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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第243回・独眼竜最後の賭け(後編)「残されたロザリオ」

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【閑話休題】第243回・独眼竜最後の賭け(後編)「残されたロザリオ」

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2014-02-26 15:51:00]

【閑話休題】第243回・独眼竜最後の賭け(後編)「残されたロザリオ」

▼真田幸村という人物は、父・昌幸に徹底的に仕込まれたが、軍歴自体はほとんど無いに等しかった。関が原合戦のとき、昌幸とともに、10倍もの徳川秀忠別働隊を返り討ちにした第二次上田合戦(幸村は当時33歳)に参加したのが唯一の戦歴といっていい。しかし、すでにこの時代、あのようなすさまじい戦国時代の合戦というものを、一度なりとも経験した武将たちも、次第に少なくなってきていたのだ。

▼ましてや、昌幸の神業ともいえる采配ぶりを間近で見聞したわけであるから、この経験は絶大なものがある。ちなみに、幸村という名前は実際には確認されていない。残されている手紙などでも、信繁(のぶしげ)が正しい。かつて、1561年の第四次川中島合戦で、兄・信玄の盾となって奮戦、討ち死にした武田信繁の威徳をしのび、昌幸が次男誕生の際に、その名に信繁とつけたい、そう信玄に懇望して許された経緯がある。

▼幸村(ここでは通称で書く)も、武田の遺伝子を強烈に体内に残していたのであろう。ちなみに、信玄が没したときには、幸村は6歳で、躑躅ヶ崎館にいた。大阪城での真田隊の軍装は、武田ゆかりの「赤備え」で統一。軍旗も無地の赤旗であった。
「井伊の赤鬼」など、ガセであると言わんばかりだ。本当は、家紋の六文銭を掲げたかったであろうが、徳川方には兄・信之の名代として、甥っ子たちが参陣していた。それをはばかって、あえて家紋はつけなかったようだ。しかし、武田遺臣の最後の誇りは全面に押し出したということになる。

▼まだ、冬の陣のうちは、大阪方優勢のうちに終わっていたし、後藤又兵衛とともに、篭城ではなく、積極出撃策を主張していた。だから、幸村にしても、万に一つの可能性を考えていたろう。しかし、夏の陣に至っては、積極出撃策のチャンスも失われていた。万事休す、というところだったろう。この段階では、幸村もすべての望みを捨てている。勝ち負けが問題ではなく、どれだけ見事な死に花を咲かせることができるか、だけである。

▼東軍が、四方から大阪城を目指している中、幸村は5000の兵を率いて出城。道明寺で伊達の本隊と激突する。伊達政宗の心中はいかばかりのものであったろう。「世が世であれば・・・」というところだろうが、もはや政宗としても家康の手前、どうにもならない状況に追い詰められていた。

▼道明寺では、先発隊の後藤基次(又兵衛)隊に合流するはずだったが、なんと幸村が遅参する失態をしている。果たしてこれが濃霧による本当の失態であったか、大本営・大野治長らの采配ミスだったか、あるいは幸村の意図的なものであったかは、不明である。

▼いずれにしろ、後藤隊は真田など後続部隊の到着を待たず、単独で伊達本隊に攻撃をしかけ、壊滅していた。このときの後藤隊は、死兵さながら、阿修羅のように突貫したと伝えられている。2800の兵で、10倍以上に膨れ上がっていた幕軍先鋒の水野隊、伊達の片倉隊などに対し、小松山から平地に降りての展開・突撃を敢行したのである。おそらくは、ほぼ自滅に近い突貫であったろうと思われる。

▼真田幸村は毛利勝永ら合計1万2000人で後藤を追ったが、ときすでに遅かった。ばらばらに敗走してくる先発隊の残兵を収拾し、態勢立て直しのため撤退。政宗は前線の水野隊から、鉄砲隊による追撃を要請されるが、許さなかった。このため、幸村は自ら殿軍(しんがり)となって、余裕で撤収するを得た。

▼この伊達政宗の行動は、あまりにも不可解である。大阪城を進発してきた浪人勢は、幸村のほか毛利隊、明石隊、薄田隊など中核がそろっていたわけで、一気に追撃し、まとめて壊滅させるチャンスだったはずだが、なぜか伊達政宗は、追撃指示をしなかったのだ。ほとんど見送ったといってもよい。

▼幸村は、あの有名な「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候え(東軍は、100万人もの軍勢で押し寄せてこられたが、男子は一人もおられぬようだ)」と叫んだという。が、おそらく本心は違う。幸村は、このとき伊達政宗には、自分に対して戦意が無いことを確認したのであろう。それは、戦後の処理で明らかになる。

▼伊達政宗の戦陣における傍若無人ぶりは、つとに有名である。この大阪の陣でも、援軍要請を言下に断り見殺しにし、自軍を遮るものは同じ東軍でも容赦なく、部隊まるごと撫で斬りにしたくらいである。やられた友軍が、家康に訴えても、政宗は謝罪一つせず「軍法に則ったまで」の一言ではねつけている。

▼その政宗が、西軍のうちもっとも精強な浪人勢の集団を、みすみす追撃せずに見送るということは尋常ではない。幸村との間に、なんらかの阿吽(あうん)の呼吸があったとしか考えられまい。政宗の言い草が振るっている。「鉄砲の銃弾が不足するから」といけしゃあしゃあと言ってのけたそうだ。戦(いくさ)にきているにもかかわらず、である。

▼それがなんであったのかは、大久保長安一族の悲劇的な死で、永遠に闇に葬られた。この一挙に、政宗の心中には、「不本意な戦」という本音がかいまみえるようだ。ただ、はっきりしている事実がある。幸村討ち死に後のことである。

▼幸村は、その後天王寺口で態勢を立て直し、最後の大攻勢に出る。大阪城南方は、十重二十重に東軍が重囲を深めていた。真田の赤備えは、東軍からも目立っていたようだ。幸村は、隣に布陣していた毛利勝永と事前の打ち合わせをしていたが、毛利隊が敵(本多隊)の挑発に乗って発砲、合戦が始まった。かねてから勝永と幸村は、引きつけてカウンターを打つという線で意見の一致を見ていたが、この作戦が崩れたのである。

▼勝永はいそぎ陣に戻り制止しようとしたが、ますます激化してしまった。そこで作戦を変更し、突撃に移った。これが予想外の展開で、本多隊を蹴散らすことになる。幸村もこれを見てチャンスと判断したのであろう。密集隊形で突撃に入った。

▼真田隊は茶臼山に陣取っていたが、前面左の阿倍野村には、松平忠直隊がいた。前面右の紀州街道沿いには伊達本隊(松平忠輝隊)がいた。いずれも大兵である。幸村は、伊達勢には眼もくれず、矛先を前面左の松平忠直隊に集中する。

▼総勢3200人の赤備えが、手前に分散する小部隊を蹴散らし、前面左に展開する1万5000人の松平忠直隊を強襲の末、これを撃破。中央突破したところ、左隣では毛利勝永の奮戦が、家康本陣前の旗本隊を大混乱に落とし入れていた。幸村は、その間隙をすりぬけて、さらに左奥に陣取っていた家康本陣に真一文字に突入。家康本陣は目も当てられないありさまとなり、数人の旗本に抱きかかえられながら、家康本人は馬標(うまじるし)を捨てて遁走。

▼辛くも幸村の急襲を免れたが、家康の生涯のうち、「家康ここにあり」の馬標(うまじるし)を捨てて逃げたというのは、若年の頃、三方ヶ原合戦で、武田信玄に完膚なきまで叩きのめされたときと、この真田隊による本陣突入のたったの二度である。いずれも武田の血脈が相手だったということは、よほど家康にとっては、武田の遺伝子が天敵だったようだ。

▼この後、幸村は家康を仕留めることができないまま、挽回してきた幕軍に三方から攻めた立てられ、力尽きて退却。討ち取られる。享年49歳。薩摩藩初代当主・島津忠恒(しまづただつね、義弘三男)の国許への手紙にはこう書かれている。

「五月七日に、御所様(家康)の御陣へ、真田左衛門(幸村)仕かかり候て、御陣衆追いちらし、討ち捕り申し候。御陣衆(徳川本陣)、三里ほどずつ逃げ候衆は、皆みな生き残られ候。三度目に真田も討死にて候。真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由。」

▼しかし、この大阪夏の陣において、使用銃弾数と戦死傷者数が最大を数えたこの天王寺口の激戦で、見事な働きをしたのは、幸村だけではない。早々と討ち死にした幸村の後、残軍を収容しながら、退却中に最後の猛戦を展開した毛利勝永隊の奮戦のほうが、その凄みにおいては、むしろ幸村を凌ぐものがあったというべきであろう。

▼なにしろ、幸村の家康本陣突入が成功したのは、毛利勝永の奮戦あってのことだ。天王寺口では、4000を率い、先述の銃撃戦から一転、総攻撃に判断を切り替えた。戦闘開始直後、本多・小笠原など敵前線の大将を瞬く間に討ち取り、続いて、浅野、秋田、榊原、安藤、六郷、仙石、諏訪、松下、酒井などの十部隊を次々に撃破。ついには幸村隊と相前後して家康本陣に突入している。勝永と幸村は、前者が大手、後者が搦め手(からめて)の役割分担で取り決めていたから、両者の呼吸がすべてだったとも言える。

▼このため、真田隊壊滅で戦線が崩壊すると、四方八方から関東勢の攻撃を受けて、撤退。退却においても、勝永の采配は水際立っていた。反撃に転じてきた藤堂高虎隊を返り討ちにして大損害を与え、食い下がってくる井伊の赤備えや細川忠興(ほそかわただおき)隊の追撃を防ぎとどめて、この間に残軍の城内への撤収に成功している。城内にて、自刃。

▼少なくとも、大阪夏の陣で、各所に展開した大阪方の軍勢のうち、最後の最後まで戦線を維持したのは、この毛利勝永隊だけである。幸村の勇名に半ば隠れてしまっているのは、大変残念だ。おそらく、十部隊撃破とはいえ、個々の部隊が大兵ではなかったためだろう。幸村が撃破した松平忠直隊は大軍であったから、こちらのほうが武名として晴れやかに映ったに違いない。この勝永だが、幸村と同様に、物静かで寡黙。日ごろから、温厚にして、大阪城内でも一二を争う人望だったと伝えられる。

▼かくして、大阪夏の陣は、真田隊全滅によって終局に向かう。7万8000人の大阪方と、15万5000人の幕軍の決戦の末、豊臣秀頼・淀殿(母)の自害という結果となった。100年に及ぶ戦国時代にもようやく終止符が打たれることとなる。

▼伊達政宗の不可解な行動は、さらにこの戦後に見られる。大阪は、勝ちにおごる東軍によって乱暴狼藉の限りを尽くされた。手柄を証明するための「偽首(にせくび、民間人を殺して、首を取り、敵の武将だと偽る)や、女子供への暴行、奴隷として売り飛ばすなど、凄惨を極め、大阪市内は散々に蹂躙され、地獄と化した。数千人単位で、虐殺、拉致されたと言われている。戦後、幕府はこのときの被害者の解放を各藩に命じているが、そのすべてが解放されたわけではないようだ。

▼この混乱の中で、諸説はあるが、幸村の三女・梅(阿梅)が、伊達隊・片倉小十郎重綱(重長)の陣に出頭して、捕らえられる。弟の大八( 3歳から5歳)も連れていた。最初から「阿梅」と名乗ったとか、はじめはどこの女ともわからず、侍女として使ったとか、いろいろ伝わっているが、どういうわけかこの梅だけは、とにもかくにも直接片倉陣営に保護されている。

▼美麗な女性だったようだが、12歳から17歳くらいと、年齢も伝承に幅がある。この梅が重綱の後妻となっていく。重綱の正室は、亡くなる前、後妻に梅を指名したとされるから、この梅は前妻にも信頼されていたことになる。重綱は、父親に勝るとも劣らぬ知友兼備の名将であり、「鬼小十郎」と称される。

▼もともと、伏見にあった真田幸村邸は、この伊達家重臣片倉重綱邸と、隣同士であった。幸村と、重綱がもとより親しかった可能性は高いだろう。長安の計略の有無にかかわらず、ここにも伊達(片倉)と真田を結ぶ線はあったことになる。なにより、三女が片倉陣営に事実上、匿われたという事実が、それを物語っているといっていい。もとを正せば、片倉家の先祖は、真田と同様に信州出身であったという知られざる事実がある。

▼最も、幸村のそのほかの妻子は、和歌山に潜伏しているところを浅野家臣に捕縛され、徳川方に送られたが、放免されており、家康はことさら事ここにいたって、女子供まで亡き者にする必要を感じていなかったようだが。しかし、男子となると話は別である。

▼いずれにせよ、二手に分かれて避難していた幸村の妻子たちのうち、一手が敵方の、あろうことか伊達重臣片倉陣営に自ら落ちていったというのは、あの当時の大阪市内の大混乱の最中である、およそ非現実的である。かねてからの示し合わせなり、護衛や先導役なりがついていたとしか考えられまい。少なくとも、幸村が大八を、片倉に託したという意図は間違いなさそうである。問題は、なぜ、それが伊達の重臣・片倉家だったのか、という疑問が残る。

▼幸村の長男(幸昌、通称大助)は、大阪城で秀頼たちとともに自害していることは分かっているが(享年13歳、あるいは16歳)、表向き弟の大八は行方知れずであった。この大八を伊達家が匿っているのではないか、という嫌疑がかかる。このため、伊達家では、大八は、以前に事故で死亡しているという話を捏造して流布。危機を免れている。

▼大八(本名、守信・もりのぶ)はその名を片倉久米介と改名。密かに伊達領内で生き延びるが、元服後は片倉四郎兵衛守信となり、やがて真田姓を復活させていくことになる。このときも、幕府から再び嫌疑がかかるが、伊達家はしらを切って言い逃れている。伊達家が、匿うだけでお家存続が危うくなる危険な幸村の遺伝子を、かくまで守ろうとしたのは、やはり尋常のつながりではなかったとしか言えまい。

▼さて、大阪の陣の後、やり場のない不満が鬱積する伊達政宗に、さらに追い討ちがかかる。大阪の陣の直前、どさくさに、家康は伴天連(バテレン)追放文が公布。事実上の鎖国へと舵を切っていた。支倉使節はもはや、逆賊扱いにしかならない。大久保長安の急死前後の、緊張感がピークに達していた微妙なタイミングで、家康に先手を取られた政宗は、この最後の大勝負に出る機会を永遠に失った。あとは、あまりにも長い老年が待ち構えていることになる。

▼家康は、2年後についに死亡するが、その直前、枕辺に伊達政宗を呼んでいる。後事を頼んだのであろうが、具体的になにを言ったかは不明である。ただ、家康死後、二代将軍秀忠は、突如忠輝を改易、追放としている。罪状は、大阪の陣での不行跡というものだが、すべて言いがかりである。それを言うなら、後見役の伊達政宗に重責があったはずだ。忠輝は、伊勢をはじめ三箇所を転々と回され、最終的には信州諏訪に幽閉され、92歳で亡くなった。五郎八姫は離縁となり、政宗が引き取った。

▼徳川家における忠輝の処分は、江戸時代最後まで貫かれ、死後何年たっても一切の赦免措置はなされなかった。驚くべきことに、忠輝の死から300年経った昭和59年、1984年7月3日、忠輝の墓のある貞松院(長野県諏訪市)と、徳川宗家18代目の子孫との話し合いで、ようやく彼の罪が赦免された。かくも長き流罪、が意味するものは一体なんなのであろうか。明治以降は別として、幕末まで延々と赦免がなかった忠輝の処遇というものは、やはり伊達に対する「見せしめ」の意味合いしかなかろうと思われる。

▼家康死後に起こる予定の、こうした幕府の裁定を、家康は死の間際に政宗に伝え、噛んで含めるように諭したのだろう。よくよく個人的な野望を捨て、翻意し、徳川体制の護持に勤めるよう説得したのではないか、と推測される。時代が変わってしまったのだ。政宗も変わらなければならなかった。これを担保するために、1617年、秀忠の養女・振姫が伊達の嫡男・忠宗に嫁いでいる。いったん徳川と縁が切れた伊達家は、これで再び徳川宗家の一門に連なることとなった。

▼大久保長安というワイルドカードが、果たして存在していたのか、すべては藪の中である。しかし、長安一族が根こそぎ処断され、松平忠輝が永久追放され、真田幸村も豊臣勢とともに滅んだ。伊達政宗は、戦国最後の大器のまま、不完全燃焼を運命づけられてしまった。もともと派手好みの男である。泰平の世が進むにつれて、フラストレーションからであろうか、ますます奇矯な行動が目立つようになっていった。

▼二代将軍秀忠は、その死に際して、父・家康同様、枕辺に政宗を呼んでいる。そして、かつて伊達政宗謀反の疑いが出た折、死が迫った病弱な家康が、それを押して奥州征伐を考えていたということを打ち明けたそうである。家康、秀忠と、二代にわたって、死の間際に、「野望を捨てて幕府擁護するように」と懇請された政宗である。ここに至ってようやく、不完全燃焼を収めたかもしれない。

▼幸いなことに、三代将軍家光が、伊達政宗を非常に高く評価し、実の父親のごとく慕っていたことは間違いない。大器を自認する政宗としては、唯一の慰めであったかもしれない。その後の政宗は、人が変わったように、家光を立てた。もしかしたら、家康・秀忠は、今際の際(いまわのきわ)に家光の出生の秘密を伝えていたのかもしれない。(当コラム、「第219~221回 誰が信長を殺したか」参照。)

▼それとも戦国乱世の生き証人が、ことごとく鬼籍に入っていく中で、政宗はやはりどこかの時点で悟りに達したであろうか。その資質からいって、余りにも遅く登場した戦国最後の大器も、最後はその語り部としての役割に甘んじて老年を終える。

▼乱世が終息していく時代にあって、政宗はそれに入りきらないほどの資質の大きさを、本人自身がもてあましていたのであろう。この後、時代は徹底した鎖国とキリシタン弾圧に傾斜し、国内では殉教が相次ぎ、1637年の島原の乱で弾圧はピークを迎えることになる。

▼支倉遣欧使節団が帰国したのは、1620年である。大阪夏の陣の5年後にあたる。カトリックに改宗していた支倉常長も、失意のうちに2年後に没している。政宗本人は、さらに生き続け、島原の乱の前年、1636年、68歳で逝った。幕府は、このとき江戸で7日、京都で3日、服喪するよう命令を発布している。御三家以外では、特例であった。

▼伊達政宗の外交交渉につないだ最後の賭けはこうして潰えた。ただ、その遺品の中には、驚くべきことにロザリオが残されていた。キリシタン禁令、鎖国が決定的となってもなお、晩年まで残されたロザリオに託した政宗の思いとは、一体なんだったのであろうか。

増田経済研究所 日刊チャート新聞編集長
松川行雄


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