【閑話休題】
[記事配信時刻:2018-11-22 16:20:00]
【閑話休題】第549回・民族と国民
▼民族と国民は違う。今、アメリカではそこを履き違えた主張が、国論を分裂させている。
▼「アメリカは白人のものだ」という意識と、「移民がアメリカをここまで発展させてきたのだ」という意識が、衝突しているのである。
▼どちらも正しいのだ。アメリカは白人のものなのである。白人が建国し、指導してきたことは間違いない事実なのだ。彼ら白人祖先の偉業を、尊び、敬意を表して当たり前なのだ。イスラム教徒が、ないがしろにするのであれば、不遜極まりない。
▼一方、アメリカの活力の一番大きなところは、移民政策を大恐慌直前の一時期を除けば、決して放棄しなかったことである。だから、新しい血を、歓迎し、重んじてこそアメリカのアメリカたる所以でもあるのだ。
▼民族の違いがあっても、民族のエゴを抑えて、国民として一致団結するというのが、国家というものの大前提である。
▼だから、「国民」という概念の前では、「民族」は謙虚さを持たなければ、「国家」が機能しない。
▼この話は、実は「裏」が取れていないのだ。物的証拠が残っていないのである。しかし、数多くの人たちが、はっきり記憶していることだから、ほぼ間違いないことなのだろう。それを紹介してみようと思う。
▼東條英機のことである。東條というと、わたしは個人的に好きか嫌いかというと、多少の同情はするものの、やはり好きではない。彼が1941年昭和16年11月1日の大本営連絡会議で開戦を決定した過ちは、到底なにをもってしても脱ぎ切れるものではない。が、歴史的に彼が行ったいくつかの事実は、正当に記憶されなければ、不公平だと思っている。
▼あたかも、日本軍国主義の走狗のような受け止め方をされかねない東條だが、戦前、満州駐屯関東軍参謀長だったころ、オトポール事件というのがあった。まず、歴史的事実としてはっきりしている話のほうから、書いておこう。
▼開戦からさかのぼること3年あまり、昭和13年1938年3月8日、満州と国境を接するソ連領オトポールに、ナチスから迫害を受けたユダヤ難民が押し寄せてきていた。彼らはシベリアを走破し、極東に逃亡。満州経由、アメリカや南米などに亡命しようとしていたのである。
▼満州国は、大日本帝国がドイツと同盟関係にあったことから、この難民受け入れ(実際には満州に定住しようとしていたのではなく、あくまで満州は通過点にすぎなかったのだが)に難色を示していた。ドイツの顔色をうかがっていたのだ。
▼オトポールでは、餓死者や凍死者が続出していた状況であり、在満州のユダヤ人たちが関東軍にかけあって、救援を求めた。
▼このとき、樋口季一郎特務機関長(少将)はユダヤ協会と交流があり、極東ユダヤ人協会の会長アブラハム・カウフマンと親しかった。
▼樋口は、「人道上の問題」だとして、独断で難民救援に動いた。当時、満州鉄道総裁だった松岡洋右(後の外相、国際連盟脱退のときの全権大使である)に特別列車の要請をする。
▼松岡も要請を受け、すぐに動いた。一説には2万人と言われるが、実数5000人くらいのようである。有名な杉原千畝(すぎはらちうね)の「命のビザ」という話も、ユダヤ人救出だが、このオトポール事件の2年以上も後の話になる。
▼松岡の支持で、東亜旅行社(現在のJTB)が難民救済の緊急列車を続々とオトポールに走らせた。
▼この樋口の独断は、東京の軍本部で大問題となった。なにしろナチスからは、ユダヤ人を拘束して、ドイツに送るよう要請されていたからである。リッベントロップ外相から、オットー駐日大使を通じ、日本政府に猛抗議をしてきた。
▼外務省も、陸軍省も、樋口の独断専行を問題視し、関東軍にドイツの抗議書を回付した。
▼関東軍参謀長だった東条は、樋口を呼び出し、詰問した。樋口は、こう答えている。
「小官は、自分のとった行為を間違ったものではないと信じます。満州国は、日本の属国でもないし、いわんやドイツの属国でもない。独立した法治国家として、当然とるべきことをしたにすぎません。たとえドイツが日本の盟邦であり、ユダヤ民族抹殺がドイツの国策であったとしても、人道に反するドイツの処置に、我々が屈するわけにはいかない。参謀長、ヒトラーのお先棒を担いで、弱いものいじめをすることが、正しいと思われますか」
樋口は、後にこのときのことを回想して、『東條という人は、筋を通せば、話の分かる人だ』と述べている。
▼結果、東條は納得した。そして、ドイツの抗議に対して、「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」と、これを一蹴している。東條というのは、こういう人物である。
▼大東亜戦争開戦の直接的な責任者として、どうにも弁護できない東條だが、人物としてはこういう人だったのだ、ということは記憶されなければ、酷であると思う。
▼さらに、東條にはこんな逸話もある。これが「物証がない」といった話である。
▼日米開戦時、在米の日本人学校の生徒であった藤内稔という人がいる。日系二世だ。彼らは、アメリカ人であった。しかし、日米開戦に際して、いったいどちらに忠誠心を尽くすべきかが、二世の間では大問題だったのである。
▼このことに対して大きな指針を与え、誇りを持って米軍に志願させる契機をつくり、
戦後の日系人の地位向上に大いに貢献することになる、画期的な出来事があった。
▼藤内氏の回想を、そのまま張り付けて閲覧に供したい。2010年ごろの本人の回想文である。
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日米開戦の半年ほど前のことでしょうか。ある日の朝礼のことでした。
遠藤先生という校長先生でしたが、あのときの訓話は、六十九年後の今でもはっきりと覚えています。
「東條英機・日本国総理大臣閣下から、日系人にとって重要な手紙が来ている。これから読み上げるので、謹んで聞くように」と前置きすると、ふところから一通の書状を取り出し、約百名の生徒と教員たちの前で読み上げたのでした。
私たちは全員直立不動の姿勢で拝聴した。何しろ昔のことなので内容の詳細は覚えていませんが、要旨は以下のようなものでした。
〈日系二世は、アメリカ人である。だから、あくまでも自国に忠誠を尽くして当然である〉
これは衝撃的な内容でした。日系二世の間で、日頃から論争が絶えなかった大問題だからです。
現に、(後のことだが)一九四二年十二月、カリフォルニア州のマンザナー強制収容所で、日系人同士が流血の惨事を起こしました。その背景には、この問題を巡る激しい対立があったのです。
遠藤校長の話を聞くまで、十二歳だった私は、東條は日本国の首相なのだから、日系人にも日本への忠誠を求めるものとばかり思っていました。
ところが東條は、それと全く逆のことを日系人社会に伝えたのです。
それは私にとって、思いもよらないことでした。
わたしが在籍していたコンプトン学園は極めて日本的で厳格な雰囲気の中で運営されていました。
ですからその日、あるいは後日でも、私が東條の手紙の何たるかについて遠藤校長に改めて尋ねるような空気はありませんでした。したがって、東條首相の手紙が、いつ誰に、どのような状況下でもたらされたのか、その詳細についてはわかりません。
でも、東條の書状の内容が私にとってあまりにも予想外だったので、もしかしたら自分の聞き違いかもしれないと思い、朝礼後、クラスメートの何人かに確かめてみました。
すると誰もが、たしかに私と同じように聞いたと言うのです。
日米開戦から約ニカ月後、私たち一家は他の多くの日系人家族同様、大統領命令九〇六六号の下で米国西海岸一帯から立ち退きを強いられ、最終的に、アメリカ七州、十か所で当時建設中だった日系人収容所の一つ、コロラド州のグラナダ強制収容所に送り込まれました。
そこでも、東條の手紙の内容についてクラスメートと話し合ったことがあります。
太平洋戦争が終わり、強制収容所から釈放されたずっと後になってからのこと、私は東條があのような手紙を書いたのは、彼がやはり武人(軍人)だったからだと確信するに至りました。
〈いかなる国においても、軍人は祖国に忠誠を尽くすべきであり、日系人はアメリカで生まれたのだから、君たちが軍人になって祖国アメリカに忠誠を尽くすのは至極当然のことである〉
と東條は我々に伝えていたに違いありません。
そう考えるに至って、私の東條に対する評価は少し変わった。日米開戦に踏み切り、東京裁判で死刑を宣告された東條は、日本はもとより各国で厳しい批判に晒されてきました。
だが、東條の考え方は、武士道の精神をわきまえた日本軍の最高指導者としてごく当たり前のことだったと私には思えるのです。
もしこれが、「日本人の血を受けた君らは日本のために米国を苦しめる働きをせよ」
と言うような手紙であったなら、多くの日系人は二つの祖國の間で苦悩したでしょうが、
「武人として祖國に忠誠を誓うのが道である」と説き、日本人の矜持を世に示させた意義は大きいものと思います。
ルーズベルト大統領の死去に際して哀悼の電報を打った鈴木貫太郎首相の精神に勝ると劣らない手紙を書いた東条英機総理が、ヒトラーやムッソリーニと共に極悪非道な人として戦勝国から非難され、一部同胞からは占領軍の裁判の結果を利用されて「A級戦犯」という名のもとに死して後も辱めを受けるのは残念でなりません。
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▼そうなのである。現在中国から日本に帰化した中国人に向かって「あなたは日本に帰化したのだから、日本の為に尽くしなさい。中国のことは忘れなさい」と習近平主席や李克強首相が言うであろうか?
▼韓国人は、在日韓国系で日本人に帰化した者を、「裏切り者」の視線で絶対に白眼視しないと言いきれるであろうか。
▼こういうスタンスと、東條はまったく違う次元で、民族と国民ととらえていたことがよくわかる。「筋を通せ」ということである。
▼先日、ダニエル・イノウエが死んだ。ハワイ出身で、アメリカ連邦議会上院議員を戦後長くつとめ、上院仮議長(緊急時の大統領継承第三位)までになった人物だ。民主党の重鎮である。その死去に際し、オバマ前大統領はじめ、各界の著名人から、その死を惜しむ声や賛辞が、新聞紙上に溢れた。
▼イノウエは、戦争中、日系二世部隊「第442連隊戦闘団」に志願。欧州戦線の各地で、ドイツ軍をあいついで撃破した戦績を持つ。戦争で、右腕を失った。
▼ちなみに、この「第442連隊戦闘団」は、第二次大戦中、最多の叙勲を獲得している部隊である。終戦後、大統領(トルーマン)がその米国への帰還を、直接出迎えてねぎらった、唯一の部隊である。
▼この「第442連隊戦闘団(日系二世部隊)」の逸話については、閑話休題連載を始めた初期のころ、『第33回・Go for broke!(当たって砕けろ)』で詳しく書いたことがある。
▼アメリカで、日本人(日系人、日本本国人を問わず)というものが、ほかのアジア民族とは違う、圧倒的に高い評価が根付いている最大の要因は、戦争中の「第442連隊戦闘団」の貢献によるものである。
▼そのイノウエが、こう言い残している。
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私が今考えている戦争回避の最善の方法は、戦争に対する準備を万全にしておくことです。
一国が戦争に十分に備えておき、必要に応じて報復する態勢が整っていることを知れば、
相手は決して軽挙妄動することはない。
国家間の協議や交渉は結構なことだ。
しかし、もしそうした話し合いが、軍事力という筋肉に十分に裏うちされていないことを相手国が察知すれば、いずれはこちらの本意を試そうとするに違いありません。
そして、気づいたら時すでに遅しで、戦争は始まっている。
だが、こちらが「いい加減にしないか、もうたくさんだ」と言い出すのがどの段階なのかしっかりわからせておけば、相手は慎重に行動せざるを得ない。
アメリカがこの姿勢を貫くために、私は及ばずながら努力しているのです。
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▼東條に言われるまでもなく、親族を強制収容所に囚われた日系人兵士たちは、ヨーロッパの戦場で想像を絶する犠牲をモノともせず、勇猛果敢に戦い、祖国アメリカに対する忠誠を十二分に証だてることによって、偏見に立ち向かった。 彼らはドイツ軍と戦うために志願したのではない。米国内における不当な差別や偏見を克服するために、自ら戦地に赴いたのである。
▼先の、藤内氏の談話に戻ろう。彼は、こう続けている。
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戦後すでに長い歳月が流れ、私の周りの日系二世の多くは鬼籍に入った。
コンプトン学園も、大戦勃発後に遠藤校長が戦時交換船でアメリカを離れた後、廃校となってしまいました。
ちなみに、遠藤校長は日本には帰らずに直接フィリピンのマニラに送られ、そこで教員生活を再開したが、その後市内で戦火に巻き込まれ、夫人共々亡くなったと聞いています。
東條首相の手紙が届けられた状況について詳しく調べたいのですが、もはやその術はこの国にはないでしょう。もし日本側に資料が残っていれば、ご教示のほどお願い致します。
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恐らく東條の、基本的には私信に近いものであろうから、その複写などは残っていないだろう。教科書に載らない行間に、本当の歴史や人間というものが、息づいている。そんなことを改めて思い起こさせる逸話である。
増田経済研究所 日刊チャート新聞編集長
松川行雄
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