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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第526回・盛田昭夫の遺言〜1964年

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【閑話休題】第526回・盛田昭夫の遺言〜1964年

【閑話休題】

[記事配信時刻:2018-06-15 16:19:00]

【閑話休題】第526回・盛田昭夫の遺言~1964年


▼今、松下幸之助が1918年に創業したパナソニックが苦境の中のある。車載部品と住宅を軸足に再生を図ってきたが、足元ではテスラのとめどもないEV(電機自動車)生産拡大に付き合わされ、どうにも結果を出せずにいるのだ。

▼パナソニックの最高益は、1984年の約5000億円の最高益を出して以来、一度も最高益更新を果たしていない。かたやソニーのほうは、一時はやはり苦境に陥っていたが、このところは20年ぶりという最高益を更新している。株価の位置も明らかに異なっている。

▼今年はそういう意味では、パナソニック創業100周年であるから、西のエレクトロニクスの重鎮の再起を、心から祈念したい。東のソニーは、センサーで新たな世界観を開いたが、実はソニーに対する消費者や市場の期待は、実はややズレたところにある。

▼かつて、ソニーと言えば、日本中(と言わず、世界中)で子どもでも知っているブランドだった。が、今では子供たちにソニーといっても、誰も知らないのだ。世界的にも圧倒的な画像センサーの強みで再起してきたソニーだが、それでも微妙にわたしたち日本人がソニーに求めている「ソニー像」とは異なっている。

▼ここに、ソニーの創業者の一人、盛田昭雄が1964年に文春に寄せた記事がある。今となっては、日本が生んだ不世出の起業家の一人の、遺言のようなものだ。それはいまだに、わわれわれ日本人に、鋭い刃を突き付ける鋭さをまったく失っていない。今回は、この盛田の「遺言」を、まんま、掲載しておくことにする。今回は完全に手抜きだが、それだけの価値がある名文である。

:::

▼いま日本では、自由化対策とか開放経済にどう対処するのかということが、焦眉の急となっている。温室育ちの促成栽培も一応軌道にのって、世界の耳目を驚かすほどの経済成長を示しはじめたので、もはや一人前と認められて、弱肉強食の自由競争の世界にひきずりこまれ、いやが応でもそこで生きていかねばならなくなったのである。

▼日本の企業に真の国際競争力があるか、厳しい世界の自由経済の中で生きぬくだけの実力があるかどうかが、いま世界の舞台で試されようとしているのである。各企業は着々とその準備体制をととのえつつある。企業にとってみれば死活の問題なのだから、必死になるのも当然である。

▼しかし、私には一抹の不安がある。私などを含めて、日本の経営者が自由化問題に真剣にとりくんでいることは分るが、なお不安が残るのである。たとえば、自動車メーカーが量産体制をさらに整備するとか、車のモデルをどうかえるとかというくらいのことでは間に合わないのではないかと思う。

▼その場しのぎの対策では解決できぬほど、自由化が日本経済に与える問題は根深いものだと思う。

▼日本といえば低賃金というのが国際的にも通り相場だが、もはや現在の国際経済は、低賃金では競争できない段階に達しているのである。いま必要なのは、何よりも生産性の向上である。いいかえれば仕事の量である。

▼それゆえに、私は、国際競争に勝つために現在、日本の各企業がまず取組むべきことは、会社の機構、仕事に対する考え方という根本的なところを考え直してみることだ、と思う。

▼私は数年間アメリカで暮してみて、アメリカの企業と日本の企業とが質的に違うような気がしはじめた。アメリカの企業というのはたしかに営利団体であるが、日本はそうではないような気がする。私流にいえば、むこうは社員の成績をエバリュエーション(評価)することが基礎になった経済体制であるのに対し、日本の多くの企業は社員の事なかれ主義を根底にした体制であり、極言すれば“社会保障団体”の観さえある。

▼アメリカでは、自由経済の中の企業団体というものは「ギブ・アンド・テイク」の精神でとにかくもらったものに値するものだけは返すんだ、というやり方が徹底している。アメリカ人というのは、このエバリュエーションということばが非常に好きな国民だが、つねに成績をエバリュエートしてくれ、とつきつけてくる。日本でいえば勤務評定だ。

▼ところが日本では、勤務評定には反対だ。組合などは働かない社員でもクビは切るなという。大きな間違いさえしなければ、みな同じように年功で上っていくという仕組みになっているから、一見営利団体のようではあるが、中身は社会保障団体のような様相を呈しているというのである。

▼なるべく評価を減らして、年功によってみんなが平等に――というのだが、それは企業にとってみれば大変な悪平等だ。社会保障が企業と一体になっていると、働かなくても働いても同じものがもらえることになりがちである。とすれば、人間は次第に勤労意欲を失って怠惰になっていくだろう。

▼日本では温情とか家族主義とかいうものが強調されすぎて、勤労意欲の喪失、怠惰の習慣をますます強めているような気がしてならない。

▼このように見てくれば、アメリカの徹底した実力主義に立つ企業とわれわれ日本の企業が競争するのは、大変な危険のあることがわかろう。社会保障という大きなハンデキャップをもちながら西欧との企業競争に耐えられるだろうかと、私は内心不安なのである。競争力を高めようとするなら、回り道のようだが、この日本経済の根底にまず目を向け、改善の方向にふみださなければなるまい。自由企業は自由企業、社会保障は社会保障とはっきり分離させよと提案したい。

▼このことは社員だけでなく、むしろ企業の中枢にある経営者こそ真剣に考えなければならない問題である。日本は“重役天国”といわれるが、これがつづくかぎりは、外国との競争に打勝つことはむずかしいような気がする。

▼日本人は地位が高くなればなるほど働かなくなる、とよくいわれる。平社員から係長、課長、部長、取締役と位が上っていくということは、だんだん神様に近づいていくんだ、という考え方だからである。神様に近づくのだから次第に楽になるのが当り前。会社にはゆっくりと出てきてよろしい、秘書のもってくるコーヒーをソファでゆっくり飲む、昼間からゴルフに行く、というように、平社員のできないことが重役にできるのは神様に近づいたためである。

▼ところがアメリカでは、会社に「職種」はいろいろあっても「位」というものはあまりない。日本のように係長、次席、主任、補佐、課長などといった複雑怪奇な「位」はない。ゼネラル・マネジャー(総支配人)、マネジャー、クラーク(事務員)の段階しかない。仕事をするにはそれで十分だ。

▼日本は「位」で会社が動き、アメリカではポジションで動くといってもよかろう。ポジションというのは、責任と権限の限界を示すもので、上の方へいけばいくほど、当然大きな責任と権限があることになる。

▼終身雇用制と年功序列をとらないアメリカでは、ある一つのポジションの仕事、職務をしてもらうために人を雇う。入社後はその人がその仕事をやれるかやれないかを会社は評価して、その職務に不適当ならすぐクビにするというのが常識なのである。ほかのポジションへ変えてやろうという温情あふれる日本的観念はまずない。
▼部長になっても、その部長としての責任、権限を確実にはたすことによって、その人の部長というポジションは保たれるわけで、日本のように勤続何年になったからその年功によって部長の席を与える、取締役にするということはありえないことなのである。

▼大きなポジションをとればとるほど仕事量は多くなり、責任もしたがって大きくなる。だから会社は、それに見合うだけの高給を出す。それだけ仕事に対する緊張度も高まるのだから、休暇もとる。しかし、そのポジションに値しない人なら部長であろうと社長であろうと、いつでもこれをかえるということが、下から上まで徹底している。

▼ある会社で非常な欠損がでたことがあった。どうしてそうなったのか社長にもよくわからないというので、株主総会にはかった上で、ニューヨークのコンサルタント専門会社に、社の運営分析をたのむことになった。

▼調べた結果は社長のマネジメントが悪いという結論がでてしまい、社長がそのコンサルタントをたのみながら、その報告によってクビにされてしまった、というとても日本では考えられないような出来事が実際にあった。

▼私は自由競争経済の恐ろしさというものを改めて感じた。こんな厳しさが日本にあるだろうか。こんな国の企業と日本は競争しなければならないのである。
「重役」というものについて、もう少し述べてみよう。日本では取締役というのは、神様に近づく段階、ランクの一つ、と見做されているが、アメリカの法律上での取締役は全く意味合いが違っている。取締役は株主の中から選出され、その会社の運営を株主代表として取締るというものである。この取締役会の議長になるのが取締役会長であり、この取締役の中で毎日出勤して会社の仕事をみる人が社長ということになる。

▼社長はゼネラル・マネジャーなどの任免権はもっていて勤務評定もやるが、一方では、株主代表として会社の運営にあたっているのだから、株主に対してはいつでも信を問わなければならない義務がある。1年1期で決算報告を作り、配当もきめて、株主総会で信を問うのである。

▼日本流の半年1期の決算では前期との業績比較ができないので1年1期制であり、それだけに日本のように一度重役になれば、まず2年は大丈夫、といった甘いものではない。日本では社長も、サラリーマンの一番上ということになっているから、社長にも定年あり、という会社さえあるわけだ。アメリカでは「定年」はない。が、1年毎に厳しくその能力を評価され、少しでも失敗があればたちまちクビになる。社長といえども決して神様でなく、株主によって会社の運営がまずいと判断されればリコールされるのだ。

▼アメリカでは平社員は時間になればサッサと帰り、土曜日も休むのが普通だ。しかし重役クラスの人は毎日遅くまで残って仕事をし、土曜日でも出勤する人が多い。一所懸命に仕事をしているから、自分の給料は現在これだけだが、こんなに仕事をしているのだからもっと給料を上げろ、と堂々と会社に要求できる。もしそれに会社が応じなければ他の会社へ移ってしまう。求めてエバリュエーションを強調するのも、その評価をもとにして会社と取引きができるからである。自分の権利を主張するためにも、まず評価されることが必要なのだ。

▼お互いに食うか食われるかで競争しているのだから、高給をとるアメリカの重役は同じ高給をとる日本の重役より、もっとひどいテンションがかかっているといえる。時間も長く、密度のある仕事を要求されているのだ。それだけに、よりリラックスしたいという気持も強い。だから3週間なら3週間休暇をとって、その間だけはほんとに仕事から逃避して、心身を休めるという生活態度もでてくるのである。

▼日本は極端なことをいえば、終身雇用制で間違いさえしなければ定年までは保障されているのだから、下手に働くよりはジッとしていた方がいい。リラクゼーションで仕事によるテンションをほぐすというより、テンションを求めて徹夜で賭けマージャンをやったり、朝暗いうちから起きてゴルフ場にかけつけたりすることになる。仕事であまりにリラックスしているから、遊びではテンションがほしくなる、という滑稽なことになる。

▼アメリカにおいてはある意味では日本以上に「社長」というものは魅力ある存在となっている。社長というのは、ほんとうに実力があってそこまで上った人であって、大学を出て何十年かじっとしていたら何となくおさまっていた、というものではないからだ。

▼社長は大てい社員の出勤時間と同じだ。そして夕方は非常に遅い。土曜、日曜もたとえ出勤しなくとも、いつでも連絡がつくようになっている。社員とちがって、社長や重役たちにタイム・カードがないのは、上になればなるほど仕事量は多くなり、勤務時間は無制限だ、という考え方なのである。そして、それに対する報酬も多い。が、それだけに勤務評定される度合も日本より多く、苛酷なものであることも事実なのだ。

▼評価によってクビになったり、報酬がふえたりするのだから、彼らは自分の仕事の責任範囲をたえずはっきりさせておこうとする。ここまでは自分の仕事、それ以外は私には関係ない、という範囲をはっきりさせておかないと、余分な責任までかぶせられてとんだことになりかねない。よくいわれることだが、アメリカでは車と車の衝突事故をおこしても、決して「アイ・アム・ソリー」といってはいけない。「ソリー」といったら最後、自分が悪かったと認めたことになって、莫大な損害賠償をとられてしまう。

▼つまり、それほどアメリカでは権利・義務がはっきりしているのである。会社においても、日本人から見れば卑怯だとか男らしくないと思われるくらい、「それはオレの仕事ではない」と一所懸命になって逃げている光景にぶつかる。

▼この点に関しては、日本人以上にドライであり、悪くいえばセクショナリズムに侵されているといえないこともない。しかしこれも、エバリュエーション中心に動く体制なのであるから、アメリカ人にいわせれば当然のことなのだ。

▼権利をはっきり押出すには、まず義務の範囲を明確にしておかないと危険だ、という考えが骨の髄までしみこんでいる。だから温情なんて期待できず、施そうともしない。非常に冷たい人間関係だといえる。日本では近代的な大企業でも、よく「○○一家」などという呼び方がなされているが、こんな家族主義はアメリカでは味わえないものだ。

▼会社における同僚のつきあいも、同僚というよりは互いに競争相手だというライバル意識の方が強い。それがいいとはいちがいにはいえないが、真の競争力を企業につけるためには、ある程度こういう風潮も必要なのではないかと思う。

▼アメリカ人は時間から時間まで働くと、さっさと帰ってしまうとか、バケーションが多いとか、何となく日本人ほど働かないように思われているけれども、一方で能力のある人間は日本以上に働いていることを忘れてはならない。日本では能力のある人もない人も大体平均レベルで仕事をしていこう、というのが一般的だが、このやり方ではアメリカの高い生産性にいつまでたっても追いつけないだろう。アメリカと日本では競争による能力開発の差はあまりにも大きい。

▼もっと働け、もっと仕事を消化せよ、などというと何をいまさらと笑われるかもしれないが、この簡単な原則を、もう一度、開放経済の中で考えていかなければならないと思うのである。アメリカをはじめとする先進国の荒々しい経済攻勢に耐え、勝つために――。

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▼どうだろうか。盛田の54年前の言葉である。なにがこの間、日本は変わったのだろうか。ほとんど何も変わっていないような気がしてこないだろうか。これではアメリカと百回戦争をしても、百回負けるのだろう。しかも、敵は当時と違い、文字通り世界中すべてである。
増田経済研究所 日刊チャート新聞編集長
松川行雄



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