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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第102回・運命の選択(前編)

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【閑話休題】第102回・運命の選択(前編)

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2013-07-29 18:30:00]

【閑話休題】第102回・運命の選択(前編)


▼時代が大きく変わるとき、人は究極の選択を迫られることがある。革命や反動の時代、それまでの体制支持者は、粛清あるいは追放、さもなければ転向を求められる。その選択の違いで、生死を分けることもある。

▼フランス大革命( 1878年)の結果生まれたナポレオン帝政( 1804年)は、一時は欧州全土を席巻しつつあったが、11年間におよぶ大陸戦争の挙句、ついに瓦解。ナポレオン自身はイタリア沖のエルバ島に流刑となり、フランスにはルイ十八世の王制が復活した。

▼ところが、ご存知のように、王制復古を望まないフランス国民の不満が鬱積。エルバ島を脱出したナポレオンはフランスを奪回、帝位に返り咲いた。百日天下である。ルイ十八世と貴族たちはほうほうの体でパリを脱出し、英国などに亡命した。

▼欧州各国は、このナポレオンの再登板に恐れをなした。ナポレオン本人は征服戦争再開の意思がなかったが、彼がどう思おうと、ナポレオンはフランス革命精神のシンボルだった。このナポレオンを再び叩き潰して、フランスに旧体制(アンシャンレジーム)を復活させようと、各国は連携。英国軍とプロシャ軍が連合して仏軍と決戦することになった。ワーテルローの会戦である。

▼このとき、運命の分岐をまざまざと見せつけた二人の将軍がいた。ともに、ナポレオンの下で栄達した軍人だ。ナポレオンの「グランダルメ(大陸軍)」といっても、一般的な資質の軍人が多い。凡庸の者、お世辞だけが上手な者など、必ずしも本当に優秀な将軍がそろっていたわけではない。その中で傑出した将軍、つまり万単位の師団以上を見事に指揮できる将軍といえば、マッセナ、ネイ、ダヴーの3人だけだったろう。今回はそのうちの、ネイとダヴーの二人の話である。

▼一人はミッシェル・ネイ。ネイは樽職人の次男坊だ。髪が真っ赤だったことから、赤毛のネイとも、「勇者中の勇者」と呼ばれた。言動が荒っぽく、慎重さは足りないが、なにしろ将軍自ら先頭に立って突撃するものだから、兵士たちからも大変な人気があった。アイラウの戦いでは、窮地に陥ったナポレオン本隊を救った。ロシア遠征が失敗して敗走するフランス軍にあっては、しんがりを努めて、襲いかかるロシア軍を一手に引き受け、全軍撤退を成功させている。

▼その猪突猛進型の戦闘スタイルは、将軍というよりも前線指揮官にふさわしい男だったかもしれないが、「不死身」と言われたネイが最前列に出てくると全軍が沸き立った。とにかく、カリスマ的な人気があったことは間違いない。

▼ところがこのネイは、土壇場でナポレオンを裏切る。ナポレオンのロシア遠征が失敗すると、各国は大同団結して襲いかかってきた。ライプチヒでナポレオンが多勢に無勢の状況下、ついに連合軍に敗退する。将軍たちは、「フランスを救うため」との大義名分でナポレオンに退位を迫るが、ネイもその中の一人である。ナポレオンは激怒したものの、ネイの裏切りは致命的となった。

▼ネイはナポレオンがエルバ島に流され、パリにルイ十八世が戻ってくると、引き続き元帥として留任を要請され、それを受けた。これがネイの選択だった。要するに、ナポレオンからルイ十八世に乗り換えたことになる。ネイは、裏切った後ろめたさは感じていたが、ナポレオンが徹底抗戦にこだわれば、フランス全土が連合国軍に蹂躙(じゅうりん)される恐れがあった。ネイは苦渋の選択でナポレオンに退位を迫り、王政復古を受け入れたわけだ。

▼一方、ニコラ・ダヴーは貴族だったが、フランス大革命( 1978年)では熱狂的な共和主義者として革命に参加。軍人として頭角を現す。まっすぐな硬骨漢で、革命戦争中は、前線で裏切ろうとした上官に向かって、怒りのあまりキャノン砲による砲撃を行なったくらいだ。ハゲ、チビ、デブ、メガネ(極度の近視)とマイナス要素が四拍子もそろった、風采のあがらない男だったが、なにしろ無敵だった。大陸軍では、最年少で元帥に登りつめた。

▼アウステルリッツの戦いでは、常識はずれの機動力を見せて、ナポレオンの生涯において「最高傑作」とさえ言われた大勝利に貢献する。アウエルシュタットの戦いでは、イエナで戦っていたナポレオンの本隊とは別行動だったが、迂回してきたプロシャ王国軍を、自軍だけで迎撃。2倍の敵に、2倍の損害を与えて圧勝。ナポレオン自身の戦いでも、これだけの兵力差を覆して、大損害を与えた例はない。

▼ダヴーも、その不敗神話で、兵から絶大な信頼があった。ただ、士官以上の者には厳しく、将軍たちの間ではほとんど浮いていたようだ。ネイは数少ない気のおける戦友だった。

▼ロシア遠征の最終決戦と言われたボロジノの戦いでは、ダヴーの提案をナポレオンが受け入れてさえいれば、ロシア軍を完全に補足して壊滅に追い込んだはずだとの見方が多い。そうであればロシアは降伏し、ロシア遠征は成功に終わっていた可能性が高いとさえ言われる。

▼ナポレオンがロシア遠征失敗後、ライプチヒで軍を立て直して、敗勢を挽回する一戦を試みたが、けっきょく敵が多すぎて敗北。ナポレオン本隊は、四分五裂して潰走(かいそう)したが、ダヴーの師団だけはハンブルグで篭城(ろうじょう)戦を続けていた。しかも、1年以上も敵の真っ只中で粘り、決して白旗を掲げなかった。

▼最終的に説得され、ダヴーが降伏したのはナポレオンがネイたちに裏切られ、退位した一カ月後のことである。パリに帰還して、ルイ十八世から忠誠を誓うことを強制されたが、言下に一蹴。ダヴーは追放された。ここでネイと違う選択をしたことになる。
(明日の「後編」に続く)

増田経済研究所
「日刊チャート新聞」編集長 松川行雄




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