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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第575回目・無心ということ、三昧ということ。

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【閑話休題】第575回目・無心ということ、三昧ということ。

【閑話休題】

[記事配信時刻:2019-06-07 16:42:00]

【閑話休題】第575回目・無心ということ、三昧ということ。

▼無心といっても、カネを貸してくれという話ではない。無欲にして夢中ということだ。

▼長い人生のうちには、何度か「無心になれ」と忠告されたことがある。誰しもそんな経験が二度や三度はあるだろう。ところが、無心ほど難しいものはない。

▼たとえば、禅である。無心そのものが求められる。できるわけがない。禅を組んでいる間中、考えたくなくとも頭は勝手に動いてしまう。どうやったら、妄念を排除できるのだろうか。

▼密教では、この人間の集中度の無さを逆手にとって、あらゆる五感を使え、使い尽くせという。白い玉(あるいは月輪=がちりん)にみたてた自分自身を、手に乗る大きさから、果ては宇宙を超える大きさまで膨らませたり、また小さくしてみたり、と徹頭徹尾イメージトレーニングを行う。月輪を終えたら、サンスクリット(梵)の「阿」字で同じことを試みる。禅も阿字観(月輪観)も、宇宙・世界との一体を感得しようとする。

▼密教の阿字観(月輪観)は、禅よりやさしいように見えて、これまた異常に難しい。自由に想念するので、かえって余計な妄念に道草を食い、横にそれていってしまったりするのだ。関係ないことを思い浮かべたりしてしまうのだ。終始月輪観(がちりんかん)に埋没するということは、逆にまた難しいのである。

▼禅にしろ、月輪観にしろ、ようするに「三昧」の境地を目指している。三昧の行き着く先には、自分も他人も無いのだ。座禅にしろ、念仏にしろ、マントラ(真言)にしろ、読経にしろ、必死さのみを求める。それが、一念、岩をも砕く、に通ずる。

▼が、やはり、どうやってその三昧の境地に入れるのか? きっとそんな難しいことではないのだ。余計なことをわたしたちは知りすぎていたり、考えすぎたりしているのかもしれない。アメリカの作家、スタインベックがこんなことを書いていた。

「天才とは、蝶を追っていつのまにか山頂に登っている少年のことだ」

▼そうだ、天才でなくとも同じだろう。わたしは山頂までは登れないだろうが、五合目くらいまではもしかしたら行けるかもしれない。無心でいるうちに、そこまでは来ていた、ということになるはずだ。

▼力が無いからといって、蝶を追いかけようとしない人は、力があっても蝶を網でとらえることなどできやしない。

▼「蝶を追っているうちに、いつのまにか」という境地が欲しいのだ。こういう人もいるかもしれない。「いや、そうではありません。わたしはその蝶を探しているんです。わたしの蝶はどこにいるんでしょう?」

▼これは難問だ。わたしの人生とはいったいなんでしょう、と自問しているわけだから、これはとんでもなく難問だ。三昧や無心になる以前の段階でつまづいていることになるではないか。

▼しかし、心配には及ばない。発想を変えてしまえばよいのだ。人生とはなにか、と自問することを止めるのだ。話は逆だと思え。人間というものは、人生から問われている存在なのだ。そう思えば、苦しんで自ら問う必要などないではないか。人生のほうで勝手に考えてくれるだろう。

▼そう思えば、手前でつまづくこともなく、最初の命題に戻ることができるというものだ。つまり、無心、三昧になるにはどうしたらいいのか。

▼本当に、意外なほど簡単なことなのかもしれないのだ。無心にしろ、三昧にしろ、それが何か行動を伴ったものか、伴っていないものかは問わず、要するに言い換えれば、無上の安楽に至ることなのだろう。仏教でいう、大安楽、大楽である。

▼たとえば、般若心経が教えている内容などはその答えの一つなのかもしれない。以前掲載した、「超訳 般若心境(閑話休題第488回)」を読み返していただけばよく分かるはずだ。

▼ここに一つ、楽になる道筋(大楽・大安楽への道筋)が説かれている。人間は自体、思い込む動物だ。自分がつくった妄想や恐怖に怯える。人生の先を読もうとはしないことだ。一寸先は闇。それで上等じゃないか。般若心境はそう説いているようだ。同じようなことは、多くの文豪も述べている。

「不幸というのも何かの役にはたっている。わたしたちがまれにしか幸せを感じないのは、それが予期したものとは別の姿で立ち現れるからだ。(Aジード、「一粒の麦もし死なずば」)

▼わたしは、一つだけだが、答え「らしい」ものを持っている。わたしたちがこの世に生きているのは、おそらく、なにかわたしにとってとても重大なことを一つ「気づくため」なのだろう、と。それに気づいた瞬間、わたしたちは難行苦行も無く、無心・三昧に至っているのではないかと。

▼その「気づきが」何度か重なるうちに、「いつのまにか」その人にとっての山頂にたどり着いているのではないだろうか。

増田経済研究所 日刊チャート新聞編集長
松川行雄



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