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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第121回・雨と天気予報の話

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【閑話休題】第121回・雨と天気予報の話

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2013-08-23 17:30:00]

【閑話休題】第121回・雨と天気予報の話

▼異常気象の影響なのか、日本列島は、雨が降るところは滅茶苦茶な豪雨、降らないところは渇水制限と、大変いびつな状況となっている。東京都は19日、渇水対策の一環として、小河内ダム(奥多摩町)に設置されている人工降雨装置を稼動させると発表した。2001年8月以来、12年ぶりのことだそうだ。この夏は、日本海側や北日本で大雨が、太平洋側では雨の少ない。小河内ダム周辺では平年の半分程度の雨だという。

▼人工降雨といっても、まったく雲のないところから雨を降らせるのは無理だという。雲のあるところに雨粒の核になるものを放出し、雨を降らるというのがカラクリらしい。現在のところ、水不足を解消できるほど雨を降らせるまでは、まだ技術が進歩していないようだ。

▼この装置は雨粒の核となるヨウ化銀をアセトンと混合、燃焼させ、送風機で煙突を通して上空に噴射。4千~5千メートルの雲の中で、それを核として氷結させ、雨を降らせようとするものだ。都によると、ダム上流では午後5時から1時間で約10ミリの雨が降り、下流では午後2時から1時間で約11ミリの雨量を記録。都の担当者によると、「上流の雨は装置の効果かもしれない」としている。

▼この「気象調節」という考え方は、古くは19世紀中頃に遡る。1932年、旧ソ連・レニングラードに世界で初めて人工降雨研究所が設立された。1946年には、米ジェネラルエレクトリック(GE)社によって科学的な研究が始まり、現在は日本を含めて世界約40か国で人工降雨が行なわれているという。

▼要は自然の雲が持っている、雨を降らせる潜在能力を最大限に引き出すというのがそのロジックだ。ただし、もともと雨が降りそうな状態で行なうため、効果がどのくらいあったのか、判断が難しいケースがほとんどだそうだ。また、シーディング(種まき)に適した自然の雲は10%程度しかなく、人工降雨をするタイミングも自然まかせだ。理論的にその可能性は示されているものの、費用対効果など課題も多い。渇水対策の切り札とはいえないらしい。

▼ニュースではどうしても大雨ばかりを取り上げることが多いが、実は日本の年間降水量はこの100年間で約6%減少している。とくに、瀬戸内の香川県や愛媛県では平均すると、数年に一度の頻度で渇水が発生している。首都圏で大渇水が発生したのは、1987年だった。一方、大雨の日(日降水量100ミリ以上)はこの100年で2割増えているというから、現代は大雨と渇水がコインの裏腹で、極端な気象の時代になってしまっていることになる。

▼昔は雨が降らないと、まじめに雨乞いをしたものだ。関東では、神奈川県丹沢の大山が、そのメッカだった。国道246号線(旧大山街道、都内では青山通り)は、江戸時代から大山詣へのメインロードだったのだ。当時は、大山阿夫利神社と、雨降山・大山寺(不動尊)は、明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)前だから、両者一体となっていた。もともと、良弁(ろうべん)僧正が、華厳・真言・天台の三宗兼学の道場として開き、一時は別当8坊、僧坊18院、末寺3、宿坊300という大規模な神仏習合の一大聖地だった。

▼江戸時代、手頃な行楽場所というと、市中から繰り出して新宿を超え、現在の杉並区高円寺の南方にある妙法寺(日蓮宗)が大変有名だった。もっと遠距離になると、この大山詣までがポピュラーで、さらに大旅行的なものが箱根神社(当時は寺社一体。関東総鎮守とされた)や富士山詣でと相場が決まっていた。

▼その大山は、雨請いだけではない。大山(石尊)大権現と称され、博打と商売にご利益があるということから、引きも切らない人気のパワースポットだった。6月末は山開き。江戸っ子たちは、標高1253メートルの山を目指した。たいてい、帰途に江ノ島参詣や鎌倉見物をするなど、3~4日の小旅行といった趣きで、江戸っ子たちはいろいろ楽しんでいたようだ。

▼大山詣に出かける前に、隅田川で水垢離(みずごり=冷水を浴びて心身を清めること)をするのが通例であった。両国橋の袂にある水垢離場で、「懺悔懺悔(ざんげざんげ)、六根清浄(ろっこんしょうじょう)…」と唱えながら、道中の無事と悪病の退治を願った。そして、「奉納大山石尊大権現」と書いた納太刀(おさめだち=奉納する木太刀)を持って出かけたのだ。

▼健脚な人たちは、大山の山頂にある阿夫利神社まで詣で、ここに納太刀を奉納して、他の講中(こうじゅう=信仰者の集まり)が納めた別の納太刀をもらって帰る。だが、体力のない人は、中腹にある石尊不動堂で終わることも少なくなかった。女だけの大山詣の講中もあったようで、彼女たちも水垢離をして出かけた。

▼実は、この大山詣の時期というのは、お盆の支払いの決算期にあたっていたらしく、その借金取りから逃れて山へ行く人も多かったそうだ。神仏への雨乞い、ご利益信仰とはいえ、やはり生々しい現実からの逃避という意味合いも強かったということらしい。水が何といっても貴重な時代、雨請いと博打、ご利益のためと言いながら、要は借金取りから逃れるすべに大山詣が使われたところは、物悲しくも笑える。

▼ちなみに、新聞に載った天気予報のはじまりは、福沢諭吉が「時事日報(慶応義塾出版発行)」に掲載したのが最初らしい。一方、早稲田の大隈重信だが、これも天気に関係ある。天気予報の電話番号177だが、電話による天気予報サービスの番号を統一するために、空いていた3桁の番号のうち、語呂のいいものとして、この番号が選ばれたそうだ。「いい天気に、なれなれ」ということらしい。

▼その177という電話番号とは、もともと大隈重信の自宅の電話番号だったそうだ。当時は電話が少なかったのだろう。桁数が極端に少なかった。慶応・早稲田という両大学の創設者が、天気予報に縁があったというのも面白い。

増田経済研究所
「日刊チャート新聞」編集長 松川行雄




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