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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第560回・花押(かおう)の話〜印鑑が無くなる日

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【閑話休題】第560回・花押(かおう)の話〜印鑑が無くなる日

【閑話休題】

[記事配信時刻:2019-02-08 17:42:00]

【閑話休題】第560回・花押(かおう)の話~印鑑が無くなる日

▼経済合理性から考えたら、印鑑などというものはまったく無用の長物である。正式には印章というのだろうか。俗名は「はんこ」だ。あちらでは、Sealだ。

▼市町村など役場に登録する実印、金融機関に登録された銀行印、届け出を必要としない認印の、三つにだいたい大別される。

▼最近では、2000年の電子署名法の施行によって、この印鑑の存在がたちまち絶滅危惧種になりつつある。

▼時代が変わるのだ。「証明」の方法も変わってしかるべきなのだろう。が、それにしても篆刻(てんこく)などを用いて、あれほど芸術化したものが、消えていくのも残念なことだ。

▼印鑑の運命がどうなっていくかはともかくとして、一方で、署名(サイン)が一般化していくことはやはり、自然な流れなのだろうか。筆跡というのは、どうやってもなかなかマネできないらしい。

▼もちろん、電子化の中で、生体認証といったものが完璧な「証明」の方法にはなっていくのだろうが、紙媒体による一般的な文書については、すべて署名で済まされるようになっていくのだろうか。

▼この署名だが、昔から、たとえばクレジットカードの裏などに、わたしは英語筆記体で自分の名前を、あたかも外人のように、ファーストネームから書き、ファミリーネームをその後に続けてきた。なんとなく世の中、そんな風に書いている人が多いのだろうと思って、そうしてきたのだが、よく考えてみれば、なんで英語を使っている連中の形式で書かなければいかんのか、と常々不愉快だった。

▼要するに、「筆跡」という証明方法なのだから、名前でなくても良いわけだ。いわんや、英語にしなくたっていいわけではないか。

▼で、その後、わたしは花押(かおう)をつくろう、とそう思ったのだ。これはもともと5世紀ごろの中国(斉の国)で発生したと考えられている「らしい」。漢字文化圏では多く使われたようで、日本でも江戸時代までは盛んに用いられた。イスラム圏でも、似たようなものはあるという。

▼その後、完全に一般社会からは消えてしまったが、今でも厳然として残っているのは、閣議決定文書において、首相はじめ閣僚たちが、いまだに花押を書いて、「決済した」と証明している。

▼花押には型というものがあり、どうも徳川時代が長かったせいか、現在政治家が用いている彼ら自身の花押も、徳川家康の花押の形式をそのまま踏襲しているものが圧倒的なようである。

▼家康の花押というのは、短い横線を上に、長い横線を下にした、台形におさまるような型だ。これは、専門家によると、中国・明王朝を創始した朱元璋(洪武帝)の花押に似ているため、「明朝体」というのだそうだ。

(徳川家康の花押)

▼当然、明治維新後は、徳川幕府を倒した薩長の人士は、この形式を避けた。伊藤博文はじめ、彼らの花押は明らかに「明朝体」ではなく、いったん明治維新で、この花押は家康の呪縛から解き放たれた。

(伊藤博文の花押)

▼ところが、薩長藩閥以外から有力な政治家が出てくるようになってくると、明朝体がまた復活したらしい。

▼どうもその火付け役は、戦前の加藤高明(大正末期の首相)らしい。加藤は尾張藩の下級武士の生まれだったそうだから、もしかすると徳川幕藩体制への郷愁のようなものがあったかもしれない。

▼この結果、田中義一(旧長州藩)、米内光政(旧盛岡藩)など、旧薩長系であるなしに関わらず、家康の亡霊が支配し、現在にまで至っているという。安倍首相(旧長州藩)もそうである。

(安倍首相の花押)

▼武家以外では、そもそもこの花押は一般的ではなかったわけだから、こんなものにこだわる必要もないのだろうけれど、サインというものを英語で崩して書くことに、非常な抵抗をわたしは感じてしまうのだ。だから、逆に失われた花押などというものに、こだわっている。

▼戦国時代、この花押は武将の間で、非常に個性的だった。織田信長の花押を見てみよう。

(織田信長の花押)

後の徳川家康は、ここから発展、シンプルになっていったものだろうか。

▼豊臣秀吉のはどうだろう。

(豊臣秀吉の花押)

まったく信長と違う。信長が横長なのに対して、敢えて、縦のイメージこだわったように見える。

▼ちなみに、わたしは昨年出版した本などで、恐縮にもサインを求められて書いたのは、自分の花押だが、完全に武田信玄のパクりである。

(武田信玄の花押)

これも確かに独特の味わいのある花押だ。

▼東北の雄、伊達政宗の花押を見て見よう。

(伊達政宗の花押)

いわゆる「せきれい」の花押と呼ばれた、あの歴史上有名な謀反疑惑事件の焦点となった花押である。

▼時は戦国末期、豊臣秀吉の治世である。会津若松に赴任した蒲生氏郷は領民の一揆に悩まされていた。葛西黒川一揆とか言われるこの一揆は、ただの農民どもの一揆とも思えないほどの勢力を持ち、彼らの武器も防具もなぜか武士並みで、蒲生軍は大苦戦を強いられていた。

▼この当時、領国を満足に治められない領主は容赦なく首が飛んだので(秀吉がそうした)、かなり蒲生氏郷も焦っていた。とくに彼は秀吉が高く評価され、大いに目をかけられていたので、なおさらだった。

▼そんなとき、運良く一揆軍の伝令を捕まえ、持っていた書状を手に入れた。その書状には、一揆勢に宛てた伊達政宗の激励が書かれていた。ざっと要約すれば、こうなる。

「一揆勢の諸君、わたしの依頼通り蹶起してくれて感謝してる。おかげで蒲生氏郷のやつに一泡吹かせることができた。もう少し頑張れは、あの男を追い出すことができるので、あとひと踏ん張りしてくれ。約束通り、武器や防具、兵糧などはすべてこちらが負担するから、惜しみなく使ってくれ。健闘を祈る」

▼蒲生氏郷は秀吉に注進し、伊達政宗は激怒した秀吉から京都に召喚された。秀吉は、この書状を見せ、伊達政宗を詰問したところ、政宗はいけしゃあしゃあと、自分のものではござらん、といって投げ捨てた。

▼秀吉は、激高して、石田三成が用意したそれまでの伊達政宗の公式書状を並べて、どこが違うか言ってみよと、糾弾した。

▼伊達政宗によれば、こういうこともあろうかと思って、自分は正式な花押には「せきれい」の目の部分に、針で穴を開けている。しかし、蒲生氏郷が注進に及んだ書状には、穴が開いていない。だから、偽物である。誰か(暗に蒲生を指している)が故意に自分を陥れるために、こうした小細工をしたのでしょうが、見事に失敗でしたな、と平気な顔である。

▼秀吉らがつぶさに書状を比べて確認したところ、確かに伊達政宗の言う通りであったため、無罪放免となったが、収まらないのは蒲生氏郷であり、面子を潰された秀吉というところだ。

▼この事件は1591年天正19年のこと。蒲生氏郷は1584年文禄元年には重病に陥り、1595年文禄4年に謎の死を遂げている。40歳である。秀吉が、あまりにこの氏郷の才器を恐れて殺したという話もあるくらいだが、いずれにしろ「せきれい」の花押事件以降、不穏なことが起こっている。

▼このように「花押」一つで天下が揺れるほどの事件になったわけで、やはりそれがどんな形式になろうと、サインというのは重要なものなのだろう。

▼どうだろうか。みなさんも、あの西洋のサインを踏襲するのではなく、日本にある伝統的な花押を、ご自身でつくられたら。と、思ったのだが、どうも例のクレジットカードなど、横書きで、幅も狭いので、花押は無理かもしれない、と少々気落ちしている今日この頃だ。

▼最後に、いくつか武将たちの花押を列挙しておこう。

(毛利元就の花押)

(上杉謙信の花押)

(明智光秀の花押)
@a

▼こんなのもありか、と思ったのは、幕末、桜田門外の変で暗殺された井伊直弼(いいなおすけ)の花押だ。非常に個性的で、面白いと思った次第。

(井伊直弼の花押)
@b

増田経済研究所 日刊チャート新聞編集長
松川行雄




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