【閑話休題】
[記事配信時刻:2019-03-29 17:37:00]
【閑話休題】第566回・歴史の修正(まとめ)~古代朝鮮半島編
▼日本を始め、戦後捏造された自虐史観を正すために、閑話休題でもいろいろと書いてきたが、それらをまとめてみよう。
▼これは、対外的に「修正されなければならない」ような歴史事象のうち、とくに重大なポイントに絞ってまとめた。ときどき今回のように、ある論点に絞ってまとめる作業をしていきたいと思う。今回はその一回目。
▼古代朝鮮半島と日本の関係、そして近代アジアに浸食してきた欧米勢力と日本の関係である。
▼古代朝鮮半島と日本の関係から整理してみよう。ここでは便宜的に「国」として経緯を見ているが、実際問題古代においては、「国」は非常に曖昧な存在であり、現在の国家や国土と、必ずしも一致しない。この点は十分考慮すべきである。
▼朝鮮半島には倭人が大量に居留していた一方で、日本列島にもかなりの朝鮮人が居住していたのである。中国山東省にも、この古代にかなりの朝鮮人集落があったことが確認されているわけで、古代王権が、単一の民族国家であるとみなすのは危険である。かなり雑多な民族の集合体にすぎない。ここでは王権を主導した民族を便宜的に主人公としてまとめているだけである。
▼基本的に、新羅と百済は日本の属国であった。倭人(日本人)は朝鮮半島南部にも居留しており、半島南西部(百済地域)にはすでに13基の前方後円墳が発見されている。DNAからも、倭人が特定されており、内部の赤ベンガラ彩色、副葬品土器など九州地方におけるものと同じである。韓国考古学界ではこれを、朝鮮半島で発生し、日本に伝播されたものだとしたかったようだが、半島出土の前方後円墳はすべて日本のものより小型であり、日本から伝播したとしか考えられない。韓国ではこれを、百済王ら朝鮮族の王権が、臣下の倭人豪族の貢献を賞して造営を許可したのだ、という意見もあるが、それにしては数が多すぎて説明がつかない。
▼文書による記録の面では、決定的なのは『広開土王碑』である。日本と軍事的には敵対関係にあった高句麗側の石碑である。これには、・・・
『百済と新羅は高句麗の属国だったが、39年に日本が海を渡って攻めてきて百済を打ち破り、さらに新羅も打ち破って属国にした。 』
とある。敵側の記録であるから、ほぼ間違いない。さらに当時東アジアの盟主であった漢民族王朝の記録『隋書 巻八十一 東夷伝 倭国』のところには、・・・
『新羅と百済は日本を大国で珍しい物が多い国だとしており、ともに日本を敬い仰ぎ、つねに使いを送り、往来している。』
とあり、倭(日本)と朝鮮半島諸王朝の主従関係が明確に述べられている。日本が主であり、朝鮮半島諸王朝は従である。
さらに、『宋書 巻九十七 夷蛮伝 倭国』には、・・・
『倭王武の時代に宋から使持節郡督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王の称号を受ける。』
とあり、宋王朝(漢民族)が、朝鮮半島南部全域にわたる支配者として、倭(日本)を公式に認定している。
また、朝鮮半島で最も古い歴史書『三代史記』には、新羅・百済両王朝とも倭(日本)に王族が人質を出している事実が書かれている。
『三国史記 新羅本紀』には・・・
『倭国と好誼を通じ、奈勿王の子未斯欣を人質とした。
均貞に大阿滄を授け、仮に王子として倭国に人質として送ろうとした。』
また『三国史記 百済本紀』には・・・
『(阿宰)王は、倭国と好誼を結び、太子の腆支を人質とした。
太子であった扶余豊は、かつて倭国に人質となっていた。』
▼ちなみに、日本の祖型を形成した縄文人の後、弥生人が大陸から渡来してきたが、一般には弥生人=朝鮮からの渡来説は現在否定されている。なぜなら、稲のDNAが日本には1種類しかなく、朝鮮半島では2種類確認されているからだ。片方のみ伝播することは考えられないのである。また、稲作の形跡も、日本の方が朝鮮より古く、矛盾が生じる。これらから稲作の伝播は日本→朝鮮が有力で、同時に弥生人=朝鮮人説も否定されることになる。現在有力な説としては、弥生人は沿海州(現在のウラジオストックからハバロフスクなどの一帯)、満州、モンゴルなど大陸北方のツングース系など複数ではないかとされている。(もちろん、朝鮮民族がそれなりに日本列島に渡来してきて混淆したことを否定するものではない。戦国大名の大内氏などは、百済滅亡時に流入してきた朝鮮族の末裔であると自身称していた。ただ、弥生人が朝鮮族であるという定式は、否定されているということだ。)
▼王権・王族の血統という観点で見て見よう。これも朝鮮半島最古の史書『三代史記』の記録を確認しておこう(韓国では、都合が悪いためか、本書は偽書であるとか、信憑性が無いということで、ほぼ歴史学・考古学界では無視されているといっていい)これによると・・・
『三国史記 新羅本紀・脱解尼師今紀』(第4代新羅王・脱解尼師今の項)
倭国の東北一千里のところにある多婆那国(現在の兵庫北部等の本州日本海側と比定される)の王妃が大きな卵を産み、箱に入れて海に流した。
辰韓に流れ着き老婆の手で箱が開けられ、中から一人の男の子が出てきた。
名前を「昔」を姓とし「脱解」を名とした。
第2代南解次次雄の娘(阿孝夫人)の女婿となり、のちに王位を譲られた。
となる。
ちなみに新羅王権には3姓がある。日本で言えば、徳川御三家のようなものである。朴氏、昔氏、金氏の3姓である。朴氏についても、「卵から生まれた」とあり、先述の日本から渡って王権に入ったとされる昔氏と同じだ。
また、初代朴氏の次男はアメノヒボコと称して、日本に住んだとある。
『古事記』では、天之日矛とか新羅王子。『日本書記』では天日槍。『播磨国風土記』では神となっている。
御三家のもう一つ、金氏の始祖は、第4代脱解尼師今(倭人)が見つけてきたとある。
?
▼こうなると、御三家のうち昔氏が一番重要になってくる。始祖・脱解の出生については倭国東北1千里(当時の1里はおよそ500m)となっており、日本の但馬、丹波、肥後のいずれかの地域とされるが、但馬(兵庫県北部)と推定する向きが多く、天之日矛が祭られる豊岡と一致する。
まとめると、要するに昔氏は丹波国から、朝鮮半島に渡り、新羅を立ち上げたという解釈になる。
▼以上のような、墳墓あるいは正史などを総括すると、ちょうど時代的には大和朝廷が成立した4-6世紀まで、空白の4世紀と呼ばれる「倭国大乱」の時代を含んだ期間であり、主に北陸の丹波からは新羅へ、九州の肥後・日向からは百済へ、勢力拡大の動きがあったという仮説が成り立つ。
▼少なくとも、大和朝廷による統一国家・大和が建設されるまでの間というものは、ほぼ朝鮮半島から文化が伝播されたという形跡は非常に希薄で、圧倒的に日本列島から朝鮮半島に軍事にせよ、経済・文化にせよ進出していたという結論になる。これが崩れて、大陸文化というものを積極的に受け入れるようになっていったのは、663年(7世紀)の白村江の戦い以降である。つまり、朝鮮半島における権益をすべて喪失して以降、顕著になっていったわけだ。中国では過去最大の唐王朝が成立していた。
▼従って、一般的に朝鮮半島が、日本文化の母体であるという通俗的な概念は、事実とデータからすれば、まったく見当はずれの誤謬という結論になる。話は逆だと言ってもいいくらいだろう。
増田経済研究所 日刊チャート新聞編集長
松川行雄
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