【閑話休題】
[記事配信時刻:2018-07-06 17:34:00]
【閑話休題】第529回・コードネーム『桐(きり)』~中編
▼今井武官の努力で成立した現地軍同士の停戦は、結局一時的なものとなり、事変は決着せず拡大した。この昭和12年1937年7月7日の盧溝橋事件は、その後日本のとめどもない中国大陸進出の端緒となった。(4年後に真珠湾攻撃、8年後に無条件降伏である)今井は、同年末に帰国し、参謀本部支那班長、ついで支那課長に就任し、陸軍大学の兵学教官も兼務した。
▼すでにこのとき、今井は中国要人たちと親しい関係をつくっていた。盧溝橋事件の前年、1936年に、蒋介石を支えた姻戚関係の孔祥熙(こうしょうき、財政部長など歴任した、四大財閥の一人)の邸宅で、蒋介石やその高宗武ら側近たちとともに撮った写真が残っている。
▼不幸にして盧溝橋事件の収拾に一度は成功しながら、結局ご破算となったが、今井の日中和平の意思は変わらなかった。
▼盧溝橋事件の後、どんどん泥沼化する日中戦争を危惧し、これを収拾しようという陸軍部内の軍人たちは、民間と協力して、ウルトラCの作を打とうとしていた。影佐禎昭(かげささだあき)中将を中心とした、『梅機関』の日中和平工作だ。
▼ここでは、詳しく書かないが、『梅機関』は歴史的評価が、日本でもいまだに固まっていない。当時、中国政府は、和平派の汪兆銘と、政策方針が流動的な蒋介石にほぼ権力が二分されていた。
▼蒋介石は総統としてトップに立っていたが、亡き孫文の後継者は汪兆銘であった。また蒋介石の方針がときどきの情勢によって非常に変化したので、これまた歴史的評価がなかなか定まらない。
(汪兆銘と妻・陳璧君)
▼蒋介石は、基本的にこの時点では、国内に増殖する中国共産党を脅威に感じており、たびたびこれを粛正・弾圧していた。一方で息子の蒋経国をソ連に留学(事実上の人質)させており、ソ連の力を頼むところ大きく、一方で対日戦ではナチス・ドイツから軍事顧問団を招聘し、ドイツ式の軍事改革を行っているくらい、親ドイツ的でもあった。
▼しかしこのころから、すでにアメリカが蒋介石に接近を強めており、新たな「助っ人」としてアメリカを頼む意思も大きくなっていたのである。
▼このように共産党との内戦状態、民心掌握のための反日運動を平行して行っていたのだが、対日政策の基本路線としては、この当時、「満州国」に関してはほぼ権益を放棄してもよいという判断をしている。しかし、山海関以南のいわゆる漢民族居住地域からは日本軍を一掃させたいという強い要求を持っていた。
▼一方日本は、満州国の建国だけで満足していれば良いものを、蒙古・華北地域まで押さえたいという意図が陸軍には強かった。中国全土を支配したいという欲求ではなく、蒋介石支配下の支那は、共産主義が増殖しており、この防共圏として、蒙古・華北一帯を重視していたためである。この日本軍の、在支那駐兵問題が、最後の最後まで、日中両国の壁になっていく。
▼汪兆銘と蒋介石は、つかず離れずでときに協力し、ときに反目するなど、中国政権はきわめて不安定であった。
▼『梅機関』が狙ったのは、泥沼化する日中戦争を早期収拾するために、汪兆銘を蒋介石から切り離し、汪兆銘首班の中国政権を樹立し、これと単独和平をしてしまうという荒業だった。汪兆銘政権と日本との和平というモデルケースを強引につくり、それを以て、四川省の重慶にたてこもる蒋介石政権をも、最終的には和平に引きずり込もうという策である。
▼なにしろ、1937年の盧溝橋事件(7月)の後、日中全面戦争は制御不能となり、12月には日本軍が南京を陥落させている(このときに、発生したと言われているのが、例の「南京大虐殺事件」である。これについては、すでに閑話休題で書いている。
▼言われているような南京大虐殺は無かったが、一部の兵士が乱暴狼藉を働いたことは間違いなくあったろう。南京占領をした松井石根大将(彼も、中国要人たちと非常に懇意な、しかも英独仏語で記者会見をしたインテリ軍人であった)が、占領後、自軍将兵に対し「皇軍の名誉を著しく傷つけた」と激怒している。
▼一方、逃走する中国軍は、散を乱して逃亡しようとする中国兵を、背後から射殺する督戦隊があり、これが大量の中国兵を虐殺しているのは確かである。また、中国軍は、南京のあちこちの井戸に、コレラ菌やチフス菌などを投下して逃走しており、この犠牲は一般民間人に多く被害を出している。日本軍は、使用された病原菌の空のアンプルを大量に発見しており、市街において無料で南京市民に治療を行っている。南京事件のことを書いたら、捏造された事実は枚挙にいとまがないが、ここでは割愛する。
▼さて蒋介石政府は、首都南京を日本軍に奪われたので脱出。内陸の武漢に首都を移転した。近衛内閣は、翌1938年の年頭に、あろうことか「蒋介石政府を相手とせず」という声明を発表。一体、誰を相手に、いつまで戦い、どういう決着をつけようとしているのか、まったく方針が不透明になった。
▼日本軍の戦線拡大はこれに伴って、さらに拡大し、内陸へと侵攻。武漢にも迫った。そこで、蒋介石はさらに内陸・四川省の重慶へと首都を移転、脱出した。
▼この近衛内閣の、終わりなき戦線拡大を深く憂慮した陸軍部内の和平派が、動き出した。『汪兆銘工作』である。
▼汪兆銘は、影佐らが近衛内閣と打ち合わせた末に提唱した、「2年以内に、日本軍は中国から全面撤退(満州に引っ込む)」というきわめて重大な要項を含めた幾多の条件を信じ、本気でこれに臨んだ。日本側の要求は「中国が満州国の承認をする」だった。バータである。この交渉には、影佐と今井が直接かかわっている。
(影佐貞昭)
▼汪兆銘は、蒋介石と決別し、ベトナムに逃亡。蒋介石の暗殺団が派遣されたが、腹心が間違えられて犠牲となった。汪兆銘の窮地を救うために、山下汽船が傭船を提供するなどして、影佐らは無事に汪兆銘をベトナムから救出。南京で、汪兆銘政権の樹立にこぎつけ、日中和平交渉の成立を進めた。
▼ところが、近衛内閣が発した声明には、驚くべきことに「2年以内の撤兵」は削除されており、影佐ら『梅機関』のメンバーはもちろん、汪兆銘ら脱出組の面々は、一様に激しい失望を味わうことになった。近衛内閣に、「だまされた」に等しい結果になったわけだ。
▼もう汪兆銘は元には戻れない。このときの汪兆銘の落胆は察するに余りある。眼に涙をためて、「ちくしょう、ちくしょう」と言って慟哭したそうである。影佐や、今井をはじめ、梅機関に関わった犬養健(515事件で暗殺された犬養毅首相の3男で、衆議院議員)ら、多くの梅機関のメンバーは、一様に谷底に落とされたような思いだったろう。
▼汪兆銘政権は結局、日本の「傀儡(かいらい)」政権と化し、戦後は漢奸(かんかん、売国奴)」とされている。「幸いにも」汪兆銘は、その後の第二次大戦中に病没していたが、戦後、中国政府によって墓は暴かれ、遺体はゴミにされた。戦後まで生きていたら、彼には想像を絶するほど過酷な運命が待ち構えていたことだろう。
▼日本の敗戦後、汪兆銘の妻・陳璧君は、中国の軍事法廷に引きずり出され、反逆罪で裁かれた。このとき、彼女は気丈にも、裁判席側を指差し、名指しして、こう弁論している。
「あなたがた(蒋介石や毛沢東)は、夫やわたしを売国奴だと言って裁いている。しかし、あなたがたがどう思おうと、直接わたしたちが会い、和平交渉に携わった日本人たちは、みな善良誠実で、信じるに足る人たちばかりだったのだ。わたしたちが、日本と手を握って、中国に平和をもたらそうとしたことが反逆的だというのであれば、蒋介石よ、あなたはアメリカの力を頼んで中国を治めようとしたではないか。毛沢東よ、あなたはソ連に頼って、中国に革命を起こそうとしたではないか。わたしたちが、売国奴だというのであれば、あなたたちも同罪ではないのか。」
この陳璧君の激しい蒋介石・毛沢東(国共合作で、第二次大戦中は同盟関係だった)への糾弾は、法廷を激しく揺るがした。裁判官は直ちに、彼女の発言を封じた。彼女は、その後、死刑は免れたものの、獄死している。
▼この『梅機関』による汪兆銘工作は、先述通り頓挫してしまい、『梅機関』そのものも解体。第二次大戦中、影佐は東條首相から、「影佐は、中国に肩入れしすぎる」と酷評されている。結果、影佐は戦争中、南方最前線・ラバウルに左遷され、終戦をそこで迎えた。戦後は、肺結核が進行していたために、戦犯訴追はなされず、死んだ。
▼影佐は、『梅機関』を率いて、上海で活動していたころ、よくスーツ姿で、日本の新聞社特派員らがあつまるクラブを訪れたそうだ。親英米派のジャーナリスト・松本重治のところにもよくやってきては、手帳を開いて、「松本君。今の陸軍の悪いところに、どんなことがあるかね。」と聞いたそうである。人の話をよく聞き、熟考する、インテリだったそうだ。当時、中国に赴任していた軍人の多くは、大陸浪人を気取る「無頼派」が多かったが、影佐や今井は、まったく違う種類の軍人だったという。
▼この汪兆銘工作が、全面的な日中和平交渉にはならないことがはっきりしていく過程で、今井らの『桐工作』が始まる。今井は、汪兆銘工作に力を尽くしたが、一方で、最終的には蒋介石との和平が無ければ、全面講和にはならないと考えていた。これが『桐工作』である。
増田経済研究所 日刊チャート新聞編集長
松川行雄
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