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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第528回・コードネーム『桐(きり)』〜前編

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【閑話休題】第528回・コードネーム『桐(きり)』〜前編

【閑話休題】

[記事配信時刻:2018-06-29 16:54:00]

【閑話休題】第528回・コードネーム『桐(きり)』~前編

▼流れに抗して孤高の言論を貫くのは尋常ではない。日中戦争が泥沼に陥っていく中で、多くの軍人や民間人が、日中和平工作に走り回っていた。しかし、結果的にはすべてその努力は徒労の情熱に終わった。

▼時の近衛内閣は、取り巻きに多くのコミンテルン(ソ連に追従して、国政混乱や内戦・外戦に仕向けようするスパイ)を抱え、ことごとく軍部の和平派による工作は封殺され、捻じ曲げられていった。世論は世論で、朝日新聞など、戦争拡大を煽る国家主義的なシュプレヒコールが飛び交っていた。

▼尾崎秀美のような近衛首相の政治顧問はその典型的な例だろうが、骨の髄から共産主義者にして、日本を強引に中国などへの戦争拡大を叫んでいた、いわゆる当時のオピニオン・リーダーだ。表向き、さも、極右翼や国家主義者のような仮装をし、実は日本を破滅的な戦争へと追い込んで、ソ連に占領させ、共産主義化しようと画策していた、国賊である。

(尾崎秀美)

▼誰も、尾崎が実はソ連のスパイだということなど、思いもよらない。そんな「体制派」のような顔をしたオピニオン・リーダーたちが、やんやと国民を扇動し、戦争へ戦争へと世論を激化させていったのだ。

▼本当の右翼や民族主義者たちは、その流れに対し、多くは抵抗を感じていた。「ほんもの」の典型であろう頭山満などは、満州国の建国に関してすら、否定的であった。だから、建国式典への出席を拒んでいる。

(頭山満)

▼不思議な風景だと思わないだろうか。世に言う、「右翼」、それもほんものの民族主義者たちは、その多くが大陸への軍事的進出に反対の立場であり、ソ連や共産党など、いわゆる左翼のスパイは、こぞって戦争拡大、支那を成敗せよ、と口から泡と飛ばしていたのだ。彼らの目的は、日本に無謀な海外侵略策をとらせ、自滅させることであった。

▼そして国民は、一見威勢の良い後者の意見に絶大な支持を与えたのである。そうだそうだと「暴支膺懲(ぼうしようちょう、暴虐な中国を懲らしめろ)」という大合唱となっていった。それは政府をも動かした。陸軍部内の、和平派の努力は、こうした圧倒的な戦争拡大の潮流の中で、何度も試みられては、その都度水泡に帰していったのだ。

▼その一人が、今井武夫だ。栗林忠道と同じ、長野出身の陸軍軍人だが、栗林が硫黄島戦であまりにも有名なのに対し、今井のほうはあまり知られることがない。しかし彼こそは、その日中和平交渉に、ほとんどのエネルギーを注ぎ込んだ軍人の一人だ。

(今井武夫)

▼この戦前の、それも盧溝橋事件をはさんで、どんどん日中戦争が拡大していった過程では、一連の和平派人脈がはっきりと確認できる。陸軍だけでも、白川→田代→香月と歴代の支那駐屯軍司令官は、戦争不拡大派だったのだ。このことも、まずたいていの人は知らないだろう。今井武夫はこの人脈の中にいた。

▼まず白川義則(よしのり)陸軍大将のことから書いていこう。明治元年、松山藩士の三男として生まれた。同じ松山出身で、日本陸軍騎兵隊の生みの親・秋山好古とは同郷であり、ずいぶん可愛がられたそうだ。よく秋山好古から、「おい、白川、勉強しているか」と声をかけられていたという。弟の秋山真之(日本海海戦を勝利に導いた海軍参謀)とも交流があった。松山・伊予出身という共通項が、そうさせていたのだろう。

(白川義則)

▼日清戦争中は、陸軍大学に在学中だったが、戦争勃発で中退し、出征。日露戦争では歩兵第21連隊大隊長。戦後は、大佐に昇進。歩兵第34連隊長。明治44年1911年には、第11師団参謀長、大正2年1913年には中支那派遣隊司令官、大正4年1915年には陸軍少将。陸軍省人事局長、陸軍士官学校長を経て、陸軍次官。大正12年1923年には、関東軍司令官。大正14年1925年には陸軍大将。昭和2年1927年には陸軍大臣。赫々たる栄進の末、昭和7年1932年、第一次上海事変が起こると、上海派遣軍司令官として出征。

▼このとき、昭和天皇から、「条約尊重、列国協調、速やかに事件解決」を指示され、加えて、「上海から十九路軍を撃退したら、決して長追いしてはならない。3月3日の国際連盟総会までに何とか停戦してほしい。わたしはこれまでいくたびか陸軍には裏切られた。お前なら、守ってくれるであろうと思っている」という言葉を賜り、白川ははらはらと涙を流したという。

▼白川はこの天皇の信頼に応え、上海から十九路軍を一掃すると直ちに停戦命令を出した。東京の参謀本部から強硬に追撃命令を受けたが、司令官の権限を以て、白川は停戦を断行。直後の国際連盟総会では、この白川の行動を高く評価する声が上がり、日本のとめどもない大陸進出を危険視する国際社会の険悪な空気は一気に好転している。

▼陸軍は、この白川の独断専行に激高したが、天皇は「本当に白川はよくやったと」逆に激賞した。その後も、白川は果断な処置を連発し、陸軍参謀や前線指揮官らの南京進撃論を退け、同年5月5日の停戦の正式調印の運びとなった。

▼しかし、白川は待たずに、テロに倒れる。同年4月29日、上海の虹口公園(現在の魯迅公園)で行われた、天長節祝賀会に、朝鮮人テロリストの爆弾で、重傷を被る。このとき、参列した有名人では、後に終戦の際、ミズーリ艦上における日本の無条件降伏調印を行った全権の重光葵外相(当時は在上海公使)がおり、爆弾で片足を失った。また、後に日米開戦直前まで、駐米大使として米国との苛烈な戦争回避の交渉を最後まで続けた野村吉三郎(当時は、第三艦隊司令長官・海軍中将)もいた。野村は、片目を失った。

(天長節爆弾テロ事件 爆発直前の写真 左から白川・重光・野村)

▼負傷者が引きも切らぬ中、白川は満身創痍のまま、事態の収拾に奔走し、指揮にあたっていたという。全身108か所の負傷だったそうだ。重光といい、野村といい、そしてこの白川といい、戦争不拡大派だ。そろいもそろって、彼らが集まったときに、爆弾テロとはどういうことなのだろうか。

▼そもそもこの第一次上海事変というのは、満州事変・満州国建国後、日本軍部の中には一連の満州での日本軍の軍事行動に対し、国際的な批判が高まっていたので、この目をそらすために、画策した陰謀であるという側面が指摘されている。

▼一方、中国政府のほうでも、蒋介石の独裁とはいいながら、各地の軍閥の統制は全く取れておらず、随所にソ連や共産党スパイが大量に流入しては、抗日運動や日本人襲撃などを扇動していた。

(蒋介石)

▼こういう四面楚歌の中で、白川は中国の第十九路軍を一掃した後、ただちに和平交渉に入ったのだから、日本の強硬派の恨みを買っていたろうし、中国の共産党シンパたちからも、邪魔な存在だったわけだ。両方とも、白川がいなければ、日中全面戦争に持ち込めると算段したと思っていたろう。

▼重傷の白川は手術を受け、いったんは小康を得たものの、停戦後の5月23日に容体急変し、26日に逝去。天皇は御製とともに、勲一等旭日桐花大綬章、男爵などを追贈し、白川の死を悼んだ。昭和天皇は、白川が第一次上海事変を早急に取りまとめ、戦争拡大を防いだ功績を、深く感謝したという。

▼タイミングといい、存在の大きさといい、わたしなど疑い深い人間などには、どうもこの天長節爆破事件は、陸軍の謀略だったのではないかと勘繰ってしまう。戦争不拡大派の白川たちを、謀略で一掃して、亡き者にしたいという意図が陸軍の強硬派にあったとしても、決して不思議ではないからだ。

▼朝鮮人テロリスト(彼は、朝鮮・韓国では独立の義士として英雄である。後、軍法会議で死刑。)に、情報と爆弾を用意したのは、朝鮮独立派に仮装した何者か、陸軍の手配によるものだったのではないか、と疑ってしまうのだ。今のところ、こうした伏線については歴史の上では指摘されていないようだ。しかし、おかしいではないか。天長節などは毎年ある。なぜ、この時たった一度だけが、爆弾テロの標的になったのか。なぜ、朝鮮や日本国内で起こらず、上海で起こったのか。

▼この白川の殉職を受け、白川の腹心だった田代皖一郎(かんいちろう)参謀長が、白川の後を受けて事態収拾をし、これもまた内外から高く評価された。人物は温厚で、部下から非常によく慕われた。

(田代皖一郎)

▼この直後、7月7日、ついに盧溝橋事件が勃発する。北京郊外で、日中両軍が激突したのである。田代(佐賀県出身)は、支那駐屯軍司令官に就任。相対峙する中国軍の宋哲元将軍と関係が良好であった。宋哲元は、このとき田代のみならず、北京駐在武官の今井武夫陸軍少将とも非常に懇意で、娘の結婚式に今井夫妻を招待していたくらいである。

(宗哲元=左、蒋介石=右)

▼しかし、宋哲元が率いる第29軍は、内部で国民党の強硬派、あるいはソ連・中国共産党の命を受けたコミンテルン活動家が多く、対日強硬路線で大いに荒れていた。中国政府も、ときの日本政府と同じく、ソ連や共産党のスパイがはびこり、日中和平工作を徹底的に妨害し、むしろ戦争勃発を画策していたのである。田代は、白川の方針を踏襲し、戦争不拡大の立場を取っていたが、不運なことに病に倒れてしまい、7月11日には重篤に陥った。

▼このため、田代に代わり、配下の香月清司(かつききよし)中将に譲った。田代は16日に急死してしまう。今井武夫の述懐によると、このとき田代が危篤状態に陥っていなければ、その後の日中戦争は勃発しなかったかもしれない、というくらい、日本陸軍にとっては白川に続いて、またしても貴重な人材を回帰可能点ぎりぎりの重大な局面で失った。

(香月清志)

▼またしてもここで、わたしなどは、田代の死を早める謀略(例えば毒殺)などが、ひそかに行われたのではないかとすら疑ってしまうのだ。あまりにも、絶妙なタイミングで、ものの見事に和平派軍人が次々と倒れていった流れは、とても偶然とは思えないのだ。

▼この盧溝橋事件のころ、今井武夫は駐北京武官として家族とともに赴任しており、偶然事変に遭遇することになる。もともと、満州国奉天で特務機関員(スパイ、工作員)だったころ、田代は同地の憲兵隊司令官だった。そのころから今井は、田代に可愛がられていた。

▼今井は特務機関員だった当時、暇さえあれば中国各地を視察しては研究を重ねていた。中国の民俗・文化、軍閥の組織・政治体制、産業、経済情勢、万端にわたって知識や経験を積み上げていたのだ。それを見た田代は、「支那大陸を南北にわたって、お前ほど根気よく理解しようとしている者は少ない」と言って高く評価されている。

▼その田代が、盧溝橋事件という重大な局面で病重篤となったのだ。今井は現地軍の間を奔走して歩き、田代の病が重篤に陥った7月11日には、現地軍同士の停戦協定にこぎつけることができた。停戦成功である。

▼したがって、日本からの増援師団派兵の必要はないと、東京に強く主張したにもかかわらず、蒋介石が現地軍に増援師団派兵を決定したことを以て、近衛内閣も増援師団派兵に踏み切ったのだ。結局、蒋介石は派兵したものの、ほぼ取るに足らない規模であり、日本政府の反応は明らかに過剰であった。というより、意図的に事態を激化させようという意図があったとしか考えられない。

(近衛文麿首相)
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▼このように、田代の後を受けた香月中将や、今井武官ら現地軍側の一触即発というぎりぎりの状況下での停戦協定成立は、双方の本国政府の判断で、潰されてしまったのだ。

▼香月中将は、支那駐屯軍司令官として田代の遺志を受け継ぎ、戦争不拡大を主張するが、陸軍内部、とくに方面軍幹部たちの強硬論と対立。蒋介石(中国政府総統)も、宋哲元に対日妥協を禁じたため、宋哲元もその立場に窮してしまった。

▼結果的に前線の最高司令官二人が、和平交渉をまとめようとしているのに、周囲や本国がこれを潰してしまったのだ。香月中将は、この盧溝橋事件の事態収拾に積極的だったことからか、ただちに解任され、翌年予備役。つまり、引退を強いられた。

▼ここから、今井武夫のドラマが始まる。もはや現地軍に、戦争拡大の歯止めとなるリーダーはいなくなった。今井は、坂道を転がり落ちていくように戦争拡大を続ける日本を、それでも必死に止めようとする。そこには、数多の同志が、陸軍部内にも、民間にもいて、今井とともに和平工作に奔走している。

▼今回は、前半のみ。次回、後半で、あまりにも有名な、「桐(きり)工作」のことを書く。幻の日中和平工作である。

増田経済研究所 日刊チャート新聞編集長
松川行雄



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