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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第483回・終戦報道の安易さ

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【閑話休題】第483回・終戦報道の安易さ

【閑話休題】

[記事配信時刻:2017-08-18 16:48:00]

【閑話休題】第483回・終戦報道の安易さ

▼また今年も8月15日を迎えた。72回目であった。総人口の5人に4人が、戦争を知らない。国会議員の93%が戦争を知らない世代になっている。

▼何度も日本人は、不戦の誓いをこの日に繰り返してきたが、まず言の葉に上るのは、沖縄戦という「唯一の地上戦」の悲惨さであり、広島・長崎に投下された「世界で唯一の原爆使用」による悲惨さだ。あまりにも象徴的な事実だ。この事実をどうこう言うつもりは毛頭無い。正直、言葉も無い。何を言ったところで、あまりにもむなしい。

▼あらかじめ断っておく。本稿は、広島・長崎や沖縄より、もっとほかの地域で悲惨な状況があるなどと、悲惨さを競うような下劣な目的で書かれているものではない。それが一人であっても、犠牲者にとっては等しい無念さであることに変わりないのだ。本稿で批判したいのは、毎年この季節に見られるメディアの報道の安易さである。その点をよくわきまえて、読んで欲しい。

▼確かに沖縄の現実は酷薄であった。しかし一方、沖縄戦という言葉の影で、8月15日以降、樺太や千島列島で行われた酷い「地上戦」のことは、ほとんど語られることが無い。それは【終戦後】の戦いだからだ。日本本土で唯一、「終戦後」にもかかわらず、まだ組織的な抵抗戦が行われたのは、樺太と千島だけなのである。

▼しかも言っておくが、樺太と千島は当時、外地ではない(台湾や朝鮮とは違うということだ)。内地なのである。それを忘れないで欲しい。もっと言えば、硫黄島も内地である。しかも、人数が圧倒的に少ないとはいえ(住民1000人)、軍属あるいは協力者100名ばかりを除いて、島民全員が事前に疎開している。(沖縄では疎開が遅れ、大変な民間人の犠牲を出す結果となった。)メディアが使う、「日本で唯一の地上戦と」いうのは、完全に誤りである。

▼また広島・長崎の原爆投下の影で、日本各地においてどれだけの空襲犠牲者が出たのかも、取り上げられることが少ない。空襲というと、原爆使用というただ一つで、広島・長崎に話が集約されてしまい、あたかも他のすべての都道府県の空襲はのきなみ「その他大勢」としてみなされがちだ。むろん広島・長崎県民に非があるわけではない。メディアが悪いのである。

▼戦争というと、やたらメディアはこの3地域に話を集約するきらいがあるために、あたかもほかの地域が、この3地域の犠牲によって難を逃れたかのような印象を与えてしまう。若年層など、戦争に関する知識が無いだけに、「うのみ」である。そもそも、信じられないことだが、太平洋戦争で日本がアメリカと死闘を繰り広げたことさえ知らないという若年層すらいるのだ。なぜメディアはこうした報道しかしないのだろう。それは、「原爆」という恐るべき兵器や、「唯一の地上戦(完全に間違いである)」という現実が、メディアにとって「絵」にしやすい安易な「素材」だからにほかならない。

▼この「絵」にしやすい素材の活用に安易に流されるという点では、テレビなどはもっとひどい。番組表を見てみるがよい。どれもこれも「絵」にしやすい、歌、グルメ、旅、ゆるキャラや芸人のバラエティなど、おバカ番組ばかりではないか。まともな路線に戻れば、決まってチャリティ色で染まっている。

▼株式投資のカテゴリーでいえば、取り上げられるのはいつも決まってデイトレードばかりである。圧倒的多数の、地道な資産運用としての株式投資には、まったくカメラが入っていくことがないではないか。「絵」にしにくいからにほかならない。

▼デイトレーダーが、自宅にいくつものモニターを置き、刻刻とチャートや株価が更新されていっている様子は、確かに「絵」にしやすいのだ。かっこいいのである。見栄えがする報道なのである。こういうメディアの安易さを馬鹿の一つ覚えと言う。「絵」にしにくい素材ほど、深いのだ。そこまで掘り下げる理想も、信念も、努力もメディアにはほぼ無いといっていい。公共の電波を寡占する利権の上にあぐらをかいた、怠慢ということだ。

▼BBC(英国国営放送)に比べると、NHKなどは及びもつかない。しかも公営放送であるにもかかわらず、NHKは左傾色が強いという、これまた呆れた現状である。ましてや、どこぞの外国のスパイ放送ではないかと疑う民放の某テレビ朝日に至っては、論外。

▼先の大戦のことを、知識としてすらほとんど知らず、知ろうともしない若い世代には、メディアの取り上げ方で彼らの認識が決定されてしまう。判で押したような、「戦争の悲劇=沖縄・広島・長崎」というメディアの安易な報道姿勢は、戦争を知らない多くの世代たちに、思考停止という大きな罪を犯している。

▼たとえば、沖縄で最も戦死者の多かった県外出身者が、北海道出身兵であったという事実も垣間見られることはない。いまだに「日本は沖縄を見捨てた」というメディアの言葉に、激しい抵抗感を覚えるのは、わたしだけではないだろう。

▼沖縄出身兵戦死者28000人に対して、県外出身者の戦死者数は66000人。どこが「見捨てた」のだろうか。このうち、1万人が北海道出身者で占められている。「沖縄を見捨てた」という言葉は、とりわけ北海道出身者に対しては、禁句である。

▼東京は、戸籍や住民票が東京ではあるものの、かなりの部分が日本各地からの転入者を含んでいる。したがって文字通り、日本そのものが東京で壊滅したのである。

▼昭和20年3月10日の、たった一日の大空襲だけで死者10万人。それ以外に105回にも及ぶ空襲があった。空襲自体が東京・神奈川・千葉といわゆる首都圏に断続的に行われたものまで含めれば、「唯一の地上戦」沖縄で死亡した一般住民の死者数を間違いなく超えている。

▼また、住民票上、東京出身の出征戦死者は16万人を超える。出征戦死者で5万人を超える都道府県は、限られており、東京が異常なほど極端に多い。

▼この出征戦没者数・空襲死亡者数合計で最低26万人という犠牲を出した東京(東京に限ってだけである)は、まさに究極の殺戮現場と言っても良いほどの惨状に見舞われた。

▼同じことが、帝都に次ぐ大人口地域の大阪についても言える。大阪大空襲犠牲者は1万人ほどだが、やはり出征者の戦没数が10万人を超えており、この10万人を超えるという規模の出征戦没者数は、東京と大阪くらいのものである。

▼沖縄は、軍民合わせて地元出身者の5人に1人が亡くなったという事実がよく語られる。一方で、出征者数・空襲犠牲者数合計のうち、東京・大阪という2都市だけで、全太平洋戦争犠牲者260万人のうちの16%、約6人に1人だ。これに、東京・大阪に隣接する(言わば、都市圏として不可分の)神奈川・千葉・兵庫まで含めて、いわゆる二大都市圏で累計すると、太平洋戦争全犠牲者数のうち、4人に1人を超えるという勘定になる。実に59万人の死者は、東京・大阪の大都市「圏」出身者である。

▼数ではない。確かにそうである。犠牲者にとって、同じように亡くなった人が多いか少ないかは、本人にしてみれば、何の意味も違いもない。が、わたしたちは、数字のデータというものを、もっと明確に認識して歴史を語るべきである。少なくともメディアは、安易に「話を一地域に集約するな」ということだ。そこから見えてくる、別のさまざまな視点が出てくるからだ。

▼たとえば、沖縄戦における犠牲者は、沖縄出身の軍人・軍属28000人 + 一般住民94000人の合計で、12万2000人というのが、一般的な認識となっている。

▼実際、沖縄県軍人・軍属の戦死者には、「28,228 人」 という数字がかなりはっきりしており、相当の信憑性があると思っていい。

▼それに対して、一般住民の戦没者の数「94000人」は、安仁屋政昭・沖国大教授によれば、『この数字は琉球政府援護課の統計だが、昭和19年の人口から戦後の人口を引いただけのあいまいで実態に基づかないもの。その後の沖縄県史などの研究を踏まえると、こうした古い数字を根拠にするのはおかしい』とのことだ。従って、沖縄一般住民犠牲者数は、語られているより多くなるかもしれないし、もっとずっと少なくなるかもしれない。いずれにしろ、はっきりしたデータをベースに、事実に迫るべきである。

▼わたしは、自分なりの推論で、おそらく沖縄の非戦闘員犠牲者数は82000人と踏んでいる。これが正しいかどうかわからない。ただ、あいまいな数字で歴史を語るのは、あらゆる思考を歪曲するから、できるだけ避けたいと思うだけだ。

▼ここでわたしが取り上げている数字は、あくまでネットでググっただけの世界なので、各地の慰霊碑などに刻まれている数値自体が、正確であるかは、確かめるすべもない。その点、実態数値をよくご存知の方にとっては、これは違うということがあるかもしれないが、その辺はご容赦いただきたい。わたしも実数値を知りたいのだ。

▼不思議なことに、戦争犠牲者というと、空襲による銃後の被害者数ばかりがよくメディアで取り上げられるが、都道府県別の出征者の戦死者数というものは、どうも一覧で明確なリストというものが、手に入らない。

▼靖国神社のHPに行っても、各県のHPにいってもはっきりしないのだ。わたしが不完全ながら、各都道府県ごとの慰霊碑や忠魂碑、あるいは護国神社のサイトをググってみて、戊辰・西南・日清・日露・第一次大戦などを省きながら、一覧リストを作ってみたが、どうも県によっては不分明でだったり、抜けてしまう県がいくつもあるのだ。

▼京都や奈良は、米軍が意図的に空襲を避けたことから、空襲による犠牲者数がそれぞれ132人、36人とほとんど無い。しかし、出征兵士の戦死者数は、京都が2万7000人、奈良1万5000人と、やはり大変な犠牲を払っている。京都に至っては、沖縄戦における現地出身戦死者数に匹敵する。

▼ネットの時代、国チェックしようとしても、簡単には見つけられないこの状態は一体なんだろうか。意図的なのだろうか。それとも作業的に、あるいは技術的に、数字をはっきりさせることが非常に困難なのだろうか。

▼話は飛ぶが、かつて昭和に入って、軍、とくに海軍において、東北人脈の大反攻と呼ばれるようなことがあった。戊辰戦争で理不尽な暴虐と殺戮を被ったときの怨嗟が、昭和に入って東北人脈の大攻勢になって表れたのだ、という見方だ。

▼第37代総理大臣・海軍大臣米内光政(岩手)、連合艦隊司令長官山本五十六(新潟)、海軍大将今村均(宮城)、海軍大将井上成美(宮城)などがいる。今村は、未だにアメリカ側から高い評価と尊崇を受けている稀有な軍人であったし、井上成美こそは兵学校生徒を戦後復興の人材として多数送り出した人物である。彼らが、戦後復興の最初の担い手として活躍していったのである。

▼陸軍でも多い。東条英機は岩手である。ただ、本人は東京で生まれている。関東軍参謀で満州事変を引き起こした石原莞爾は山形である。

▼一見すると、同じ東北人脈でも、海軍は非戦派、陸軍は強硬派に見えがちだが、そういうものでもない。米内光政は、戦争を回避を訴えていたにもかかわらず、かなわなかった悲劇の軍人という受け止め方が多い。が、わたしは個人的には、大変疑念に思っている。

▼米内は、長年権力の中枢にあって、何度も非戦に向けて意見を主張していたものの(それは事実である)、肝心の決議では常に「賛成」に回るという、あまりにも謎の多い実績の持ち主である。決議賛成の事実だけを追っていくと、あたかも対米開戦強硬派としか思えないような事績ばかりを残しているのである。

▼逆に、石原莞爾などは、いかにも太平洋戦争の導火線である満州事変の首謀者なのだが、実際には対中国戦線不拡大(満州に引っ込む)、対米戦争絶対反対、挙句の果ては東条暗殺まで計画したくらいの人物である。戦後自ら、「自分こそが最大級の戦犯のはずだ」とGHQに名乗りでたにもかかわらず、マッカーサーは「閣下は戦犯指定されていません。ただ、せっかくですので、参考人として証言していただきたい。」といって、病床にあった石原のために、わざわざ酒田(山形)にまで出張法廷を差し向けたくらいである。

▼ただ、こうしてみると、歴史の転換点で、良くも悪くも昭和の前半におけるキャスティングボートを握っていたのは、やたらと東北出身者が多いような気がする。薩長中央政権に対する、東北人脈の怨念のような大攻勢の末が、あの太平洋戦争であったということなら、なんともやりきれない話だ。もちろん話はそう単純ではないのは百も承知だが。

▼72回目の8月15日を迎えたわたしたちは、多くのことを、なおざりにし、棚上げしたまま、先の戦争のことを忘却の彼方に追いやろうとしている。致命的なのは、数字などのデータの認識の無さ、である。このことは、閑話休題181-182回【南京のまぼろし】でも解説してみた。

▼戦争を始めたことが悪であり、負けたことは良かったのだ、という一般良識がまかり通っているような国に、未来はない(こんな国の株価が長期的に上がるわけがないのだ。現実論が、まったくなおざりにされる風土だからだ)。負けていい戦争など、一つも無い。ましてや、戦争はいけないという言葉ほど無力なものはない。したくなくても、侵略されることがあるということが、この日本人は身に染みていないのだろう。こうした「思考停止」状態が、現実的なものの見方を日本人から遠ざけている。この点については、閑話休題192-193回【定説を疑え】でも解説している。

▼メディアの大罪としてとくに不快なのは、その「思考停止」に誘導する報道の在り方だ。たとえば、対馬丸事件というのがあった。今年の8月15日版日経新聞にもこれが取り上げられていた。1944年昭和19年8月22日、沖縄から学童疎開輸送中に米潜水艦攻撃を受け沈没。1476人が死亡した悲劇的事件である。

(対馬丸撃沈の犠牲者たち)

▼記事では数少ない生存者が、インタビューされ、その事実を語り継いでいるわけだが、新聞の結論は「戦争をしてはいけない」というものに落ち着いている。こういう新聞の姿勢が、そもそも「思考停止」であり、日本人を「浅薄皮相」にさせるのである。天下の日経新聞にしてこのザマである。

▼なぜ、同時期に、あの玉砕するまで徹底抗戦した硫黄島では、事前に全島民が疎開でき、沖縄はできなかったのか。人数があまりにも違いすぎるからか。いずれにしろ対馬丸事件からわたしたちが考えなければいけない現実的な思考は、「戦争はやってはいけない」というあまりにもまともすぎる結論の前に、一切停止状態になっているのだ。

(硫黄島の日本兵戦死者~米軍撮影)

▼人数の違いは確かに大きな問題だった。沖縄全島民はなんといっても59万人であるから、とてもではないが、疎開それ自体が大作戦である。硫黄島の疎開ように、機動的にはいかないことは明らかだ。しかし、時期的なことを言えば、硫黄島の戦いは1945年2月である。沖縄戦は、3月。硫黄島からの疎開は、前年1944年の夏である。硫黄島戦の半年前である。対馬丸事件も同じく前年1944年の8月である。時間的猶予から言えば、間違いなく沖縄にもチャンスがあったはずだ。

▼また、硫黄島はほぼ完全に制海空権利を米軍に握られた、孤立無援の中にあった。沖縄は違う。距離的にも硫黄島は、沖縄より圧倒的に不利な遠方である。本土まであまりにも硫黄島は遠かったのだ。硫黄島から本土までの直線距離は、沖縄のそれに対して、ほぼ2倍である。

▼沖縄では疎開計画そのものが遅れていたという事実が指摘されている。当時の県知事がきわめて反軍的な人物であったために、両者の折り合いがつかなかったのだ。軍としては、沖縄戦を行うにあたり、住民がいては作戦行動が円滑にゆかないことを危惧し、疎開を推進したが、県知事はこの疎開計画に異論を唱えたたことが一番大きな問題だった。

▼沖縄島民の本土(九州)への疎開計画は、人数の多さからいって、10万人規模にとどめ、残余の住民は本島北部への疎開というものだった。

▼軍としては、戦闘予定地域(軍は南部を決戦地と決めていた)と、住民疎開地(北部)と完全に分離することを考えていたわけである。しかし、あまりにも県知事との確執が大きすぎて、疎開そのものが遅々として進まなかった。

▼もちろん、軍が「いくさには勝っている」という喧伝をずっとしていたために、島民にも危機意識が薄かった。おまけに親族のいない本土への疎開に、当然ながら抵抗感もあった。当時の本島北部は未開な地域も多く、インフラがまったく無いということも、島民が消極的になった理由でもあろう。

▼ちなみに、本土への疎開に関しては、合計で187隻が動員され、島民7000人が疎開に成功している。また、途上、撃沈されたのは、対馬丸一隻だけである。この事実を知っている人は、意外に少ないはずだ。ことさら対馬丸の悲劇だけを取り上げることで、そのほかのことがまったく無かったかのように語らない報道は、明かに怠慢であり、「思考の停止」を意図しているとしか思えない大罪だとわたしは思っている。なにか、別にそうした事実を隠蔽する意図があるのではないか、とすら疑う。

▼しかも、県知事は沖縄戦直前に本土に転任しており(県知事は、島民からもさまざまな言動によって、かなりのバッシングを受けていた)、この人物の在任中の時間の浪費や空白は、沖縄戦が泥沼に陥る最も大きな原因であり、大変悔やまれる点だ。これに対し、後任の島田知事は積極的に疎開を推進したために、先述の本土への疎開も進み、島民の北部地域への疎開もようやく始まろうとしていた。その矢先に米軍がまさに疎開行動中のその地点に上陸してきたため、狼狽した島民はパニック状態の中で、来た道を逆行し、戦闘予定地域の南部に殺到。これで、軍民混在する悲惨な沖縄戦に突入する事態になったわけだ。

▼沖縄戦の悲惨さは、「唯一の地上戦」であったということではなく、疎開が遅れたということが最大の要因である。ではどうすればよかったのか、ということは、ここから初めて議論ができるのだ。それを「戦争をしてはいけない」というばかばかしいほどあたりまえの結論(子供でも言える)で話を終わりにしてきたのが、戦後72年間のわれわれ日本人の有様なのだ。これでは死んだ人間は一人も浮かばれようもない。

▼対馬丸事件一つとっても、これだけの事実を挙げることがすぐにできる。報道は、あの惨禍を二度と起こさないようにしたいのであれば、そこまで突っ込んで、記事にしなければ、阿呆の日記でしかない。数少ない生存者の貴重なインタビュー談話も、まったく生かされていないということなのだ。

▼そもそも戦争は無くならないのだ。日本だけがそれを回避し、世界を戦争の惨禍から救おうなどという発想こそ、傲慢であり、歴史に対する冒涜以外の何物でもない。それこそ、軍民合わせて260万人とも、300万人とも言われる犠牲は、報われない。

▼なぜ、あの戦争を始めなければならなかったか(回避できなかったのか)、については、それでもまだ議論されているほうだろう。しかし、それは、始めた日本が悪いのだ、という一方的な前提からの考察であることが多く、科学的客観的なものではない。平和がなにより最優先の目的とする戦後的な立場からの考察に終始しており、当時の国家利権をめぐる現実的な考察はほとんど無い。

▼つまり、「平和希求」とはお題目ばかりで、実際にはいまだに国家の利権がより醜く交錯する現代にあって、これらの考察はまったく役に立たないものばかりだ、ということだ。

▼なぜ、負けたのかも、無謀な戦争だったのだという先入観が強すぎ(結果からみて)、これもまったく科学的客観的な、事実をベースにした分析はほとんど語られないから、将来に向けての実践論としては役に立たない。

▼こういう国民は、また同じ過ちを犯す。先の戦争から、なにも大事なことを学んでいないのは「PAC3を配備すると、無用に北朝鮮を刺激する」と言ったり、「憲法改正は、韓国や北朝鮮・中国の対日反感を買うからよくない」という人たちのほうである。まず、日本人は先の戦争で、「自分たちは犠牲者だ」という意識を捨てなければ、また同じ過ちを犯すはずだ。それも、無謀な戦争という選択ではなく、逆の選択で国を失うという結果をもたらすという意味でである。

▼当時の日本が軍国主義だったというのなら、それはそうかもしれない。軍益が国家の最優先課題であるということは、世界では常識である。過去も現在も同じである。「軍益を損なってよい」などという国は、世界広しといえども皆無に近い。日本が軍国主義だというなら、世界中が軍国主義である。いまだにそうである。

▼また、もう一つ、独裁国家という観点から言えば、戦前の日本は独裁国家などではない。当時の軍は、対米戦反対論も強硬論も、どちらも軍内には大勢力として存在していた。中国との和平派も、強硬派も同じように混在していて、上から下まで戦争拡大で国論が一致していたわけではない。

▼しかも、制限があったとはいえ、選挙が行われていたのだ。建国以来、一度も選挙をしていない北朝鮮や中華人民共和国から、「日本はファシズム(軍事独裁国家)だ」と言われる筋合いなど金輪際ない。大陸前線の現地軍が、対中国戦争不拡大を主張していたのに、世論に押された政府が拡大し続けていった国なのだ。昭和天皇の叱責の一言で、対米開戦派の総理大臣の首が、即刻飛んだ国なのだ。日本を軍事独裁国家などというのは、完全な間違いである。

▼答えのない駄文をつらつらと書きつらねてきたが、再び8月15日を迎えた今、まずは8月15日以降、樺太で何が起こっていたのか、多くの日本人はもっとよく事実を知って、肝に銘じておくべきだろう。一番、8月15日というテーマで、切り捨てられているのが、「8月15日から9月2日までの戦闘(正確には8月26日までの戦闘)」だからだ。

▼戦争とは、こういうことなのだ、敗戦とは、こういうことなのだ、「負ける」ということはこういうことなのだ、というのは、実は8月15日の後、9月2日のミズーリ艦上で帝国政府が正式に降伏文書に調印するまでの間、一体樺太でなにがあったかに、むしろその真の酷薄さが凝縮されているのだ。東京でも広島・長崎でも沖縄でもないのだ。

▼戦争とは、こちらがやろうと思わなくても、勝手に仕掛けられるということが、当たり前のように起こるという現実を、日本人は思い起こすべきである。その現実の前には、「戦争をしてはいけない」という美辞麗句ほど、空虚なものはない。それは、8月15日以降の樺太で、わたしたちはとっくに身に染みているはずなのだ。

▼先述通り、樺太(南樺太)は「外地」ではない。法的にも実質的にも40万人の日本人が居留していた「内地」だ。『真岡郵便電信局事件』一つ、多くの日本人が知らないということは慨嘆に耐えない。どこのメディアが、8月15日に、樺太の悲劇を記事にしただろうか? 一つも無いではないか。それは、戦争に負けるということが、どういうことなのか、本当の意味で認識していないからにほかならない。今言えることは、それだけだ。

▼こうして、毎年のように「わたしにとってきわめて腹立たしい」8月15日がまた過ぎていった。そして一年後、再びわたしにとって憂鬱な8月15日がやってくる。

増田経済研究所 日刊チャート新聞編集長
松川行雄




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