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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第39回・中国という“世界”

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【閑話休題】第39回・中国という“世界”

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2013-04-25 17:30:00]

【閑話休題】第39回・中国という“世界”


▼昔、中国で長いこと仕事をしていたときに、驚いたことがある。中国には子守唄がないのだ。もちろん、革命後に、子守唄として作られたものはある。しかし、日本には古くから、いったい誰がつくったのかも分からないような「読み人知らず」の子守唄がたくさんある。中国には、それがないのだ。少なくとも、私が中国人に何度も聞いた限りでは、なかった。もしかしたら、多少はあったのかもしれない。意図的に捨てられた、のかもしれないが。

▼民族舞踊というものも、中国にはない。「京劇があるじゃないか」というが、あれは例外的だ。西洋のフォークダンスとか、日本の盆踊りとか、そういうものがないのだ。

▼かつて、ピカソが「芸術は進歩しない。ただ変貌するだけだ」と言った。自分の前衛的な絵画も、アルタミラにある原始人が描いた洞窟壁画も、芸術性の差はない、というのだ。しかし、中国にはそういう意味で、果たして芸術という概念があるのだろうか、とよく疑問に思った。

▼確かに、超絶な技術、技巧というものはある。それは間違いない。象牙の球体に見事なほどの彫刻をする。その中にさらに球体があり、これまたとんでもない精密な彫刻が施されている。さらにその中に、もう一つの球体があり、虫眼鏡で見ないとわからないくらいの精緻な彫刻が施されている。気が遠くなるような微細な技巧だ。

▼かと思えば、右手と左手にそれぞれ筆を持ち、同時に達筆な文を書いてみせる。上海雑技団のように、人間技とはとても思えないようなアクロバットを演じてみせる。こういった類において、中国は世界を圧倒するものがある。が、それらは芸術なのだろうか。少なくとも、ピカソが言った芸術の概念とは、およそ次元が異なった世界だろう。

▼そもそも、漢民族というのは、自分では演じない。異民族に歌わせ、踊らせ、それを飲食しながら愛(め)でたのだ。世界の真ん中に華が開いたという、大変な国名なのだから、当然のことだろう。立場が違うのである。その彼らには、もう一つ不思議なことがある。

▼どんな原始的な生活をしている民族でも、自分たちの国が誕生した神話というものがある。ところが、中国にはそれがない、のだ。これも中国という国家の概念そのものが、ひとつの“世界”にほかならず、生まれもへったくれもない、ということを意味しているのかもしれない。

▼私の知識が間違っていればともかくだが、正しければ、この漢民族を主体とした中国という世界観を持った国は、ただならぬ相手ということになる。およそ、近代国民国家の概念や文化性というものと相容れない、あまりにも異質なものを感じてしまう。手ごわいと言えば、これだけ手ごわい相手もないかもしれない。なにしろ、一般的な民族国家(それが多民族国家であっても)や国民国家というものと、まったく次元の違う宇宙観を持った一つの“世界”なのだから。

増田経済研究所
「日刊チャート新聞」編集長 松川行雄



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