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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第153回・捨石の覚悟

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【閑話休題】第153回・捨石の覚悟

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2013-10-10 18:00:00]

【閑話休題】第153回・捨石の覚悟

▼野球で言えば、犠牲ファウルだ。送りバントもそうかもしれない。捨石の覚悟ということだ。戦史で、ことのほかこの捨石の見事な例として語り継がれてきたのが、テルモピレーの戦い(紀元前480年8月)である。

▼当時の世界を席巻していたペルシャが、クセルクセス大王自ら率いる大軍でギリシャ諸都市に襲い掛かった。その数、210万人。ちなみにこの数字は、へロドトスの名著『歴史』によるが、現在、専門家たちのさまざまな実証研究では、諸説の平均として、おおむね6万人ほどだったのではないか、と言われている。

▼ギリシャ諸都市は会議の結果、これを迎え撃つことにしたが、なにしろ軍備が整わない。主力のアテネからしてそうであったし、実際、常備軍の随時出動可能なのはスパルタだけだった。ところが、そのスパルタでさえ、カルネイの祭りで出兵はできないタイミングだった。そのため、スパルタ王レオニダスは、国王直属の近衛兵(親衛隊)300人のみで先遣隊として出発した。当時スパルタは複数の王が選挙で選ばれ、任期ごとに交代制だった。近衛兵であれば、この国事としての祭りの制約を受けなかったのだ。

▼スパルタ兵300人には、テーベ兵、テスピアィ兵、ポキス兵などが合流し、合計ではこの段階で5200人だったとされる。いずれにしろ、6万人対5200人であるから、衆寡敵せずは自明であった。要は、ギリシャ諸都市連合軍の軍兵が総動員体制となるまで、できるだけ時間を稼ぐことが、スパルタを主力とする先遣隊の使命だった。とくに、アテネは強力な海軍力を備えていたから、ペルシャ海軍を殲滅させて、その補給路に大打撃を与えることが可能だった。

▼レオニダス指揮下のギリシャ連合軍は、バルカン半島南端のテッサロニケから、ギリシャ中心部に入る地峡のテルモピレーを主戦場と定めて布陣した。テルモピレーは、道幅15メートル。片側は切り立つ山であり、もう片側はエーゲ海に落ち込む崖であった。小数の兵力が密集して、大軍を迎え撃つには格好の隘路(あいろ=狭い道)だったのである。このため、ペルシャ軍は、主力の騎馬兵団を投入できなくなってしまった。

▼スパルタをはじめ連合軍の主力部隊は、隘路に密集隊形(ファランクス)で固まった。ペルシャ軍のそれを上回る、全長5メートルの長槍を装備し、左手に持った盾で左隣の兵士を守る重装歩兵たちだった。激突の際には、まずペルシャ兵の突撃を受け止め、いったん引いて押し止め、そこから一気に押し返して突きまくるという戦術が採用された。

▼クセルクセス大王は、不死部隊と呼ばれる精鋭まで投入したが、さんざんに撃退され、精強なギリシャの重装歩兵に手を焼いた。一方レオニダスは、切り立った山にあるアノパイア間道を押さえておくために、ポキス兵1000人を山上に配置。初日はこのようにして、ペルシャ軍が跳ね返され、二日目も結果は変わらなかった。この間、クセルクセス大王は二人の兄弟が戦死するという悲運に見舞われている。

▼三日目、ついにペルシャ軍は、山にあるアノパイア間道を発見。村落の人間を買収して道案内をさせ、不死部隊が山を越えて、ギリシャ連合軍の背後に展開することを得た。山上にいたポキス兵は、もともと徹底抗戦のつもりであったが、ポキス兵はどういうわけか撤退した。なぜ撤退したかについては、ペルシャ軍が山上を無視して間道を通過したとも、自分たちの諸都市が近隣にあったため、そこが攻撃されると勘違いしたとも、さまざま憶測が遺されている。

▼スパルタ王レオニダスは、自軍が前後に包囲されたことを知り、残存諸都市連合軍の指揮官と前後策を協議した。撤退か、徹底抗戦かで激論が交わされたが、撤退を主張する諸都市軍が戦線を離脱。結果、最後まで戦場に残ったのは、スパルタ兵300、テーベ兵400、テスピアィ兵700の、計1400人だった。

▼三日目の午前10時、クセルクセス大王は全軍に進撃を命令。ギリシャ連合軍は、隘路から前進して、やや広い道幅まで進出して迎え撃った、激戦の最中、レオニダスが斃(たお)れ、その遺体をペルシャ兵が収容したが、これをスパルタ兵が奪回。レオニダスの遺体を巡る熾烈な乱戦が4度行なわれ、最終的にはスパルタ兵が奪還して再び、隘路まで後退した。

▼すでに隘路の前後はペルシャ軍で埋め尽くされており、ギリシャ残存軍は隘路近くの小丘に一塊となって、降伏勧告を拒否。総攻撃を受けた。槍が折れれば剣を振るい、剣が折れれば、手と歯で闘ったと言い伝えられている。最終的にはスパルタ兵、テスピアィ兵が全滅。テーベ兵は降伏してペルシャ軍に組み入れられ、「テルモピレーの戦い」は終わった。

▼この戦いで、ペルシャ軍は合計2万人を失ったと言われる。この数の真偽はともかくとして、大きな損害を被ったことは事実のようだ。何より、ギリシャの重装歩兵が並々ならぬ強さであることを、ペルシャ軍は思い知らされた。クセルクセス大王は、この緒戦の醜態に収まらなかったらしく、レオニダスの遺体から首を切断させ、見せしめにして晒(さら)した。

▼この後、ペルシャ軍は余勢を駆ってギリシャ本土に突入。諸都市を次々と陥落、篭絡させ、ついにアテネに侵攻した。アテネ市民は事前に退避したが、アテネ海軍は巧妙にペルシャ海軍をサラミス水道におびき寄せ、これを壊滅させるという快挙を得た。補給路を断たれたペルシャの大軍は行き詰まり、国内での反乱勃発もあって、いったんマケドニアまで後退した。

▼翌紀元前479年、態勢を整えたペルシャ軍は再び南下、アテネを略奪した。もともと遠征開始の段階で、ペルシャ軍総数6万人程度というのが実態に近いとされていたから、この段階ではもっと減っているはず。しかも、1~2万人は、おそらく投降したギリシャ諸都市から徴用された兵士であったろう。

▼一方、ギリシャ連合軍はこのとき、軍備が完全に整っており、総数11万の大軍で迎え撃つことになった。しかし、これもヘロドトスの記録であるから、信憑性は疑われる。ギリシャ連合軍も総力挙げての決戦といいながら、おそらく3~4万人程度であったと推定される。しかも、このうちスパルタ兵が実に4割を占めている。事実上、スパルタ主導の決戦であった。

▼両軍はプラタイアの広野で激突し、スパルタ兵の「敵はたかだか2~3倍」を合言葉に猛戦し、ギリシャ連合軍が圧勝。テルモピレーの雪辱を果たした。こうして、ペルシャ軍のギリシャ征服の企図は頓挫する。

▼プラタイアの広野で、スパルタをはじめギリシャ諸都市を奮起させたのは、前年のテルモピレーにおける英雄たちの最期が大きく起因している。ごく少数の者が、いわば盾となって犠牲を甘受することで、「覇気と時間」というかけがえのない勝利の条件を手に入れたのだ。

▼テルモピレーの天険には、レオニダスたちの玉砕戦の後、石碑が建てられていたという。「旅人よ。往きて、ラケダイモン(スパルタの古名)の人に告げよ。われらその命に服し、ここに眠ると」。それは後に失われ、近代になって再びその石碑が建てられている。今のギリシャ人たちに、この自己犠牲的な行為や言葉は、まだ生きているのだろうか。

増田経済研究所
「日刊チャート新聞」編集長 松川行雄




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