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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第316回・強きもの、汝の名は女也

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【閑話休題】第316回・強きもの、汝の名は女也

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2014-07-11 15:11:00]

【閑話休題】第316回・強きもの、汝の名は女也

▼日本という社会がもともと母系制の強いものだったことは明らかだが、実際女性というものが、組織のトップに立つほうが、どうも座りがいいような気がする。

▼しかし、歴史的には女性がトップに立つとろくなことがない、という認識が長いこと日本では根強かった。たとえば、室町時代の日野富子のような例が悪女として知られている。応仁の乱の発端をつくった人物だからだ。が、果たして日野富子が言われているような悪女であったか、相当に疑問が多い。

▼日野富子は室町幕府8代将軍足利義政の正室。なかなか義政の子供に恵まれなかったため、義政は実弟義視を次期将軍に擁立。その後、富子が男子を生んだ。富子が実子を溺愛したため、ここに後継者を巡る幕府を二分する戦いになっていった。応仁の乱である。これが、後に幕府の権威喪失に伴い、そのまま戦国時代へと突入していく発端であった。

▼こんなことも含め、富子の事跡はことごとに悪女の所業として世に伝えられることが多くなったわけだが、つぶさに彼女の事跡を見ていくと、当時彼女の立場であったら、当然そうしたであろうということがことのほか多い。ましてや、その手腕はきわめて合理的かつ、政治力に富むもので、とても悪女の名に値するような女性ではなかったろうと推察される。

▼富子は戦いの全時期を通じて細川勝元を総大将とする東軍側にいたが、東西両軍の大名に多額の金銭を貸し付け、米の投機も行うなどして一時は現在の価値にして60億円もの資産があったといわれる。悪女と呼ばれた女性の多くは、たいてい「できる女」である。

▼一般に男性は現実主義的で、女性はロマン的だというイメージが強く、そんな風に語られることも多いのだが、実際にわたしたち生身の人生を送っていると、このイメージと相当女性の実体というものはかけ離れていることがわかる。

▼女性こそきわめて現実的で、馬鹿がつくほどロマン的なのは男性のほうである。この究極のパターンは、恋愛において顕著に見られる。女性は恋愛遍歴の過去の相手というのは、基本的には「上書き」されてしまい、記録が残らない。男性の場合は、「フォルダー」管理をするから、いつまた「焼けぼっくい」に火がつかないとも限らない。昔付き合った相手と寄りを戻そうとする傾向が見られるのは男性のほうに圧倒的に多い。いわゆる「未練」である。しかし、女性はきわめて例外的だ。

▼危機に際して女性が弱い、狼狽しがちだというのも、間違っている。女性のほうが、男性よりはるかに肝が座っているのが普通だ。これは究極的には、思春期から自分の血を見る生活を送り、子供を産むというとんでもない事業もあったりするものだから、実際に産む産まないにかかわらず、生物学的に昔から命の危険というものに、強烈に防衛本能が働くためだ。

▼このように女性は、「覚悟のほど」では男性よりはるかに優っているが、一見すると防衛意識が強いために、男性からすれば「弱い」と誤解されがちなのだ。実は、弱くない。攻めるより、守るほうが、強靭さが要求されるからだ。

▼鎌倉幕府は三代で嫡流が途絶えたが、執権北条氏がこれを継承した。夫(源頼朝)も、後継ぎもあいついで失った北条政子を襲ったのは、朝廷による倒幕運動という試練だった。承久の変である。

▼後鳥羽上皇は、鎌倉幕府追討の院宣を各地の武士に発し、これに応じる動きは確かにあった。鎌倉幕府は、「朝敵」となってしまい、御家人たちの動揺は大きいものだった。その御家人たちに、北条政子が激を飛ばしたのである。

▼「皆心を一にして奉るべし。これ最期の詞なり。故右大將軍(夫・頼朝)、朝敵(平氏)を征罰し、關東を草創してより以降、官位と云ひ俸祿と云ひ、其の恩既に山嶽よりも高く、溟渤よりも深し。報謝の志これ淺からんや。而るに今逆臣の讒(ざん)に依り非義の綸旨(りんじ)を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康・胤義等(朝廷側)を討取り三代將軍(故実朝)の遺蹟を全うすべし。但し院中(後鳥羽上皇)に參らんと慾する者は、只今申し切るべし。」

▼伝えられているところによると、政子の涙ながらの必死のシュプレヒコールに、御家人たちは奮起、上洛戦を遂行して、上皇についた武家軍団を圧倒したということになっている。やはり、土壇場で強いのは、女性のようだ。

▼尼将軍と呼ばれた北条政子は、巡り合わせで朝廷を敵としたため、俗史では「悪女」とされてしまったのだろう。

▼この女性の強さというのは、夫婦どちらが先立つかでもはっきりわかる。海外はいざ知らず、日本ではどうも女房に先立たれた男の惨めさというのは、筆舌に尽くしがたい状況に陥ることが多い。いわゆる腑抜け、である。一方、順当に夫が先に逝った場合には、結構女房殿はしっかり生き続ける。

▼戦国期には、実力の時代だっただけに、女性の活躍もひとしお例が多くなってくる。毛利の勇将・熊谷信直の母親の逸話は有名だ。夫・元直が戦に敗れて討ち死に。家臣らは、遺体を持ち帰らずに逃げ帰ってきた。これに彼女はことのほか憤激した。夜半、野犬や野盗がうごめく夜の戦場(いくさば)に走り、夫の遺体を探した。首が無かったろうから、見つけるのは大変な作業だったろう。ようやく遺体は見付けたものの、女手で持ち帰るにはあまりにも重く、泣く泣く右腕のみを切断して持ち帰った。その腕は熊谷氏の菩提寺である観音寺の井戸で洗われて、埋葬されたと言う伝承が残っている。このへんにも、女の執念を感じる。

▼もっと女性の凄みを効かせた例もある。九州は大友宗麟家臣、吉岡妙林尼だ。夫が、大友軍にあって、耳川の合戦で島津軍の前に討ち死にしてから、剃髪している。

▼息子が大友家の臼杵城に兵を連れて出征したため、妙林尼が鶴崎城を預かった。ところが、手勢はほぼ臼杵防衛のために出払っており、侍女たちしか在番していない、まったくの空城同然となっていた。

▼これに目をつけた、島津家久は、3軍を差し向け、鶴崎城攻略を命じたのだ。本来なら、降伏して当然だったが、妙林尼は地元の百姓らを動員して、畳や杭など持ち寄らせ、城を要塞化したのだ。百姓にまで鉄砲の撃ち方を教えたとされる。

▼島津軍は、16波に及ぶ攻撃を繰り返したが、絶妙なゲリラ戦による籠城に攻めあぐねた。やがて、鶴崎城内は兵糧も尽き始め、一方島津軍においても、秀吉の九州征伐(島津追討)軍20万が押し寄せてくるという報せもあって、家久から本隊への合流命令が出る。

▼妙林尼は、一転して降伏。城を明け渡した。そこで、島津軍を迎え、酒宴を張ったとされるので、おそらく侍女たちに言い含んで、相当の色仕掛けも計っただろう。伝承では、そういうことになっている。

▼まったく骨抜きにされた島津の鶴崎攻略軍は、家久との合流に向かうが、この際妙林尼は、「自分たちは、大友を裏切り、島津と通じてしまったため、復帰できない。薩摩に連れて行って欲しい」と懇願。島津軍は了承、妙林尼は後を追うからということで、まずは先を急ぐ島津軍は鶴崎城を先発。

▼ところがこれが罠だった。妙林尼はハナから島津に下る意思など毛頭なかったのだ。追随してくる妙林尼たちを待ちながら、緩慢に行軍していた島津軍を、妙林尼の率いる伏兵が一斉に奇襲。島津軍はさんざんに打ち崩されて殲滅。なんと、高級武士63首を大友宗麟に送ったという大金星を挙げた(寺司浜の戦い=乙津川の戦い)。

▼このあたり、当時の薩摩人の人の良さ、直線的な思考が裏目に出たわけだが、薩摩ならずとも、誰しもこれでは篭絡されてしまうだろう。女というものの、徹頭徹尾合理主義的、現実的な執念の怜悧さや凄みに言葉もないような逸話である。映画の中のエピソードではないのだから、脱帽だ。

▼九州には、女のこの凄みというものを示すもう一つの逸話がある。やはり大友家臣だが、立花道雪(たちばなどうせつ)の娘、?千代(ぎんちよ)だ。道雪はもと、戸次鑑連(べっきあきつら)と言う。

▼あの武田信玄をして、「生きているうちに、一度会いたいものだ」と言わしめた戦国きっての名将である。男子に恵まれず、娘が一人だけいた。それが?(ぎんちよ)千代だ。かなりわがまま放題に育ててしまったのか、まったく男勝りのいわば姫武者然とした人物だったようだ。なにしろ、道雪が、7歳だったに?千代後を継がせることで大友家の承認を得ているのだ。まったく男として育ったといっても過言ではない。

▼道雪は、立花家の名跡を継いだので、婿を取りたかった。それで、同じく大友家臣で、道雪と並び立つ高橋紹運(たかはしじょううん)の子、宗茂を迎えたいと懇請する。紹運としても、大事な跡取りであるから、断り続けたが、とうとう根負けして了承する。

▼宗茂は、二人の名将を父に持つサラブレッドということだが、実際、父親たちに勝る器量であったことは、歴史が証明している。残念ながら、?千代(ぎんちよ)と宗茂は、あまり夫婦仲は良くなかったらしい。

▼時代は下って、関ヶ原合戦。西軍側についていた立花宗茂は、当時の彼らの在所であった柳川には不在だった。宗茂が不在の間、城の守りは妻である?千代(ぎんちよ)が任せられていた。そのため侍女たちとともに武装し、敵からの攻撃に備えていたという。

▼居館から甲冑を着て出撃、先に柳川西側の渡船口にて鉄砲隊を構え射撃して、西軍から寝返った鍋島水軍を近づけず、そして南側へ往き、自分が別居中の宮永村に攻め寄せる加藤清正軍を威嚇。地元民も?千代(ぎんちよ)勢に加担して、難儀な戦になることを恐れた清正は、迂回していったという逸話が残されている。

▼時代は、晴れて封建的な風土が一掃され、今や男か女か一見してわからないような社会現象すら出てきているが、ますます女性の台頭というものは、顕著になってくるだろう。立花?千代(ぎんちよ)のように、その場所と機会を与えられれば、いくらでも現代の姫武者は登場してくるに違いない。

▼たびたび日経新聞などでも報道されているように、まだまだ日本における女性の社会進出は、企業経営者の女性比率が世界的にも(アジアと比べても)はるかに低い日本である。かたや、一番世界の先頭を走っている米国では、連銀総裁に女性が就任し、次期大統領候補に、ヒラリー・クリントン民主党議員が出馬するかどうか、ということさえ取りざたされている。本人もまんざらではないようだ。

▼日本で、日銀総裁に女性が就任するというのは、テクノクラートの世界だけに、まだ熟成時間が必要なのかもしれないが、首相であれば、十分にチャンスがあるだろう。

▼ちなみに、男女の人口比率というのも、女性の社会におけるイメージや地位に影響を与えているということもある。日本では若干男性が多いようだが、あまり極端な差にはなっていない。適齢期では、男106人に対して、女100人。若干男が多い。高齢者では、男100人に対して女126人。これは、やはり男が早死するという明らかな統計かもしれない。

▼ところが韓国では、一番重要な結婚適齢期の男性が来年から激増、「花嫁さん探し」が困難になると予想されている。結婚適齢期にある韓国人の男女比は男が女より2割増しで多いそうだ。また、インドでも、男性人口が女性人口に比べ約4千万人多くなっている。経済や所得の状況、あるいはもっと根深い歴史的な女性蔑視の社会風土などが絡み合ってか、どうも韓国・インドは、強姦殺人事件があまりにも多すぎる。

▼逆にロシアでは結婚適齢期のロシア人男性は「供給不足」となっている。ニュージーランドでも「男性不足」が起こっている。

▼ある国では、男性が“売れ残り”、別の国では女性が売れ残っている。国際結婚という選択肢は、この問題を解決するための良い方法かもしれないが、大量の混血児が誕生することで、民族国家に新たな問題をもたらす可能性は確かにある。

▼こうした人口バランスが大きく偏ることは、どちらにしても女性にとっていいことではない。やはりバランスが重要なのだ。今日本はまだバランスに、極端な偏りはないものの、人口そのものが減っていくという根本的な問題が露呈してきている。女性の力を借りなければ、成り立たなくなっていくという傾向から言えば、女性にはフォローの風が吹いているとも言える。

増田経済研究所 日刊チャート新聞編集長
松川行雄


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