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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第337回・絶体絶命 その2〜家康、生涯の惨敗戦

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【閑話休題】第337回・絶体絶命 その2〜家康、生涯の惨敗戦

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2014-11-28 17:05:00]

【閑話休題】第337回・絶体絶命 その2~家康、生涯の惨敗戦

▼絶対絶命の窮地から、どう脱するかという話の続きだ。前回は、武田信玄の三増峠合戦を取り上げた。今回は、この計算し尽くしされた揚動戦術の、直接の継承者である徳川家康にスポットを当ててみよう。その最高傑作が、天下分け目の関ヶ原合戦・1600年慶長5年だ。

▼わたしたちは、関ヶ原というと、ともすると東軍(家康)が勝ったという結果だけのイメージばかりが先行するが、実際にはきわどいどころか、東軍はどう見ても不利であった。家康が凡庸であったら、実は必敗の構図である。

▼そもそも、東軍は一枚岩ではなかった。豊臣恩顧の武将たち、徳川プロパー(はえぬき)の武将たちの間には、疑心暗鬼が潜在した。東北で上杉景勝が反旗を翻し、これを鎮圧するという名目で、家康が上杉征討軍を率いたわけだが、その直後、大阪では石田三成が毛利の大軍を擁して家康討滅の旗を揚げた。信州・上田では、曲玉(くせだま)と言って良いほど、徳川が大の苦手とする真田昌幸が呼応している。

▼要するに、家康は東西に挟撃され、信州には鋭い匕首がこちらに向かってぎらりと光っていた格好になる。石田勢が豊臣秀頼を奉じているだけに、東軍内の豊臣恩顧の武将たちも動揺をきたした。この内部分裂のリスクを内包した東軍を、家康は一体どう対応したのか。

▼戦略だけではない。最終決戦場となった関ヶ原戦役の各論の戦術においてもそうである。明治期、日本の陸軍を教えに来たドイツ軍の教官メッケル少佐は、布陣図を見て「西軍の勝ち」と論評し、史実では東軍が勝ったと知らされ驚愕したという話は、真偽のほどは定かではない。が、西軍が、東軍を高所から包囲殲滅する態勢であるから、通常家康はよほどの策が無ければ惨敗する。メッケルならずとも、あの布陣図だけを見て、東軍勝利を確信するのは、きわめて困難だ。

▼しかも興味深いことに、西軍をして「関ヶ原を決戦場に」と誘導したのは、ほかならぬ家康なのである。ここに、家康が見せた揚動戦の妙がある。なぜ、家康は自ら死地となる関ヶ原に、優勢な西軍を誘導したのか。

▼それには訳がある。関ヶ原から遡ること27年前、元亀3年の三方ヶ原合戦で、信玄の前に無残な大敗を喫したことがそもそもの始まりだった。その敗戦があってこそ、家康は信玄の揚動戦術の鮮やかさに、心底魅せられることになったのだ。今日は、やがて関ヶ原に通じることになる、その三方ヶ原合戦のことだ。

▼三増合戦の後、北条家と再び盟約を取り付けることに成功した信玄は、後顧の憂いなく、織田信長との決戦を準備していった。信玄はすでに、自分の健康状態が優れないことから、生きているうちに信長を掣肘(せいちゅう)しておかなければならないと思い切ったようで、しゃにむに決戦を求めた。信長がいかに、なだめようと、へりくだろうと、まったく信玄は取り付く島の無いほどだった。

▼信長も信長である。自分には戦意が無いことをこんこんと訴えながら、一方では家康を防波堤に使おうとしていた。3000の援軍を差し向けているが、すでにこのとき可能動員数4万を下らないほど強大になっていた信長にしては、やけにケチな援軍である。

▼一説には、信玄を刺激したくない、という配慮だったとも言われるが、聞く耳持たずに決戦を求めてくる信玄相手に、数の少ない多いは関係ない。家康に援軍を出したということ自体、ますます信玄に決戦の口実を与えるものでしかない。

▼信長は、援軍を送りたくとも遅れなかったのだ。信玄が、足利将軍家、大阪の本願寺勢力、北陸の浅井・朝倉など、完璧な包囲網を築くことに成功しており、各所に信長は軍を配備しなければならない状況に追い込まれていたのだ。三河方面に割ける動員兵力は限られていた。信長こそこのとき絶対絶命であったのだ。

▼が、その話は良い。主人公は家康である。お情けていどの援軍を得ても、家康の動員兵力は1万1千でしかなかった(三河兵8千)。いかに三河兵が剽悍(ひょうかん)にして強兵であるといっても、3万近い信玄の前にほとんど勝算は無かったといっていい。信玄の軍には、北条から援軍2千も加わった。とてもではないが、家康に勝ち目は無い。

▼家康の立場は絶望的である。味方であるはずの信長は、自分が危地に陥れば、容易に徳川を切り捨てて、信玄に平気でおもねるであろう。信長にしてみれば今、決戦を回避できさえすればよいのだ。後々、武田との国力差が決定的になってきた段階で(すでに織田家の国力は、信玄のそれを急速に上回りつつあった)、あらためて武田を料理すればいいだけのこと。信玄には時間が無いが、若い信長には待てる時間がある。

▼「今は、タイミングが悪い。家康には、捨て石になってもらおう。その間に、時間稼ぎが出来ればよいのだ。」そのくらい信長が考えていることは、家康は百も承知である。といって、家康が簡単に無血降伏したのでは、信長にしてもたまらない。まずは、徳川が潰れても構わないから、できるだけ抗戦させて、武田軍を消耗させ、今回は織田との決戦を回避する方向に向かわせれば助かる。とにかく信長は時間稼ぎに徹した。そのためには、督戦隊(強制的に戦闘を強い、監視する部隊)として、3000の「援軍」を差し向けたのである。

▼かと言って、家康がここで戦わずして信玄に降伏すれば、どうなる? しかも信玄が、信長の思い切った譲歩案や、財宝攻めに篭絡(ろうらく)され、結局情にほだされて、矛を収めてしまったら? 織田・武田の交渉の推移次第でどうなるかわかったものではない。

▼徳川の去就が、万が一にも信長の差配に委ねられてしまった場合には、信長のことである。裏切り者として、今度は自分が殺(や)られる。

▼どちらに転んだとしても、ここは独力で、尾張を目指して遠征してくる信玄と、その途上にあたる、この浜松で死に物狂いで戦わざるを得ない。これは、家康としては、ほとんど悲壮な状況であり、十二分に同情に値する。

▼信玄は周到である。信長との決戦を前にして、小石のように転がる徳川方の勢力を叩くのに、できるだけ自軍を損耗してはならなかった。事前に多数の乱破(らっぱ、工作員)を放ち、遠江・三河の地誌、河川、勾配、風土・習慣、税制、補給線、およそ国力に関するあらゆる情報の収集を行い、万全の三河侵攻計画を立てている。

▼しかしこの頃になると、信玄の体調はときに優れないことが多くなり、最後となる遠征も、予定より1ヵ月遅れとなった。侵攻ルートは三手に分かれていた。

▼赤備えを含めた山県昌景の5千人は、9月29日に諏訪から東三河に南下。徳川の東三河支配の重要拠点であった長篠城を下した。奥三河など山家三方衆は、徳川を見限り武田に恭順。馬場は、ほぼ無血行軍を重ねて、東三河に突入。

▼秋山信友(虎繁)の5千人は、山県とほぼ同時に高遠から東美濃に侵攻。織田の東美濃支配の中心・岩村城を包囲、11月に下した。これで、徳川を一蹴すれば、東美濃、三河から一気に尾張に侵攻できる態勢が整った。

▼信玄本隊2万2千人は、10月3日甲府を進発。山県と同じく諏訪に迂回し、そこから南下、遠江になだれこんだ。途中、北遠江の有力国人・天野氏が降伏。その犬居城で馬場信春に別動隊として5千人を預け、西の只来(ただらい)城に向かわせ、自身はそのまま南進、二股城攻略に向かった。

▼総計3万余りの軍勢は、当時の武田の最大動員兵力であるから、ほぼ総力戦の覚悟で信玄が動いたことは間違いない。

▼とくに信玄本隊の侵攻は凄まじく、普通であれば支城一つを落とすのに1ヵ月を要したが、このときは平均3日で次々と徳川の支城を陥落させていった。これに対して、家康は遠江防衛に割けたのが、わずか8000人余り。

▼10月13日、馬場別動隊は二股城を包囲。信玄本隊も、向かっていた。家康としては、なんとしても二股城の陥落は免れたかった。ここは、本拠地・浜松と、掛川城や高天神城を結ぶ重要地点だったからだ。二股が落ちれば、遠江は失陥したも同然。それどころか、浜松が裸城になってしまう。

▼このため、敵の威力偵察に出た。徳川家きっての勇将・本多平八郎忠勝が斥候隊で先発、自身は3千人を連れて追った。ところが、予想もしないほどの進行速度で迫っていた信玄本隊と遭遇、一言坂で前哨戦を行う羽目に陥った。

▼本多の斥候隊は、信玄の先鋒隊と遭遇するや、一戦したのみで直ちに撤退。しかし、武田の追撃はきわめて急速であった。徳川勢が陣形もままならない状態で遭遇戦に陥ったのを見て取り、一気に猛攻を加えてきたのである。結局、本多隊に合流した家康本隊ともども、望まない形で、あろうことか信玄本隊との戦いを強いられる結果となった。

▼本多と大久保忠佐(ただすけ)は、殿軍(しんがり)をつとめて、武田の猛攻の盾となり、家康本隊の戦線離脱に成功する。

▼馬場信春は撤退戦を続けるこの本多隊に容赦なく攻めかかり、三段構えのうち二段まで突き崩した。一方では鉄砲隊を主力とした分遣隊を本多隊の後方に迂回させ、退路を断った。分遣隊は、信玄の近習(きんじゅう)・小杉左近が率いていた。一言坂を下った地点で一斉掃射の迎撃態勢を整えていた小杉分遣隊に対し、本多忠勝が行ったのは討ち死に覚悟の「適中突破」であった。

▼死兵と化し、坂道を奮迅の勢いでかけおりてくる本多隊の突貫を見て、小杉は危険と判断。兵士に道を空けさせ、そのまま本多隊の退却を見逃した。本多忠勝が小杉隊の中を突破していく際、武田勢に対し、「武士の情けを心得ている者とみた、お名前を承りたく。」これに対し、「小杉左近と申す乱心者よ。はようわしの気が変わらぬうちにおのきなされ!」と答えている。本多忠勝は感謝を述べて、戦線を離脱した。

▼後、一言坂には落首が立てられた。

家康に過ぎたるものが二つあり、唐(から)の頭(かしら)に本多平八

書いたのは、ほかならぬ小杉左近であった。唐の頭とは、ヤクの白く長い毛をあしらった兜のことだ。高価なもので、家康が愛用していたという。左近が信玄から咎めを受けたか、あるいはまたこの後武田家に降りかかる災難と滅亡の歴史に、左近がどう向かい合っていったのか、歴史は何も語っていない。しかしこの落首で、本多平八郎忠勝の名は大いに知られることになった。

▼本多忠勝の決死の殿軍によって、浜松に帰還できた家康だが、二股城を救う手立ては何一つなかった。12月19日、ついに二股が陥落した。家康の遠江支配は、音を立てて崩れ、武田に寝返るものが後を絶たなくなった。

▼家康は、信玄の狙いはこの浜松であると判断し、篭城(ろうじょう)戦を覚悟した。織田の援軍3千と合わせて1万1千。武田勢は2万2千。篭城したところで、信長がさらに援軍を寄越してくるとは到底思えず、それこそ城を枕に討ち死にも覚悟していた。

▼家康の心中に去来したのは、この信玄の西上戦で、最終的に織田・武田いずれが制するにしろ、自分としてはここで徹底抗戦をすることで武名を挙げておくことが、最良にして唯一の選択であるということだった。この一戦で存在感を示せば、織田・武田のどちらに降るにしても、軽んじられることはない。もちろん、浜松篭城戦を生き延びることができれば、の話だったが。

▼ところが信玄は、そんな家康の立場を十分すぎるほど熟知しており、そうして浜松に篭る1万1千もの軍勢を攻め立てるのは得策ではないと考えていた。とんでもない消耗を強いられるであろうし、自軍が2万でも足らないくらいである。信長との決戦を控えた信玄としては、浜松で時間も将兵も失いたくはなかった。そして、信玄は、策を打てば、家康が必ず城から出てくると踏んでいたのだ。

▼家康は遠江をほぼ失陥したとはいえ、三河西部はまだ掌握している。しかもそこが本来の地盤である。従って、信玄が浜松を半ば愚弄するかのように通過してしまい、三河に侵攻をしかければ、家康は浜松などに逼塞してはいられない。矢も立てもたまらず飛び出してくると読んでいた。しょせん遠江は、家康にとっては占領地である。しかし、三河は地盤である。そして、事態はその通りになった。

▼信玄は、12月22日二股を発し、浜松城を目前にして、進路を変更。突如として、南下を止め、全軍を(おそらくは三隊に分けて)西方の三方ヶ原台地に上がり始めたのだ。家康がこれを屈辱と思ったか、罠だと思ったか、これまで述べてきたような状況判断をしていたかは、定かではない。が、結果として、家康は全軍を率いて浜松城を出た。

▼当初は、武田勢が三方ヶ原に上がっていく様を遠望していたが、やがて斥候の報告で、「武田軍は、三方ヶ原を横切り、逐次祝田坂を下りつつあり」ともたらされた。坂を下れば、そこはもう三河である。家康に残された最後の所領だ。信玄はそこを突くと見せかけたのである。

▼一方、少なくとも、この段階で家康には勝機があると判断したのだろう。大軍が狭隘な坂道を下っていくところを、背後から全力で叩けば、万に一つの勝算も考えられたのかもしれない。

▼徳川勢は息せききって三方ヶ原に駆け上がった。しかし、そこにはそれまで想像もできなかったような、とんでもない光景が広がっていた。驚くべきことに、ごく短時間の間に、武田全軍が攻撃態勢でこちらに相対していたのだ。信玄は、確かに祝田の坂を下るように命じていた。しかし、後方部隊から下っていただけで、前衛・中核ともにいつでも反転・攻勢に直るように下知していたのである。徳川方の斥候が来ていることを承知で行った「偽装工作」である。家康が、おっとり刀で駆けつけ、武田に攻撃をかけるとすれば、もっとも無防備状態となる祝田坂を下るとき以外に考えられなかった。

▼罠にはまった徳川勢は、まさに蛇ににらまれた蛙のようなものであった。信玄の陽動戦はここで完璧なまでに徳川勢を近接する射程内にとらえ、野戦で粉砕できる状況を作り出していたのだ。いったん台地を上がってしまった以上、今から下るわけにはいかない。家康たちは逆に自分たちが、悲惨な無差別殺戮の餌食と化してしまうことに気づいた。

▼記録では、このとき信玄は魚鱗の陣形(攻撃用)、家康は鶴翼の陣形(防御用)にしたと言われているが、家康にそんな余裕があったかどうかは不明である。ただ、呆然と、横に広がって武田勢を見守っていたというのに等しいだろう。

▼また、信玄が魚鱗だったというのもできすぎている。むしろ数的には圧倒的に優勢であったのだから、鶴翼で徳川勢を押し包んでしまったほうが、皆殺しにできる。このとき、午後四時である。冬は、日の落ちるのも早い。

▼「夜よ来い」…それが家康が祈るような思いでいた唯一の活路であったろう。夜陰に乗じて、遁走する以外に道はなかった。しかし信玄はそれも許さなかった。先鋒の小山田隊に対し、敵に投石をするように命じたのである。鉄砲ではない、こぶし大の石つぶてである。

▼人間、石を投げつけられるほど頭にくることはない。しかもなかなか致命傷に至らないだけに、感情の激昂に火をつける。投石器、手投げを問わず、雨あられと降り注ぐ石つぶてに、徳川勢は悲鳴とともに、憤りが爆発した。家康の厳重な制止にもかかわらず、武田軍に突撃する部隊が、随所に続出してしまったのである。

▼もし徳川勢がほんとうに鶴翼の陣形で、防御に徹しようとしていたのであれば、確かにこの石つぶては効果的だった。攻撃にはもっとも似つかわしくない、薄い横隊(鶴翼)のまま徳川勢は、制御不能のうちに突撃を強いられたことになる。いずれにしろ、信玄は弱者から先手を打たせようとしていたことは間違いない。徳川に切れるカードは限られている。それに対して、信玄は何枚ものカードを用意できるのだ。

▼三方ヶ原合戦は、ほぼ夜戦といっていい。乱戦状態になったのは、もはや闇同然の環境であった。当初、徳川勢は、狂ったように突進して、武田の先鋒・

▼小山田隊を押し潰した。小山田隊を右翼後方から支えていた山県隊すら後退を余儀なくされたくらいである。

▼やがて武田勢が押し返し始めたところで、信玄は武田勝頼隊に左を迂回して、徳川勢の右翼から突き崩すように命じている。徳川勢の右翼には、織田の援軍が張っていたのである。ここが一番戦意が無いと踏んだわけだ。

▼中央では、本多隊が山県隊すら押し捲る勢いだったが、勝頼の横槍で、織田援軍から崩れ始めていた。本多隊が突貫すればするほど、徳川勢は武田の包囲網に陥る格好になってしまった。あとは、闇の中での一方的な殺戮に近い状態となっていく。

▼家康本陣にも、甲州兵の切り込みが始まるに至って、家康も戦線を離脱。数名が「家康」の名をかたって身代わりとなり、追撃を受け止めては落命している。とくに山県隊の追撃は執拗であったようだ。ただ、俗に言われている犀の崖での戦いは、後世の創作のようである。中国の古戦史に同じものがあるので、これを利用したものであろう。

▼基本的に信玄は、浜松を落とすつもりなどハナから無かった。重臣たちの間には、今なら、落とせると進言する声が多かったようだが、信玄は許さず、勝どきを挙げる。要するに、これから三河、尾張と侵攻していく上で、後方に憂いを残さないようにするのが、この戦いの目的だったのだ。家康から当面戦闘能力を奪うだけで十分であった。また、信長を制した後には、家康は黙っていても下る。そうすれば、もともと地の人間である、重用すれば遥かに利用価値が高い。

▼ましてや、三河兵がどれだけ強兵であることか、確認できただけでも十分な成果であった。むしろ後々真田のように、有力な家臣団になっていくことも十分考えられた。信玄には迷いはなかった。撤収し、直ちに祝田の坂を下っていった。

▼両軍の損害は、諸説あるが、おおむね武田が200から500人。徳川方が500人から1000人というところだったようだ。古来、20%が損耗すれば、壊滅と同じとされてきた。負傷者の搬送に、最低でも2人から3人は必要である。また、20%の損耗が出る被害状況というのは、科学技術の進歩にかかわりなく、ほぼ指揮系統は完全に寸断された状態になっていることが多い。仮に徳川方が1000人の損耗であったとすれば、壊滅までは至らないが(闇夜が、家康を救ったのである)、それに近い状態だったと想像できそうだ。6時には戦いは終わっていた。

▼この後、信長との決戦を望んでいた信玄だが、三方ヶ原ですでに喀血が始まっていたとも言う。三方ヶ原合戦の後で著しく容態が悪化している。刑部(おさかべ)で越年し、翌元亀3年1月、三河の野田城を落とす。病状悪化が増し、長篠城に入って療養するが、4月には武田勢は全軍甲府へ突如として撤収を始める。諸説あるが、この時点で信玄は落命していたと思う。

▼信長も、また家康も、信玄の突然の死で命を長らえることとなったが、家康の心に残した信玄の印象は鮮烈であった。三方ヶ原から浜松城に逃げ帰る途中、幾度となく山県の手の者に追いつかれそうになり、伝えられるところによれば、馬上で脱糞してしまうほど恐怖に駆られたという。「あな恐ろしや、げに山県という男は」と口走っていたそうな。

▼そして、このときの自分の浅薄な判断、軽率な行動を猛省し、絵師を呼んで、恐怖に震える自画像を即座に描かせた。それが今に残る「しかみ像」である。生涯この絵を見ては、三方ヶ原のことを思い出し、慢心を戒めたという。

▼10年後、勝頼の時代に武田家が滅亡すると、家康は信長による酸鼻をきわめた武田残党狩りの中で、ひそかに武田の旧臣を根こそぎ匿った。とくに中核をなした山県隊(赤備え)出身者など重用し、井伊直政のもとに徳川版「赤備え」を創設する。

▼信玄の時代に、抜群の働きをする武士は、「采配御免」と言って、直属の指揮官の命に従わなくてよいとされていた。なかでも有名な広瀬郷左衛門は、山県隊に属していたが、余計な指示・命令など無用。それより、自由に戦わせたほうが、返って見事な働きをするという、武田家中にあっても最強の豪の者、それが「采配御免」の武士たちである。

▼広瀬も、自分の眼力だけで歴戦を武勲で飾ってきた男の一人である。広瀬は、武田滅亡の際、家康はまずこの広瀬を探し出せ、と命じたそうだ。広瀬は家康に請われて徳川配下となったが、広瀬のほか、こうした「采配御免」の甲州武士を始め、多くが井伊の赤備えを構成していくことになる。徳川の家臣団として、明治まで存続した武田出身「采配御免」の武士は、20家に及ぶ。

▼広瀬の場合は、後、徳川の大軍が上田城を包囲しようとしたとき、ただ一騎で城門まで馬で乗りつけ、大音声で城中に立てこもる真田昌幸を呼ばわったそうだ。真田兵たちは、城壁上から広瀬を鉄砲で撃ち取ろうとしたが、昌幸が、「ありゃ、郷左衛門であろう。」とそれを制止たところ、果たして、武田信玄・勝頼二代に渡ってともに家臣団にあって、見知った仲であった。

「昌幸かあ。」
「おう、郷左衛門であろうが。」
「いかにも。徳川相手にえらい戦を仕掛けたものじゃな。息災でな。」
「おぬしもな。手加減はせんぞ。」
「是非も無い」

こんな一駒が、後の徳川軍による上田城攻めにはあった。
広瀬郷左衛門は、さらにその後も、徳川の精鋭・井伊の赤備えにあって、関ヶ原合戦でもつねに井伊直政の横にぴったり控えて、支え続けた。

▼家康は、武田滅亡後、ことごく信玄の遺産を吸収し、自分の血や肉としていった。以前当コラムで「独眼竜・最後の賭け」で「大久保長安」のことを書いたが、もちろん、それはなにも軍事だけにとどまらない。しかし、この時代、最終的に戦がすべてを決していた。武田の旧臣たちに、日ごろから「信玄はいつもどのようにしていたか。」「信玄はこういうときどうしたか。」と根掘り葉掘り聞いていたことだろう。人材といい、組織といい、技術といい、見えないさまざまな価値や教訓、その一つ一つが、30年ほど後の、天下分け目の関ヶ原で華開くことになる。

▼どうやら信玄は死んだらしい、という知らせが入ると、徳川家臣団は一様に安堵の笑みを浮かべた。徳川の農兵たちは、非常に武田軍に対して苦手意識があった。戦場の彼方に「武田菱」の軍旗を見ると、それだけで萎縮してしまうほどであった。だから、信玄死すという知らせは、徳川家中にあっては、この世の地獄から取りあえず抜け出したという安堵感を得ることができた。

▼しかし、家康がこのとき放った言葉は、反対であった。それは、悼みであり、敬慕の思いですらあった。曰く、「隣国に強敵のあることは、怠惰を戒め、日々精進や研鑽をすすめる。信玄のような名将の死を悲しむことはあっても、喜ぶ道理など無い。」・・・武田信玄、享年53。徳川家康はこのときまだ32歳である。かくて、武田の思想の遺伝子は、徳川に継承され、江戸260年の幕藩体制に結晶していくこととなる。

増田経済研究所 日刊チャート新聞編集長
松川行雄


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