裏側に英国政府のナポレオン殺害動機もあったわけで、もしかすると英国政府とモントロンは、グルであった可能性もあるわけだ。

▼1846年、不思議なことがある。モントロンは回想録を出版している。その中で、当時はまだ、誰も問題にしていなかった、ナポレオンの毒殺疑惑について、自分から言及しているのである。「ナポレオンには毒殺の疑いはない」と言い切っているのだ。この唐突なまでの毒殺への言及は、かえって疑わしい。

▼1853年、モントロンは多くの謎を残したまま、70歳で死去した。かつて、セント・ヘレナでナポレオンが死亡したとき、従僕のマルシャン(絵が得意だった)が、死去の現場をスケッチしている。そのスケッチには、証人として、ベルトラン、マルシャン、アントンマルキらの署名が寄せられてある。しかし、モントロンだけが意味ありげに、次のような言葉を書き込んでいる。

「わたしがナポレオンの目を閉じた」

ナポレオンが死んだとき、その目を閉じたのは、実際には侍医のアントンマルキであったにもかかわらず、である。・・・

▼さて、本当のナポレオンの遺体は一体どこにあるのだろうか? この経緯を見る限り、パリのアンヴァリッド軍事博物館の棺に眠っているのは、チプリアーニの可能性が高く、少なくともナポレオン本人ではないのだろう。

▼やはり、イギリスのどこかで、それとわからないように埋葬されているのだろうか。もっとも、ナポレオンはれっきとした正規のフリーメイソン会員である。兄弟たちもフリーメイソンに入会させていた。その発祥の地、イギリスに埋葬されているとすれば、ひそかに神格化されたような祀られかたをしているかもしれない。少なくとも、粗略に扱われているとは到底思えないのだが。

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謎多き歴史は、今も静かに進行しています。
今年も多くの謎が生まれては、消えていくでしょう。一番の謎は、わたしたちの目の前にある相場という謎でしょうか。今年もよろしくお願いいたします。

増田経済研究所 日刊チャート新聞編集長
松川行雄



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