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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第525回・キレる日本人

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【閑話休題】第525回・キレる日本人

【閑話休題】

[記事配信時刻:2018-06-08 16:23:00]

【閑話休題】第525回・キレる日本人


▼近年、突然キレる老人が多くなってきたということが、結構話題になってきている。長い人生経験を踏まえて、なおキレているようでは、寂しい限りだが、どうも老人だけではないようだ。若年層にまでこのキレる日本人が多くなってきているというのだ。これは由々しい事態だ。

▼言葉というものには、魂がこもっている。かつて、1050年ごろのスペインのユダヤ人哲学者、ソロモン・イブン・ガビーロールがこう言っている。

「口に出すまでは、言葉を支配するのは君だ。しかし、いったん口にしてしまったら、君が言葉の奴隷になる。」

それほど、言葉は局面を変えてしまう力を持っている。おろそかにはできないのだ。

▼だから、言葉を雑に使う人、大事にしない人、感情に流されて言葉を吐き捨てる人、みなその瞬間から言葉の奴隷に自らを落としているのだ。

▼それが私人間のことならまだしも、国家間で不用意に言葉を使うと、とんでもないことになったりする。

▼1950年、米国の不用意な政府高官の発言と、北朝鮮政府の計算違いが重なって、朝鮮戦争は勃発したのである。

▼当時、1950年1月に、アチソン米国務長官がワシントンの記者クラブで行った講演がそれだ、と歴史上では言われている。

▼アチソン国務長官は、当時のアジアにおける米国の防衛線(アチソン・ライン)に言及し、朝鮮半島はその防衛線の外にあると示唆したのだ。

▼北朝鮮の当時の指導者だった金日成は、この発言から、米国は明らかに「韓国を防衛しない方針なのだ」と受け止めた。とんだ計算違いである。

▼実際、極東に配備されていたアジア・太平洋軍最高司令官のマッカーサー(日本に駐屯していた。日本が占領下の時代である)も、よもや北朝鮮が38度線を突破して、奇襲しこようなどとは思いもよらなかった。

▼それは韓国の政府軍関係者も然りである。従って、まったく無防備状態だったといっていい。金日成は、工作員の情報から、いかに韓国が無警戒であるかも裏をちゃんと取っていた。「そうか、アメリカは、本当に韓国を守る気がないのだ。」その上での、アチソン発言である。

▼5か月後の6月25日、北朝鮮は全軍で38度線を突破し、韓国に侵攻した。・・・

▼近年、キレる人間が多くなってきたという。言葉をうまく使えないと、人間、せっぱつまって自分を失い、キレるのである。ここにも言葉の重要性がかかわっている。

▼そういう人はたいてい、言葉を知らない。いや、正確に言えば、ボキャブラリー(語彙)を多く知っていたとしても、言葉の使い方を知らなければ、言葉を知らないのと同じだからだ。

▼そしてこの言葉の軽視というものが、加速度的にこの社会で進行している。画像化、動画化といった、きわめて情報伝達としては便利な科学技術が長足の進歩をしているが、その一方で、余暇を使って、一段と言葉というものへの造詣を深め、人格にまで言葉を育て上げようとする日々の心がけは、むしろ失われていっているのだ。

▼これでは、なんのための情報伝達の進歩なのだろう。伝えるものそのものがなくなっているのだ。それは、言葉を手段だと勘違いしているから、そういうことになる。言葉こそ、実体であり、魂を持つのだということを、忘れているのだ。

▼昔は、電話より手紙を書いたものだ。この作業は、大変な労力を伴う。たった一枚のハガキでもだ。しかし、それすらしなくなってきている。

▼今より、社会はすべてにおいて、距離が遠かったから、すぐに会えるということも無かったのだ。電話では、顔が見えない。表情も言葉なのだ。全身で人間は言葉を表現しているのだ。だから、大事なことは、電話ではなく、直接会って話さなければならない。あるいは、長い手紙を書かなければならなかった。

▼それがどうだ。今では、メール一本だ。しかも、言葉になっていない。短文。思いつき。ただの「感じ」。ついには、絵文字。最後には、自分の言葉ではなく、「いいね!」をクリックするだけで済んでいるのだ。

▼これだけ、効率的になった情報伝達の世界にあって、余った時間を、もっとその実体である、言葉の錬成に努めればまだしもだが、まったくそれはなおざりにされている。どんどん、人間が言葉から遠くなってきているのだ。

▼おまけに、大学生の、「生徒化」が進んでいる。もう十数年も前だが、母校の大学に用事があって立ち寄ったことがある。

▼キャンパスの中を歩く学生たち、カフェに集う学生たち。表情はもちろん、話している内容そのものが、どうにもわたしには、とてつもなく「幼稚」にしか思えなかった。わたしが、彼らより、年を食っているからではない。彼らの言葉自体が、わたしの学生時代に比べて、甚だしく稚拙なのだ。

▼筑波大学の研究チームが、大学生調査を繰り返し行っている。その結果を見て見ると、慄然とするものがある。

▼出席率は、97年の平均62.3%から、2013年には87.7%に上昇。授業に満足しているという学生も、26.8%から、49.8%へ倍増しているのだ。

▼学科やクラスの友人関係、部やサークルの人間関係に満足している学生も、大いに増加しており、「今の大学への満足度」に至っては、66.7%から75.9%に上昇している。

▼みな、まじめで、従順で、率直な学生気質になってきているように見える。要望としては、「学生の生活や学習について、大学の先生はもっと指導したほうがよい」というものが非常に多くなってきているそうだ。なんなのだ、これは。小学校ではないぞ。

▼このメンタリティが「生徒化」である。学生は、社会的責務を執行猶予(モラトリアム)されているものの、すでに独立した社会人である。

▼かつて、学生といえば、朝から晩まで、現状への不満のはけ口をなにかに求めて、日々悶々としていたはずなのだ。その爆発的エネルギーが、(それが良いとは言わないが)政治的に過激な直接行動にも結び付きやすかった。年がら年中、不満だらけ、それが学生だったのだ。

▼「なぜだ?」という問いこそが、学問の本義だからだ。生徒にはその問いを放つ動機などはない。生徒だからだ。しかし、学生は違う。

▼だから、昔はみな、ひたすら本を読み破ったのだ。自分を爆発させ、世界をひっくり返し、新しい価値を生む大きな運動を生み出したいと希求していた。

▼学生たちはあの図書館の紙とインクの匂いに包まれて、小さな活字の羅列の中に、その突破口をなんとか見出そうと必死だった。

▼今は、社会は社会で、大学生に、より即戦力を求めた結果、効率的な能力育成に大学もいそしんだ。いわゆる大学の専門学校化だ。専門学校が悪いと言っているのではない。専門学校はそのための学校なのだ。では、それなら、大学とはなんなのだ。

▼行政は行政で、高校生以下の「生徒たち」に、「自分の言葉で考え、発想できるように」していきたいという方針をだしている。たとえば、高校の歴史教科書から、人名や事件名をどんどん削除しようとしている。

▼蘇我馬子や新選組、坂本龍馬、クレオパトラなどは、削除の方向だそうだ。過去との対話そのものである歴史にして、このありさまだ。その代わりに、ご丁寧にも「気候変動
」や「グローバル化」といった言葉が追加されるという。教科書に掲載されている名前を半分に減らし、1600語にするというのだ。私に言わせれば、「ばかやろう。そんなものは、毎日、日経新聞を読ませれば事足りる話だ」ということになる。

▼もっと下がって、小中学校では、同じように暗記物を減らして、もっと生徒たちに自由に自分自身の考えや発想を、自分の言葉で引き出せるような、議論を中心とした学習内容に変更していくというのだ。

▼こういうことを考えている官僚や教員というものは、そもそも言葉というものを知らないから、そういうことになる。なにか、忘れてやいまいか。お前たちの言う言葉とはなんだ。たんに、技巧のことか。中身がなくて、どう技巧を駆使するというのだ。

▼若い年代など、価値はゼロである。はっきり言わせてもらう。わたしは自分がそうだったとつくづく身に染みているから、言う資格がある。若さなどなんの価値もないのだ。ただ、時間があるというだけのことだ。

▼訴える中身も、経験も知識もないのだ。くその役にも立たない、それが、若いという意味だ。つまり、言葉が、魂がまだないのだ。その彼らに、ただ技巧を学ばせ、社会において有用な技術習得にばかり向かわせ、恐るべき情報伝達のツールを与えて、意味もない薄っぺらい議論をさせて、それで彼らをどうしようというのだ。ただのから騒ぎの言葉の奴隷になり下がるだけではないか。愚民、都合のよい消費者、資本の奴隷、そういう気がしてくる。

▼世の中は便利になり、大学は居心地がよくなり、社会ですぐ使える基本的技術を容易に習得できるようになったことは、よいことだ。しかし、言葉は失われている。「教養」ということだ。これを、昔は「仏つくって、魂いれず」といったものだ。

▼あるゲーム・クリエーターの人が書いていたのを思い出した。彼は、若いころ、大変な苦労をして、マクロを学び、ゲームの作り方を習得したそうだ。今では、素人でも簡単に、ゲームをつくること自体はできるそうだ。そういうソフトがもうできているのだ。

▼しかし、それが本当に面白いゲームになるか、良いものになっていくかは、ゲームをつくる技術によってではない、と彼はいう。

▼その設定や前提となる環境、地理、歴史を知らなければならないという。キャラクターの人物像を練り上げるには、偉人や犯罪者、心理学、社会関係論、政治、宗教、民族や民俗、文化全般にわたって、広く深い造詣がなければ、重厚な傑作をつくることができない、という。

▼それが「教養」なのだ。大学こそは、その「教養」をまず培うことが、旧制高校以来、日本の伝統であったはずだ。旧制高校は、今の高校の後半から、大学教養学年までに相当する。本当の専門教育である大学は、その上層に位置しており、現在の大学院にまでかかっていた。

▼明治の学生たちは、せいぜい、口を開けば、デカルト、カント、ショーペンハウワーくらいしか知らなかったかもしれない。大正・昭和初期の学生は、ドストエフスキー、ニーチェ、マルクス、レーニンくらいしか、知らなかったかもしれない。

▼それらは、確かに、現実の日常生活に何の関係もない世界観だ。しかし、その一見、無意味な知的格闘が、すべて一人の人間の血肉として結晶されていったときに、「教養」として花開くのだ。

▼そういう意味では、なにも自分というものがわかっておらず、わかる方法も知らず、自分以外の世界も知らない子供たちや若者たちに、「自分の言葉で考えよう」など、どこをどう押せばそういう結論になるのか、わたしにはまったく理解できない。

▼日本は、言葉を軽視しすぎたのだ。その結果が、キレる日本人が多くなったという現状だ。確固たる自身の言葉が無いから、魂をもった言葉を持っていないから、すぐに言葉につまって、キレるのだ。日本人は、その教養の無さ加減では、語るに落ちるというありさまになっている。

▼個性が大事だといいながら、出来上がる人間は、ますます定型化していっている現実は、それぞれの言葉を持たないからにほかならない。人間は平等だというから、こういうことになる。社会が、「人間は違うのだ」と言う勇気をもっていないからだ。人間は、似ていると嬉しいものだ。しかし、もっと楽しいことは、違っていることなのだ。最も端的な違いこそ、言葉に表れる。

▼わたしたちはみな、家庭でさまざまなことを教えてもらった。学校でもいろんなことを教えてもらった。そして、社会に出て、そのほとんどが、間違っていたということを思い知るのだ。

「18歳までに身につけた偏見の寄せ集め。それを常識という。」(アインシュタイン)

▼しかし、それでよいのだ。時代は、踏み越えられて行かなければならないからだ。そこで教えてもらうことは、すべて言葉である。だから、言葉は大事にしよう。いい言葉を使おう。そういう言葉をつかえるように、本を読もう。(先の筑波大の調査では、半分の学生が、まったく本を読まないのだそうだ。)

▼言葉なくして、愛することも、悩むこともできやしない。感情としてはできるが、薄っぺらいレベルにとどまる。言葉とは、つきつめれば、思想ということだ。

▼自由な議論の練習など、小中学生にはどうでもよいことなのだ。教えなければならないのは、こういうことだ。たとえば、「正義」とはなにか、という一つの嘘の例にとってみよう。

▼「正義」とは、「裁く」という意味だ。その反対語は、何かと問いただせ。それが、思考の錬成というものだ。「正義」の反対語は、わたしなら「愛」だと答える。「許す」ということだからだ。こういうことが、言葉を学ぶということなのだ。それは思想なのである。正義と愛は、一見、同じように崇高な価値のように聞こえる。しかし、現実の世界では、真逆の立場であることが多いのだ。言葉を学ぶということは、そういうことなのだ。

▼その思想(言葉)を学ぶには、歴史や、文化など、先のゲーム・クリエーターの発言の通り、広く深い知識を渉猟しなければ、土台培うことなどできやしないのだ。

▼家庭でも、学校でもその、熱い言葉(思想)を教えることができる日本人が、いなくなってきているということなのだろう。戦前の先生には骨があったとか、そういうレベルの話ではないのだ。

▼「グローバルな人材の必要性」などという、まぬけなことを言っているのは、日本人だけだ。グローバルとは、「違いを知っている」ということであり、外人と英語でおべんちゃらを言える人材のことではないのだ。

▼どこぞの上場企業では、社内公用語を英語にしているが、馬鹿丸出しとしか思えない。そういう経営者は、日本のことを一寸も知らないはずだ。日本のさまざまな文化や芸術や宗教、有形無形の価値を聞かれて、答えられないはずだ。つまり、彼は、自分が日本人であることを、そして日本とはなにかを、外人に伝える中身を持っていないということだ。だから、そういう英語の社内公用語にしようなどという、たわけた話になってくる。

▼TOEICが何点といったようなことは、もちろん悪いとは言わないが、しかし、なぜ日本人はそろいもそろって、同じ種類の努力を流行や麻疹にかかったかのように、するのだろう、と不思議でならない。英語など、下手でもよいのだ。言う中身を持っているのか、がすべてなのだ。中身があれば、外人は下手な我々の英語を、必死で聞き耳を立て、わからなければ何度も問いただしてくる。それが、言葉(思想)ということなのだ。それが、人を惹きつけるということなのだ。

▼そんな英語の勉強に無駄な時間を費やすくらいなら、投資の勉強をしろよ、と言いたくなる。人間には、はっきりしている真実が三つある。生まれたということと、必ず死ぬということと、投資をすればいくばくかでもリターンがある、という真実だ。その三つめが、いま危うくなっている。だから、どう戦うのかを学ばなければならない。そもそも、その土俵に乗っているのが、全人口の1割でしかない、というこの現状が、すべてを物語っている。

▼最終的に言葉(思想)の錬成は、その人間の「徳性」に直結する。池田澄子という俳人がいるが、彼女が名言を吐いている。

「いずれにせよ、おのれの無残を見尽くす覚悟、それが書くということだ」

そうだ。それが、言葉なのである。つくづく、キレそうなのは、わたしのほうだ、と思う今日この頃である。

増田経済研究所 日刊チャート新聞編集長
松川行雄



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