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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第452回・餌金(えさきん)。

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【閑話休題】第452回・餌金(えさきん)。

【閑話休題】

[記事配信時刻:2017-01-06 15:55:00]

【閑話休題】第452回・餌金(えさきん)。

▼明けましておめでとうございます。今年もご愛読いただけますと、大変幸甚です。

▼年明け早々、相場が強いので、反対にやや不気味な話を書こうと思う。霊的な話だ。が、人間ではないので、さして身構えることなく、誰でも気軽にお読みいただけるだろう。不思議な話だ。奇妙奇怪な話といったほうがいいかもしれない。

▼ある家庭で、メダカを買い始めたのだ。5匹である。小学生の子供が喜んだものだが、結局世話をするのはお母さんになっていた。

▼一匹一匹、特徴などから、名前をつけたそうだ。それでなお一層愛着が湧く。

▼結構、頑張って数か月育てていたのだが、そのうち一匹が死んだ。可哀そうだね、なんていいながら、庭にお墓をつくった。

▼それからのことである。数日たって、水槽が、まるで小麦粉を溶かしたかのように真っ白に濁ったのである。慌てて、水を取り替えたりしたが、もう一匹が死んでいた。

▼子供は悲しんだが、しかたのないことだ。生き物はいつかは死ぬ。しかし、話はそれで済まなかった。また、数日したら、水槽が真っ白に濁ってしまった。それも、驚くべきことに、お母さんが買い物に出かけるときには、透明の綺麗な水だったのである。小一時間出かけて戻ってきたら、真っ白なのだ。もう一匹死んでいた。ありえないことだ。

▼その週末の日曜日、お母さんの実父が、孫の顔を見に訪ねてきた。もう退職している男性だ。

▼この男性は、現役時代、ある有名な水族館に勤務していた魚類の飼育に関してはプロである。残念ながら、その水族館の名前をここで公開することはできない。

▼「お父さん、こんな変なことが起きてるんだけど、魚のプロとしてなにかアドバイスしてよ。」とお母さんは実父に尋ねた。すると、話を詳しく聞いていたその実父は、はあはあ、とうなづきながら、「わかった」と言った。

▼実父は、「このへんに、金魚売ってるところないか」というのでメダカを買った店を教えると、「よしちょっといってこよう。」と、お母さん(つまり、彼の娘)を連れ立って出かけた。

▼娘は、またメダカでも買うのか、水質を管理するようなバクテリアや薬剤とかを買うのか、そんなことを考えていたのだが、実父の言ったことは、意外だった。

「すまんがな。餌金(えさきん)をくれ。」

餌金というのは、大型のアロワナのような淡水魚が食する、餌としての生きた金魚である。肉食魚用の餌となる金魚ということだ。

▼実父は、一匹その餌金を買って娘といっしょに家に戻った。娘のほうは、「金魚とメダカいっしょに入れても大丈夫なの」というと、実父は「まあ、いいから見ておれ。」という。

▼まず、実父は娘に言って、水を取り替えさせた。綺麗な水槽になったところで、実父は餌金をつかみ、水面の上で、なんと「ひきちぎった」のである。哀れ、引きちぎられた餌金は、水槽に落とされ、しばらくヒクヒクしていたが、すぐに絶命し、ぴくりとも動かなくなった。

▼「よしこれでいい」と言って、実父は死んだ餌金を取り出し、埋葬するように娘にいいつけた。

▼びっくりした娘は、「お父さん、いったい何してるの? どういうことよ。」と詰め寄ったが、実父は相手にしない。「これでいいと思うぞ。あとな、魚に名前をつけるな。いいか。」といって、表に出て、たばこを吸い始めたそうだ。

▼あとで聞くと、実父が現職のころ、勤めていた水族館でもよく、そういうことがあったそうだ。名前を付けた魚が死ぬと、どういうわけか、未練が残るのか、道連れにしていくらしい、という。ほかの魚が次々と白く濁った水の中で死んでいったというのである。

▼水族館では、経験から、そこに生贄(いけにえ)を与えていたそうだ。それをすると、死んだ魚は、その水槽にはもう生きている魚がいないと思うのか、道連れのように死ぬようなことがぱったりなくなったというのだ。

▼なぜ、そうなのかわからない。しかしこの「儀式」を行うと、不思議と白く濁った水の中で死ぬ魚は、ぱったりなくなったのだという。以来、ずっと水族館ではこうした例が起こると、必ずみんなそうしていたという。そして、もう一つ、けして魚には、冗談でも名前をつけることはしなくなったそうだ。

▼魚にも、相応の霊性があるということらしい。ましてや、犬・猫などは言わずもがなだろう。名前というのは、それくらい重大なことなのだということかもしれない。

▼確かに、古代、人類がまだ言葉を持たなかったころ、ライオンは恐ろしかったろう。無用に恐れていたはずだ。しかし、いつのころからか、それに「ライオン」と名がついた瞬間から、それは無意味に恐ろしい対象ではなく、克復すべき対象へと変質してしまった。恐怖は残ったが、それ以前の恐怖感とは、まったく意味不明のものではなくなった。名前というものは、その本質や重さ、意味すら変えてしまうのだ。

▼だから、近年多い、「キラキラした」名前を子供につけるのは、わたしなどからすると、非常に不快である。親はどういうつもりで名付けたのかいろいろあるだろうが、名前というものの重大性に気付いてもらいたいものだとつくづく思う。

▼果たしてこの水族館に勤めていた男性の話が、実際に発生した相次ぐメダカの死と、科学的にどういう因果関係があるのか、もちろんわからない。男性本人も、わからないと言っている。が、そういう対処法をしてからは、まったく問題なくなったというのも事実だという。

▼わからないことのほうが、この世の中多い。が、こじつけであろうと、突き詰めた先に出てきた結論であろうと、結局そこには、理由がある。われわれにはうかがい知れない因果関係があるのかもしれない。

▼お正月、各位も初詣に行かれたのだと思うが、人の賑わう有名な寺社に行かれたのだろうか。それはそれで構わないが、やはり年末に書いたように、自宅近くの地主神に詣でることをなにより勧める。

▼鶴岡八幡宮や、明治神宮など、東京やその周辺には、とんでもない数の初詣での人が押し寄せたが、ほとんどの人が、それらの有名な聖地とは、縁もゆかりもないだろう。しかも、一年に一度しか行かない人間の祈りを、神様が「興味を持つ」わけもない。加えて、あの群衆である。神様もつくづく辟易しているはずだ。

▼お近くの地主神にお参りをしていない場合は、ぜひ詣でることを勧める。できれば、毎月お参りしたらよいという。もし、境内に、小さな祠や摂社があれば、もれなくこまめにお参りしたほうがよいらしい。人の家に上がり込んで、目当ての相手とばかり話をして、ほかの同居人は一切無視などということは、ふつうありえない。挨拶くらいはするだろう。そういうことだ。

▼そのときには、(ここが重要だ)どこそこの誰兵衛ですと、ちゃんと名前を申し述べるということだ。名前も言わない来訪者には、あちらも無視するからだ。名前は、彼ら異界のものと、わたしたちをつなぐ最小限にして、最短の絆なのである。それを縁と呼ぶ。地主神と地縁を結んだということだ。

▼今年も各位に幸多かれとお祈りして、新たな年の初回の閑話休題に代えておこうと思う。

増田経済研究所 日刊チャート新聞編集長
松川行雄



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