【閑話休題】
[記事配信時刻:2018-11-09 16:36:00]
【閑話休題】第547回・反リベラルという「うねり」
▼非常にとっつきにくく、わかりにくい印象のあるのが、「哲学」というものだ。一体これはなんだろうか。
▼いわゆるフィロソフィスト(哲学者)なるものの走りというのは、古代ギリシャにさかのぼる。どうも数学の「三平方の定理」を発見したピタゴラスではないかと言われているようだ。彼が、哲学者を最初に名乗った人物らしい。
▼ピタゴラスが死んで30年後に、あのソクラテスが生まれている。どちらも、「数学」や「概念」の優位を打ち立てた人物である。何に対してか? 人間の肉体や自然を一段低く見て、現実よりも概念が上だという考えかただ。
▼この流れは、プラトンで結晶化される。西洋哲学は、すべてプラトンの注釈だとさえ言われる。
▼彼らの根本的な思想というのは、イデア論に尽きる。一体こりゃなんだ?
▼三角形を描いてみよう。分度器で、あるいは定規で、どんなに完ぺきな三角形など描けはしない。微小な狂いが生じるはずだ。この目に見えないくらいの狂いは、どうにもならない。完全主義者がヒステリックに顕微鏡で描こうと、微細の奥の性格さは再現できない。
▼だから、人間とは完璧ではなくて、完璧な世界というものは、人間には触れられないところに存在する。それをイデアと呼んだ。数学などはその最たるもので、「数式は美しい」という表現は、イデア礼賛の言葉である。
▼つまり、「幻想」である。そして、これが人間を他の動物と違い、その能力を乗数的に激増させてきた最大の特色ともいえる。
▼恋愛もそうである。自由も、民主主義も、平等という概念もそうである。しかし、こうしたイデア(理念といってもよい)が、急進的になると、いや、急進的にならなくとも、ただ「あたりまえ」の不文律になってしまうと、すべてただの「タテマエ」と化してしまう。結果的に、自由と平等の名において、統治や世論支配のためのイデオロギーに使われてしまうからだ。
▼現実を軽蔑し、幻想を賛美する。この哲学の在り方というものは、中世キリスト教によって極限に達する。実際、キリスト教神学の中に、哲学と数学が入っていたのだ。つまり、哲学と数学というものは、キリスト教神学の中の一科目にすぎなかったのだ。
▼しかし、幻想の中に生きていると、人間はしだいに病んでくる。中世には、教義によって風呂が嫌われていた。だから、不潔極まりないヨーロッパだった。当時イスラム教徒が、「汚きこと、キリスト教徒のごとし」と言っていたくらいである。
▼生殖も忌むものであり、そうはいっても性欲は抑えられないし、裸になって抱き合うなどもってのほかということで、局部だけ出して性行為をした。まじめな話そうなのである。
▼いや、生殖そのものすら、忌避されたこともある。実際、わたしの周囲には、熱狂的な聖書原典主義、無協会派のプロテスタント夫婦がいたが、彼らは長いこと子供をつくらなかった。直接聞いたわけではないからわからないが、おそらくなんらかの「方弁(いわゆる屁理屈といってもいい)」に使える概念をつくりだし、それで性行為を行ったのだろう。ようやくにして、かなりの高齢出産で、一人息子を得た。実は子供が欲しかったのである。
▼もうこうなると、人間は理念の奴隷である。哲学は、人間の支配構造のための幻想ということになってしまう。
▼だから、フランス革命を境に、このキリスト教的なそれまでの概念が音を立てて崩れてからというもの、今度は自由・平等・博愛という、神の座にとって代わった新たな理念へと、反動的に振り子が揺れた。右から左に大旋回したのである。理念が、神の呪縛から解き放たれて、暴走を始めたといってもいい。
▼しょせん、理念の奴隷。幻想の勝利である。フランス革命による恐怖政治も、ソ連共産党による大粛清も、中国共産党による文化大革命による大量虐殺もそうである。
▼「理念の犠牲になった」と言えば聞こえが良いが、ようするに「タテマエの犠牲にされた」だけのことなのだ。
▼だから、わたしは、先般この閑話休題で書いた、保守かリベラルか、という命題に対して、しいて言えば、保守でありたいと思っているのだ。リベラル特有の、あの理念に酔っぱらったような言動や政治行動というものは、どうも不快でしかたがないのである。
▼保守は、「理念と言うものに対する、言いようのない疑念と不信感」という立場だからだ。
▼経験値を重視しているものの、決して理念を否定しているわけではない。世の中は変遷していくのだ。常に新しいものが生まれては、社会を変えてきたし、変えていくだろう。ただ、その理念に対する絶対的な信仰のような情熱は、保守にとっては、「病気」にしか見えないということだ。
▼しかしすべてを疑えというスタンスは、わたしは大事だと思っている。人間が素直だというのとは、次元が違う話だ。よく、国際金融資本の陰謀論は、「常識的」な人たちから、「ただの陰謀論で、話にならない」と全否定されることが多い。
▼が、それではダメなのだ。その「常識人」の常識とは、アインシュタインが言うように、18歳までに教え込まれた偏見と誤解がほとんどだからだ。
▼「常識」くらい、アテにならないものはない。百人いれば、百人の正義があるのと同様に、まったく世の常識というものには、核心というものが無いのである。
▼国際金融資本の陰謀を、「根も葉もない、おとぎ話」だと切ってすてるのは簡単だが、それでは現実に歴史に巻き起こってきた、説明不能な事実を、世の「常識」はどう反証すのか、見せてもらいたい。
▼たとえば、(たまたま、先日の講演会で話題にしたロシア革命を例にとってみると)・・・
・1921年、ロシア・ボルシェビキ革命(10月クーデター)の指導部のほぼ全員(100名超)が、亡命者たちであった事実。
・レーニン、トロツキーら指導部のほとんど全員といっていいほど、ロシア系ユダヤ人であった事実。
・その彼らに、クーデターに必要な、膨大な赤軍創設のために資金を貸し出したのが、ロスチャイルド系の財閥たちだったという事実。(資本主義の権化が、世界発の共産主義革命の運動家たちに膨大な資金を貸し付けたことになる。レーニン、トロツキーは一人当たり、55万マルクである)
・実際にそれを実行し、レーニンたちを「封印列車」でドイツ国内を通過させ、ロシアに送り込んだのは、ロスチャイルド(英国)と交戦中のドイツ帝国における皇帝直属の秘密警察長官マックス・ウォーバーグと、ドイツ国軍情報部長官のフェリックス・ウォーバーグであり、マックスの兄弟は当時のアメリカの初代連邦準備銀行(連銀、FRB)の初代議長であったという事実。おまけに、マックスとフェリックスは第一次大戦後、ドイツにおけるユダヤ系財閥として大成しているという事実。
・レーニンたちは、革命成功後、ロマノフ王朝一家を惨殺して、その所有金塊(当時世界最大の金保有者がロマノフであった)で、ロスチャイルドに一括完済を果たしたという事実。(日本は日露戦争の際にロスチャイルド系に買ってもらった戦時国債を、1986年にようやく完済した。)
・レーニンが存命中は、ロシア正教会の90%が破壊しつくされた(共産主義は宗教を否定するためだ)。が、どういうわけかユダヤ教のシナゴーグは、一つも破壊されることが無かったという事実。
こういう事実を並べていったときに、ロシア革命というものが、教科書や歴史の常識として言われているようなものなのか、大変疑問に思えてくるはずだ。疑わないのは、思考の停止以外の何物でもない。一体、ロシア革命とは、誰の、誰による、誰のための革命であったのか。こういうことを、「ただの根も葉もない陰謀論」だとして、全否定するのは、ほとんど思考停止以外のなにものでもない。
▼「幽霊」も同じである。簡単に「そんなものはない」という。見たことが無い人が、「そんなものはない」というのである。見たという人が「いる」と言っているのにである。それも、一人や二人ではないのだ。数が多いということは、そこになにがしかの真実があるとしか考えられない。見たことも無い人が、「そんなものはいない」と言い切るのは、おかしな話だろう。
▼「見た」という人の話も疑わなければならないが、「そんなものはいない」という常識こそ、もっと疑わなければならない。見えないものが無い、というのであれば、X線はどう説明するのか。酸素はどう説明するのか。
▼見たものしか信じないというのであれば、地球が丸い、となぜあなたは信じるのか。NASAの映像をみてだろうか。NASAが捏造していたらどうするのだ。もし地球は丸くなどなく、完全な地平の連続であったらどうするのか。なぜ、それを疑いもしないのか。
▼本来学問というのは、こういうものなのだと思う。「なぜだ?」と問わなければ、嘘なのだ。哲学も、それと同じである。
▼わたしたちが今見ているものは、そのものではないかもしれないのだ。少なくとも、そのままではない。またそういう気持ちでいることは、常に問いかけを忘れない生活になっていく。脳も、感覚もヴィヴィッドなものになっていく。
▼今、世界は理念重視のリベラルな「人類的常識」が揺らいでいる。人権、格差、平等、互恵、自由、そういった輝かしい理念が、色あせてきてしまっている。なにも、トランプ大統領の登場ばかりではない。今回の中間選挙も、共和党が負けたとはいえ、歴代大統領がことごとく中間選挙で大敗したのにくらべると、共和党はよく善戦し、下院を失ったとはいえ僅差である。
▼長年政権を支配した、ドイツのメルケル首相が来年には退陣が決まっている。野党第一党はドイツ民族主義を奉じる右翼が急速に台頭。この動きは、ハンガリーやチェコ、オーストリアと言った中央・東欧にも相次いで出現してきている。ミニ・トランプは実は世界のあちこちで登場してきているのだ。
▼南欧では、イタリアがやはりナショナリズムの勃興で、EUの財政健全化主義という理念に公然と反旗を翻し始めている。
▼新興経済国家では、南米のトランプとも異名を持つ大統領がブラジルに登板してきた。フィリピンでも、理念を剛腕で蹂躙していくドゥテルテ大統領の人気は一向に衰えない。
▼これら、理念に裏切られた感に対する大きな反動が、世界的に台頭してきた最大の要因は、ロシアや中国、イランといった非民主主義国家の膨張である。この国々に対しては、「話せばわかる」が通じないということを、世界は身に染みたに違いない。
▼アメリカで、下院をようやく奪回した民主党・リベラルも、しょせん支持母体である労働組合の衰退によって、ただひたすら「少数者の権利」保護に血道をあげるだけの、些末なセクトの集合体と化し、底の浅い「左翼」の烏合の衆に堕落してしまっている。輝かしい理念など、もはやモノ言えば唇寒しというのが、世界の実情であり、米民主党も、日本の野党も、まったくこの時代の要求にこたえられないのである。「反リベラル」で結束しているトランプ大統領・共和党やそのシンパに、到底これでは太刀打ちできないと言われても仕方ないだろう。
▼総じて、この世界的な反動の潮流を、「保守」と言うのであれば、その根底にあるものは、「理念重視への懐疑」である。疑え、というと、非常にネガティブな印象が強い。新しいものを見よ、違う側面を見よ、とでも言えばいいだろうか。それを、新しくどういう言葉や標語にしたらいいのか、わたしもまだよくわからない。「保守」ではなかなか正しくその意味が伝わらないし、「ナショナル」は偏狭に落ちる。
▼トランプ大統領は、それを、できるだけ最大公約数的に納得できるように、単純に「アメリカ・ファースト」と叫んだ。ただ、恐らくこの潮流の意味は、それだけではないのだ。ただの自国優先というだけではなく、もっと違うパラダイムなのだろう。彼は、大統領選に勝つため、中間選挙を切り抜けるために、そういうスローガンを掲げているにすぎないのであって、もっと本音は違うところにあるはずだ。あるいは、彼の後ろに控えている本当に恐ろしい連中が、そういわせているといったほうが正しいのかもしれない。
▼完全に金属疲労を起こし、機能不全に陥っている典型的な例は、国際連合であろう。トランプ大統領は言いたげである。「これを壊すか、新しいのをつくろう」、と。「壊すのが面倒なら、自分がもう一つ別のをつくってもいい」、と。
▼尖閣諸島問題で、衝突する日中問題だが、日本は国際司法裁判所の裁定を仰ごうと主張しているが、司法の介入は両当事者の合意が無ければならない。それを中国が拒否しているのだ。慰安婦や徴用工問題でも、竹島問題も同じだが、日本はやはり国際司法裁判所の裁定を仰ごうと主張している。拒否しているのは、やはり韓国である。日本ではないのだ。
▼出廷すれば、負けが確実だから、中国も韓国も絶対に出てこないのだ。これが戦後、世界をただの「言ったもの勝ち、やったもの勝ち」の結果論的世界になってしまっているいい例である。南沙諸島の領有をめぐる、中国とフィリピンの国際司法裁定では、中国が敗訴した。しかし、中国は「国際司法裁判所の判決など、ごみのようなものだ」と公然と宣言して、占有を続行。これが、戦後、西側諸国がやってきたリベラルな「大人の対応」の結果なのである。
▼それに対する反動的な「うねり」を、なかなかどう表現したらいいかわからない。ただの従来的な意味合いの保守ではない。ただの時代錯誤の民族主義、ナショナリズムというのとも違う。新しいパラダイムは、それが後になってみなければ、名前がつかないのかもしれない。
▼2013年に亡くなった、コリン・ウィルソン(名著「アウトサイダー」は、学生時代に、よく読んだものだ。たぶん、同時代の本の虫は、こぞって読み耽った覚えがあるはずだ)が、こんなことを言っていた。たぶん、これがわたしが言いたいことを、一番正確に表現しているかもしれない。
・・・私は朝、目覚めると
ありのままの世界ではなく
自分が創造しうる
数百万もの世界を見る・・・
増田経済研究所 日刊チャート新聞編集長
松川行雄
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