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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第484回・工作せよ

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【閑話休題】第484回・工作せよ

【閑話休題】

[記事配信時刻:2017-08-25 17:28:00]

【閑話休題】第484回・工作せよ


▼国家レベル、あるいは大衆レベルでの集団ヒステリーの話である。豪州にとくに多いが、欧米諸国では、やたらと鯨の保護を訴える主張が多い。というより、ほとんどめちゃくちゃである。彼らの言っている主張は、矛盾だらけである。どういうわけかこと鯨になると、話が感情的になる。

▼正直、もはや調査捕鯨が始まって、鯨が日常的な食べ物ではなくなった今日、鯨など少々食えなくてもどうでもよいのだ。しかし、癪に障るのである。彼らの主張に、どうにも我慢がならないのだ。

▼和歌山のイルカ捕獲事件は、動画化されて世界的な非難を浴びるきっかけになったことは記憶に新しいが、冗談ではないのだ。

▼最近面白い記事を読んだ。反捕鯨国の急先鋒であるオーストラリアの話だが、フライデンバーグ環境相は政府系研究所の連邦科学産業研究機構に対し、海岸でのサメ遭遇事故増加と鯨の生息数増加に因果関係がないか調査するよう指示したというのだ。

▼同環境相は西オーストラリア州で、サーフィン中にサメに襲われて死亡した若者の近親者と面会し、対策強化を約束した。同州内だけでも、2000年以降に15人が犠牲になっている。

▼サメの襲撃が増えたのは、沿岸で鯨が増え過ぎた結果、鯨を補食するホオジロザメも集まってきたのが一因との指摘があるという。厳格な鯨保護で生息数が増えたことが襲撃増加の遠因になった可能性があるようだ。

▼もちろん決定的な解明がなされていないので結論は出ていないが、恐らくそうだろう。対策として、「ホオジロザメを保護対象から外し、捕獲すべきだ」という声もある。

▼豪州は鯨保護には大変熱心だが、生息数を調整するためとして、カンガルーやコアラの殺処分は行っている。

▼カンガルーやコアラの殺処分も、当初は大変な騒ぎだったのだ。しかし、要するにご都合主義といっていいだろう。

▼そもそも、イルカ漁で世界的な非難を浴びた日本のケースでも、彼らと議論してみると、たいてい非常にくだらない理由である。まず、「残酷だ」というのだ。なぜ残酷かというと、イルカはわれわれと同じ哺乳類じゃないか、という理屈がついてくる。しかも、ただの哺乳類じゃない。頭がいいときたものだ。まず、ほとんどがこの非難である。

▼それに可愛いときたものだ。あの愛くるしいイルカが血だらけで殺されていくのは、かわいそうだとなる。あのイルカの顔というものをかわいいと思っているのは人間だけで、他生物に対する威嚇的効果を以て形状されているという事実は、とんと棚に上げている。たぶん知らないのだ。生物学の基礎を勉強してから、出直してこいというところだ。

▼「では、きみたちは、残酷か残酷でないかで、それが正当かどうかを判断するのか」、と聞く。「それだけではないが、大きなポイントだ」と答える。和歌山でイルカが殺される有様は、残酷だというのだ。

▼「それでは君たちは、同じ哺乳類の牛や豚が、どんな風に毎日とてつもない頭数が殺戮されて、どういうふうに解体されているか、その現場を見たことがあるのか」、ときくと、ほとんどの人間は「見たことが無い」という。

▼「イルカ漁が残酷だからダメだというのなら、まずきみたちが毎日おいしく食べている牛や豚がどうやって命を終わらせられ、ばらばらに解体されているのか、現場を見てからモノを言え。」わたしは、いつもそう言うことにしている。「残酷だといった瞬間に、きみたちにはそんなことを言う資格が無いということがはっきりするのだ。」と。

▼その解体作業の「残酷さ(当たり前だ)」を見た優しい君たちは、途端に胸糞悪くなるだろう。そして、知りたいのは君たちが、その後、牛や豚を殺すのはいけないと言うのか、それとも「それでも牛や豚なら仕方ない」という欺瞞を言うか、だ。

▼「牛や豚なら、鯨と違って野生ではない養殖だし、しかたないのだ」、というのであれば、鯨を保護しているというのも、突き詰めれば個体数を管理している以上、一種の養殖ではないのか。自然界という巨大な「いけす」で養殖しているのにほかならないではないか。

▼だいたいこの議論の衝突というものは、「頭のいい鯨(イルカも鯨である)」を人間に準ずる倫理観・感情論で見るか、それとも食性・文化論で見るかという違いがあるわけで、まったく議論の前提が異なるから、絶対にかみ合うことは無いのだ。しょせん、Aちゃんは好きだけど、Bちゃんは嫌いというのと同じで、人間の好き嫌いと実はなにも異ならない議論の衝突なのだ。

▼残酷さがいけないというなら、カンガルーやコアラのように、薬などで殺処分するならよいのか。それなら、イルカもそうしようじゃないか。血を流さず、「きれい」に殺しましょう、という話になる。

▼だから、愛玩ペットになっている犬や猫の類も、見えないところで大量に白人国家でも殺処分されていても、見えないし、綺麗な殺し方だから良いということなのか。

▼そもそも、今回のオーストラリアのように、人間がサメの被害に遭うことが多くなってきたので、サメを処分するというのであれば、まず自然の摂理を重視するなら、鯨から処分すべきだろう。サメから処分するというのは、鯨だけをのさばらせてしまう。天敵がいなくなった自然界は、バランスを失ってしまうのだ。自然の自浄作用に人間が腕力でコントロールしているわけであり、自然を大事にしているといいながら、きみたちは全く逆のことをしようとしているのだ。君たちは、神にでもなったつもりでいるのか。

▼一番気に入らないのは、鯨はダメだが、サメは殺していいと言う点である。サメは魚だから下等なのか。サメが海の食物連鎖の頂点にたっているからこそ、バランスが保たれているものを、そこをいじくりまわして、バランスを保てる計算が、われわれ人間にできるとでも思っているのか。とんだ思い上がりだ。

▼このへんになると、われわれ東洋人、とくに日本人には、彼らのこの区分がまったく意味不明である。地球を一個の博物館のようにみなし、人間サマが管理するというものでしかないのだ。自然愛好など、聞いてあきれる。

▼たとえば、蛹(さなぎ)が羽化するとき、周囲の繭を破ってでてくる。自力で破るのだ。それを人間がナイフで繭を破ってやり、助けてやると、その羽化した成虫は自然界で生き延びていくことはできなくなる。あくまで自力で破らなければ、抵抗力がつかないのだ。そもそも繭を破れない成虫は、自然に淘汰されるのだ。予定調和である。基本的に、手を加えてはいけないのだ。

▼人間が、繭を破ってやる行為は、哺乳動物保護主義者たちの行為と同じで、「管理」にほかならず、自然を自然とも思わない恐るべき増上慢と言っていい。増上慢とは、仏教でいう、まだ悟りを得ていないのに得たと思念して高ぶった慢心のことを言う。

▼「いただきます」という言葉のない欧米人が何を言っても、君たちの言葉には、まったく心も愛も無い。ただペットをかわいがるのと同じ、人間本位の自己満足にしか思えない。

▼まず、自分たちが食っている牛や豚や、鶏や羊がどういう殺害をされているか、とにかく現場を見てみよ。とくに、君たちが舌なめずりする「おいしい」子牛や子羊がどうやって殺されているのか、よく見てから物を言え。初めて、そこで人間が彼らを食わなければ生きていけないという現実と、「ありがたい」という気持ちが生まれるのだ。その気持ちの無い、どんな哺乳動物保護の運動も、しょせん「いんちき」と呼ばせてもらおう。

▼そもそも、下等動物は管理上殺していいのなら、人間も管理上(政治的に)殺していいわけだ。サメより、イスラム過激派のほうが遥かに甚大な脅威だ。ある意味、サメより遥かに人間のほうが「下等」だ。鯨は殺してはいけないが、イスラム過激派は、サメや蛇と同じようなものだから、どんどん殺していいということになるわけだ。

▼すると彼らは言うだろう。「いや、人間と動物は違うよ。議論のすり替えだよ」しかし、わたしはいう。「きみたちが、鯨やイルカは人間と同じように頭がよくて、かわいいから、殺しちゃだめだと言ったんじゃないか。議論のすり替えだというのなら、君たちがすり替えているのではないのか。」・・・

▼豪州の反日運動のほとんどすべては、この鯨問題に集中している。昔の反日的な国民性は、現在ほとんど消滅しており、むしろ親日国家と言っても良いくらいだ。ごく一部の「もののわからない人たち」が反日を叫んでいるだけである。それも鯨問題ただ一つによってである。

▼しかし何といっても、このヒステリックな大衆運動というものが一番目につくのは、やはりアメリカである。あの国ほど、こうしたムーブメントがヒステリックになるところはない。

▼最近、南北戦争を指導した軍人や政治家たちの銅像(とくに南部に集中している)を撤去するという運動が起こっている。南部連合(南軍)が、あの戦争で奴隷制を維持しようとしたからだ、というわけだ。その南軍の英雄たち(リー将軍のような例だ)の銅像はけしからん、引きずりおろせ、ということで撤去され始めている。

▼ある有名なメディアでは、ニュースのキャスターが、たまたまリー将軍と同姓同名なので、キャスターから降板させるという決定をした。これは、リベラルに不快感を思い起こさせる危険性があるので、この点を配慮した決定だという。これも日本ではおよそ信じがたい決定だろう。しかも、よく見れば、そのキャスターは確かに同姓同名だが、白人ではなくアジア人なのである。ヒステリーというのは、最後はこういうことに発展してくるのだ。

▼そもそもである。リベラルはそろいもそろって、あの南北戦争の意味を、取り違えている。黒人の人権とか奴隷制度は非人間的だからいけないとか、そんなヒューマンな動機で起こった戦争ではないことを、肝心のアメリカ国民が完全に勘違いしているのだ。(閑話休題第453回【誰がリンカーンを殺したか】参照)非アメリカ人のわたしにそれを言われるなど、恥と思え。

▼しかも、リー将軍の場合は、奴隷制度反対論者である。しかし故郷に殉じるために、やむなく南部に残って南軍を率いたのだ。こうなると、間違いも間違い、でたらめな撤去運動だということだ。日本人のわたしに言われてしまうようでは、語るに落ちる。

▼その自身の不勉強さを棚上げしておいて、まったく次元が違う理由で、それも20世紀になって初めて「あたりまえ」になった良識によって、歴史を壟断(ろうだん)するのである。これをヒステリーと言わずしてなんとしよう。

▼アメリカの場合は、おそらく建国以来、「進歩することが良いことだ」という、直線的な歴史観が強いためかもしれない。ピカソが言ったような「進歩などしない。変貌するだけだ。」がわからない国民性なのである。だからあの国には、いつになっても芸術というものは育たない。このアメリカの精神的病理というものは、多民族国家であるから、けして「民族性」ではない。やはり「国民性(社会風潮)」と呼ぶべき代物だろう。

▼そして、執拗にトランプ批判を繰り返す「リベラル」な人たちは、「多様性の尊重」という事を掲げながら、アメリカ国内に根強い白人至上主義を非合法にしようと余念がない。これは、アメリカのみならず、欧州にもみられる現象である。多様性を認めるなら、(暴力に訴えない限り)白人至上主義も、その存在くらいは認めてやればいいじゃないか。ガス抜きができない社会ほど、非人間的なものはない。

▼しかも、シャーロッツビルで、白人至上主義者とリベラルが衝突して、後者の女性が一人死んだ事件が起こったのも、その発端はリベラルが先述の南部連合の英雄たちの銅像を撤去する法案を持ち出したからだ。「銅像」一つ、許容できないくらいリベラルというのは、「多様性を認めることができない」のか。

▼しかも、「多様性の尊重」を掲げるリベラルが、銅像撤去に反対する白人至上主義者(かつての南軍・南部連合に郷愁を覚える人たち)とおなじように暴力的になってどうする。トランプ大統領が「どっちも悪い」といったのは、そういうことだろう。該当で、両者が尖鋭に衝突した挙句に、あの女性一人死亡という事件が起きたのだ。

▼「どっちも悪い」という、大統領のその言葉ジリをとらまえて、「俺たちを白人至上主義者といっしょにするな」と激昂し、今度は「トランプ大統領は人種差別主義者だ。引きずりおろせ。われわれが選んだ大統領ではない」とエスカレートしていった。「選挙」で選ばれたにもかかわらず、である。このアメリカ人たちは、英語すら、わからないのか。そうではない、わかろうとしないのだ。だから、ヒステリーと呼ぶ。

▼ドイツでは、ナチズムを標榜すること自体が非合法であるが、不思議なことに、ナチズムと同じように暴力的政治変革を前提とする共産主義は非合法ではないのだ。これも矛盾である。旧ナチス時代の軍人の墓に、花を供えることも非合法なのである。

▼フランスにあっては、「ユダヤ人虐殺は無かった」と発言するだけで非合法である。どこかおかしくないだろうか。明らかな、言論統制がまかり通っているのである。暴力でもなんでもない、この科学的な立証研究の発表そのものが、非合法なのである。どこに言論の自由があるのか。

▼もちろんただの「ヒステリックな国民性」という一言で済ますには、念がいったものだと思わないだろうか。むしろ、そういう運動は、自身にとって都合が良いものだと思う利権集団がそこにある、と考えたほうが自然かもしれない。

▼したがって、今劣勢に追い込まれているアメリカ南部の伝統主義者たちは、そのリベラルの裏側にいる利権集団との政治的な戦いに押されつつあると見たほうが、現実的である。

▼この国民的なヒステリー症候群というものは、隣国の韓国においても存在する。韓国の、近年の「慰安婦像」大量設置運動や、徴用工像まで飛び出す有様というのは、まさにそれだろう。

▼この「なんでも反日」という性向は、まさに韓国人のヒステリー状態がずっと続いている一種の病理にしかみえない。韓国語では、火病(ファビョン)というが、Wikipediaでは、『文化依存症候群(文化統合症候群)のうち、朝鮮民族特有の精神疾患と指摘されている病気である』となっている。ちなみに、その出典は、アメリカ精神医学会が「精神障害の診断と統計マニュアル?」の付録として解説しているものだ。

▼しかし、それも単なる国民性(あるいは民族性)としてのヒステリーとみる一方で、やはり政治的にそれが非常に都合のよい理由や、利権がそこにあると考えたほうが、対処する上では現実的だろう。韓国人の火病が不治の病なら、土台、修正など無理な話だ。だったら、別の方法を講じるよりほかない。しかもより現実的な方法でだ。

▼実際、韓国で親日的な人たちは、アメリカの南部人のように声高に抵抗せず、沈黙を守っているわけで、まったく「反日に異論が無いかのよう」に装っている。特に、人口的には少なくなってきてしまったが、日本統治時代を知っている、良識的な世代の多くは、真実を知っている。しかし、口を閉ざし続けているのだ。

▼彼らは、「日本時代は良かった」「そんなに悪いものではなかった」などと言った日には、リンチに遭うからである。この表現は、日本の陸軍士官学校を主席で卒業した、朴正熙元大統領の回想録の中にあるそのままの表現である。だから、彼は国賊扱いになっている。韓国を、朝鮮戦争の惨禍から立て直し、高度成長を遂げていくに至る立役者にもかかわらず、である。

▼ましてや、こんな朴正熙元大統領と同じことを一般の韓国国民が言ったら最後、その日から、職を奪われる。村八分にされる。おまけに、民族の裏切り者として、土下座させられ、過ちを犯したと懺悔させられ、衆目の中で号泣してみせなければならない。

▼日本は、それがどこの国であろうと、親日的な人たちを増殖させるような積極策をもっと強化する必要がある。彼らが正論を言えるような環境づくりに、力を入れるべきなのだ。日本がなにかの問題で批判の矢面に立たされたときに、日本を援護射撃してくれる人たちを、各国に増殖させなければならない。それが政治的な意図による反日に対する、政治的な対処だ。韓国人や、アメリカ人や豪州人を、ただの大衆的ヒステリーだといって話を終わらせてばかりいたら、われわれの身がもたないのである。どうせ、治るものではないからだ。

▼そもそも問題を、「あの民族は」で片づけることは、危険である。「民族蔑視はいけない」などというきれいごとを言っているのではない。より、現実的に有効な手段を考えようと言っているのだ。「あの民族は」と言った瞬間に、われわれ自身が「思考停止」状態になると覚悟せねばならない。

▼だから、こうした日韓問題も、「韓国人は…」で片づけるのは、危険であり、間違っている。そもそも民族といっても個々の人間はまったく違うのだ。韓国も、そうである。そう言っていれば都合のよい、なんらかの都合や利権(大きい小さいはともかく)がある、と考えたほうが現実的だ。人間は、利権でほとんど片付いてしまうのだ。イスラム国ですらそうである。ただ、そういう人たちの「声がやけに馬鹿でかい」ということなのだ。声のでかい奴の言うことが「通って」しまうのだ。

▼そもそもこうしたヒステリックな反日を許しているのは、もとをただせば、韓国人が悪いというより、日本の政治の怠慢なのだ。「漢江の奇跡」が日本の膨大な経済援助(戦後賠償の代わりである)であった事実一つ、韓国では公式には「無かった」ことになっている。従って、一般にはあの朝鮮戦争の惨禍から、実力でここまで発展して来たと勘違いしている韓国国民が大多数なのだ。それを、黙っていた日本が悪いのである。その怠慢のツケを、今われわれが払っている格好なのだ。

▼アメリカの公園などあちこちに慰安婦像が立ち始めているが、これが州議会で承認されていった経緯は、ほぼ在米韓国人ロビー団体による積極的な反日運動が成功したためである。日系の力が弱いのだ。それは、日本政府がもっと強力に支援していなかったからにほかならない。

▼日本は、そういう州が「手薄」なわけで、州議会がグ―の音も出ないほど、経済支援や文化交流を推進していけば、実は容易にひっくり返る代物である。

▼正論は言い続けるべきだが、しかしそうした「きれいごと」のうわっつらな議論で終わらせるのではなく、執拗に実利で諸外国を親日に傾斜させていくことに、もっと真剣になったほうがよい。国際政治は「きっとわかってもらえる」は通用しないのだ。せっかく日本に来てくれた諸外国の学生たちの多くが、日本にとどまらず、反日になっていったのでは一体なにをやっているのかわからない。

▼正論は、正論で良いのだ。延々と繰り返し主張し続けていくしかない。たとえば、先述の慰安婦問題もそうである。戦前、東京帝国大学卒業者の初任給(財閥大手や日銀など)が、50円から80円(月給)だった。一般の兵隊が15円から20円。小学校教諭の初任給は50円である。これに対し、慰安婦は、最低でも200-300円を月に稼ぐのはわけもなかったとされているが(当時の慰安婦たちの証言)、彼女らの収入は1000円から2000円というのが一般的なものだったのだ。実体は、こういうことだ。慰安婦募集も、この実態をベースで、なされていたのは事実である。物的証拠がいくらでも残っている。

▼これだけの所得差である。今のように、戦前より遥かに豊かな時代にあっても、大手銀行の大卒の初任給が20万円くらいだ。それに対し、月に250万円から800万円の収入が約束されていたら、はたして強制連行の上、慰安婦に従事させるなどということがありうるだろうか。考えれば馬鹿でもわかる話だ。

▼しかし、いくらそういう物的証拠を持ち出しても、ヒステリックな運動に火がついてしまったら、容易には消せないのだ。正論は、必ずしも「強力」ではないのだ。そしてヒステリックなそうした運動に誘導することが、自身に都合が良いと思う利権集団がそこにあると考えたほうが現実的だと言っているのだ。

▼韓国人の慰安婦問題を黙らせるには、韓国軍がベトナム戦争中に、どれだけの一般ベトナム人の虐殺と強姦を繰り返していたかを、暴き、一般に知られるところとなるよう「工作」すればよいのだ。いかに自分たちが、歴史に汚点を残してきたかを、白日の下に晒す以外に方法はない。日本人は、他人の恥部を衝くことを潔しとしない徳性がある。個々人のレベルでは、それは気高い徳性だ。しかし、国家レベルではそんなきれいごとでは済まされない。中国や韓国がまさにそれを執拗に行っているからだ。

▼とくにそれが、正論同士の意見衝突であるなら、しょせん前提がまったく異なっているので、両者納得する決着などありえないのだ。真実がはっきりしている慰安婦や徴用工問題でさえ、この有様なのだから。つまり、平行線という問題である。この平行線の問題を打開するには、「工作」しかありえない。もっと言えば「調略」といってもよい。実利で勝つのだ。これは、形を変えた「戦争」にほかならないからだ。民族性や、その精神的病理で話を片付けるのは、まったく政治的には有効性は無い。「戦争」だと考えたほうが、有効である。

▼敵の弱点を突くのだ。その士気を衰えさせるのである。そんなことをいつまでも言っていたら、自分たちが損だと思わせることなのだ。「孫子の兵法」そのままだ。たとえば、ベトナム戦争における、連合軍の一角・韓国軍(とくにソウル防衛師団の、猛虎部隊)による非道ぶりは、韓国内でさえ知る人は少ない。隠蔽されているからである。韓国内における、米軍への「国家経営の慰安所」が連綿として存在してきたことも、タブーである。日本の慰安所と違い、韓国における米軍慰安所は、強制であり、その実態は酸鼻を極めていた。

▼ましてや、日本の統治時代を通じて、唯一の大規模暴動と鎮圧が起こったのは、1919年大正8年の3・1暴動だけである。これは、日本の朝鮮総督府集計によると犠牲者数(死亡者数)357名。これに対して韓国で言われているのは7000人死亡。ずいぶん乖離がある。

▼わたしは、朝鮮総督府の数値は正しいと思うが(多少、割り引いていたとしても、数千人規模であったとは思えない)、仮に百歩譲って、7000人を日本の治安当局が殺害したのだとしよう。

▼これと比較して、大韓民国独立後、これまでにどれだけの自国民を殺戮してきたか、その実態数値はまだ明確になっていないものの、1950年の「国民保導連盟事件」「国民防衛軍事件」だけでも、一般民間人の虐殺は最低60万人、最大で120万とされている。言っておくが、これは、韓国による推定数値である。日本人が捏造した数値ではない。しかも、これは氷山の一角であり、直接の戦争犠牲者を含まない、純然たる韓国政府・軍官憲による無抵抗・非武装の自国民虐殺である。

▼日本統治下で、3・1暴動を除けば、ほぼ大規模な反乱と弾圧が皆無に近かったのと比べて、いったいどっちがどっちなのだろうか。しかも、3.1暴動の場合、朝鮮総督府は、逮捕した反乱者たちを、結局一人も死刑にしていないのである。無罪放免か、長くても懲役3年である。そういう事実は、当時を知っている韓国人高齢者はみな知っている。が、口を閉ざしたままだ。首謀者などは、思わぬ放免となって、驚き、感激し、その後は強烈な親日主義者になってしまったくらいである。当然彼は、韓国では国賊扱いになっている。

▼余談だが、上記で挙げた「保導連盟事件」など自国民を虐殺した、当時の韓国政府の責任については、韓国の司法は「時効」としている。一方、それ以前の時代の、日本の慰安婦や徴用工などに関して、対日請求権は、「反人道的事件なので時効は無い」、という韓国司法の判断が出ている。一体、どちらが反人道的なのか。まったく意味不明である。

▼1965年の日韓基本条約によって、それ以前のことに関しては、「請求権の完全かつ最終的な解決」が取り決められ、代償として、日本は11億ドルの経済協力を行った。それが、今、ひっくり返されたのである。約束が、守られないという常習性といい、ご都合主義で身びいきの司法判断といい、やはり、どこかおかしいとしか思えない。法治国家ではないということがよくわかる事例だ。これは、韓国のみならず、中華人民共和国も同類である。

▼こういう国が相手であるから、日本も汚い手段を講じる以外にない。正論でぶつかっても、前提がことごとく覆えされてしまうので、平行線のままになるのがオチだ。

▼韓国にとって、弁慶の泣き所は、やはりベトナム戦争中の、韓国兵によるベトナム人女性強姦で生まれた混血児(ライダイハン)問題であろう。韓国軍によるベトナム民間人への集団虐殺事件なども、韓国政府は正式に謝罪していない。ベトナム人の、憎韓意識はかなり根深い。

▼ベトナム文化庁の公式な犠牲者数は、「正確なものではないが」と但し書きをした上で、韓国人による虐殺総数7000人としている。民間の聞き取り調査では、最低でも9000人である。実際には、遥かに多い犠牲者数であろうと推察される。そのうちの一つ、フーカット郡で韓国兵が起こした複数の事件のうち、とくに有名になったものは、結婚式の行列を襲って、花嫁を含む7名のベトナム人女性を強姦し、3名を殺害したというものなどがある。実態はこの一文で語り尽くせるようなものではもちろんない。

▼ベトナム政府は、この問題にまったくまともに向き合っていない歴代韓国政府に対して、「侵略者は未来志向といった言葉を使いたがり、過去を忘れようとする」と露骨に批判している。どこかで聞いたような言葉だ。

▼大事なことは、これらを正々堂々と暴くのではなく、「工作(調略)」によって暴いていくのである。外交上は、ニコニコ笑って握手をし、「友好を口にし」ながら、一方では大衆紙やタブロイド紙など、一般大衆受けするゴシップ系メディアから、燎原の火のように相手の汚点を暴露・拡散していくのである。こういう狡猾にして汚い手に、もっと日本は慣れていかなければ、どんどん「冤罪」で窮地に立たされるだろう。

▼ここに、ネットに掲載されていた、ある中国人のブログの翻訳がある。2014年のものだそうだ。日本を訪れた際、これまでの認識を一変させた経験を、自身のブログにつづっているものだ。以下、そこからパクってきたので、ママ転載する。

:::
民族のわだかまりを抜きにすれば、日本は確かに尊敬に値する国だ。日本の戦後の急速な発展や、現在に至るまでの科学技術、世界に影響を及ぼす文化などは、称賛せずにはいられない。

靖国神社は戦犯が集められている場所だと思っていたが、実際に行ってみるとA級戦犯は14人だけで、残りの多くは日本の平民が祀られており、そのなかにはなんと外国人も含まれていた。一方、われわれの国はどうだろう。抗日戦争の英雄を誰が供養しているのか。存命の兵士は最低限の医療や生活の保障さえ与えられていない。

私は以前、日本は再び中国を侵略するのではないかと考えていた。しかし、ここへ来て初めて、それが中国の思い過ごしだということがわかった。中国政府は国内を統治する目的から、一般市民に仇や恨みといった日本への敵対心を植え付ける必要があるのだ。これは古い冷戦時代の考え方だ。現代の戦いは軍事力によって解決を図るものではない。日本は経済、技術面ですでに中国各地の攻略に成功している。

中国人の盲目的な日本人への恨みは、扇動と自己への自信の無さからきている。相手を敵に仕立てることは、自分が相手の実力を気にしている証拠なのだ。実は、日本人は中国人をせいぜい「礼儀のない成り上がり者」としか見ていない。

もう1つ私が驚いたのは、日本は中国と国交を樹立した後、長年にわたり中国に経済的な援助をしていたことだ。1980年代は日本の巨額の経済援助もあり、日中は蜜月期を迎えた。映画、テレビ、アニメなど大量の日本文化が、世界を見始めたばかりの中国人の目に飛び込んできた。私の両親は当時の日本の映画に詳しく、私は任天堂のファミコンやドラゴンボールに夢中だった。

民族のわだかまりは怖くない。怖いのは相手の長所を見極められず、学ぶことをしない民族だ。清朝末期には「師夷長技以自強(西洋人の進んだ技術をもって自国を強くする)」をスローガンに掲げていたが、今はどうだろう?利益を争い、互いに毒を盛り合うような民族に、未来はないのだ。
・・・

▼こうした、良識ある中国人にもっともっと増えて欲しいものだが、おそらくなかなかそうはいかないだろう。戦後もっとも深い交流を相互に行ってきた日韓両国間でさえ、現在、過去最悪の相互認識に陥っているのを見ればわかる。彼らの良識に待っているヒマは無いということだ。やはり「工作」が必要である。「内外の敵」を絶滅に追い込むには、敵の暗部を暴露する工作と、敵中に存在する良識ある人々をシンパに願い招く工作だ。

▼日本にも、内閣調査部があり、公安警察がある。が、あまりにも「小部落」にすぎず、CIA(中央情報局)やNSA(国家安全保障局)のような膨大な規模は無い。もちろんソ連のかつてのKGB(カーゲーベー)や現在の連邦保安庁、中国の国家安全部とも比較にならない。ましてや、イスラエルのモサド(国家特務庁)など及びもつかない。

▼英国のような小さな島国でも、MI6(エムアイシックス、軍情報部隊。正式には、SIS・情報局秘密情報部)があり、冷戦以降の苛烈な情報戦を潜り抜け、当時、ソ連のダブルスパイに痛打を与えたことで知られる。CIAが中東工作でいつも頼るのが、このMI6である。

▼なにも「007 ジェームズ・ボンド」は架空の話ではないということだ。原作者のイアン・フレミング自身が、元MI6の諜報員だったことは言うまでもない(もっとも、デスクワーク主体だったようだが)。日本にもできるはずだ。

▼日本の政治家の多くが、中国訪問時に彼らのハニートラップに引っかかり、親中国的な言動をせざるをえないように強いられていることは、よく知られている。この汚い手を、日本は同じように返してやればよいのである。男は馬鹿だから、簡単にハニートラップにひっかかる。

▼ちなみに、冒頭の鯨の話だが、わたしはこれまでの調査捕鯨くらいのもので良い。たまに食うからこそ、美味くも感じられ(実際にはそう美味いものでもない)る。なにより小学校の頃の給食では、しょっちゅう「鯨の竜田揚げ」の日があり、それを心待ちにしていたあの頃の郷愁に浸れるというものだ。

▼当時、家で肉を食える日はごく限られていたのだ。鯨がどれだけ貴重な動物性蛋白源であったか、その時代に少年期を過ごした人ならわかるはずだ。こんな幸せなことはない。当たり前のように食っていた鯨を、こういう風に懐かしく思えるようにしてくれた、世界の捕鯨反対論者に心から感謝しようというものだ。お礼に、彼らの国で、さんざんぱら牛豚などの解体現場の動画を、ふんだんに見せてやればよい。悪いのは、彼らではない。大人の対応で済まそうとする、われわれ日本人なのだ。

増田経済研究所 日刊チャート新聞編集長
松川行雄




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