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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第158回・歴史の誤謬〜作家の功罪(後編)

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【閑話休題】第158回・歴史の誤謬〜作家の功罪(後編)

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2013-10-18 18:30:00]

【閑話休題】第158回・歴史の誤謬~作家の功罪(後編)


▼乃木は不運だった。海軍と陸軍の方針の食い違い、陸軍の情勢認識不足に、乃木はことごとく振り回されたのだ。特に、海軍と陸軍を巡っては要塞攻略だ、いや旅順港突入だと上層部の方針が二転三転した。

▼そもそも、乃木は要塞攻略を命令されていたのであって、旅順港内の艦隊撃滅を命令されていたわけではない。要塞攻略なら、それに寄与しない203高地を目標にする必要がない。乃木が、203高地の重要性を認識しなかったと批判されるが、もともと要塞攻略が命令であるから、正面攻撃しか選択肢はなかったのだ。

▼ところが東京の大本営は、海軍の意向を入れて御前会議まで開き、途中から203高地攻撃に切り替えると決定した。しかし、陸軍統帥部はこれに反対して採択しなかった。陸軍統帥部の命令下にある乃木が、203高地を攻撃しなかったのは当然だろう。

▼やがて、大本営と陸軍統帥部、現地軍指令部、海軍と四者がバラバラになり、あっちだこっちだと方針が有為転変。乃木と第三軍は翻弄され続け、攻撃目標さえ定まらなかった。挙句の果てに、「乃木には落とせないのではないか」という、身勝手な乃木批判が飛び交うようになった。

▼さらに言えば、第三次総攻撃中、攻撃目標を従来の(要塞攻略のための)正面攻撃から、(旅順港への突入のための)203高地へ切り替えたのは、実は乃木自身である。児玉ではない。児玉は、203高地攻略自体に反対していたのだ。

▼通説では、児玉が乃木から指揮権を奪って直接命令を下し、203高地を落としたとされている。だが、児玉が乗り込んできてから変更された作戦はほとんどない。結果的に、児玉が乗り込んできたとき、すでに旅順は事実上陥落寸前だった。いわば乃木は、児玉に手柄を奪われた格好になった。もちろん、児玉にはそんな意図はなく、親友の乃木を、なんとか助けたい一心で駆けつけたと言われているのだが。

▼こうしてみると、司馬遼太郎の乃木に対する無能、馬鹿呼ばわりは、とても正当なものとは言えない。いくつかの事実も、明らかに間違っている。乃木はただ、与えられた職権と条件の下で、何一つ不平を言わず、ひたすら最善を尽くそうとして任務を遂行したにすぎない。

▼乃木は明治の男らしく、黙って仕事をしたのだ。乃木は日露戦争終結後も、一切このときの弁解をしていない。ひたすら、膨大な戦死者を出したことを悔やみ、自分を責め続けた。

▼個人的には、未だに乃木が無能、馬鹿呼ばわりされていることに苦渋を禁じ得ない。司馬遼太郎は偉大な作家だと思っているし、愛読書もある。だが、乃木に関するこの一点だけは容認することできない。その後の日本人の歴史観をミスリードした“汚点”だと言わざるを得ないのだ。

▼当時、乃木の実力を正当に認識していたのは、ロシア軍だったかもしれない。旅順攻略戦の後、日露陸軍が雌雄を決する奉天の大会戦が行なわれた。日本軍24万対ロシア軍36万という、世界戦史上稀に見る大規模な野戦である。

▼現地軍司令部は、乃木第三軍と秋山支隊(機関銃装備の騎兵部隊)を左翼に配し、ロシア軍の右翼側面を迂回して攻撃させた。陽動作戦である。ロシアが自軍の右翼に兵力を割いている間に、中央突破を図る狙いだった。が、意に反してその中央で激戦が繰り広げられ、にっちもさっちもいかなくなった。黒色火薬の威力不足に加えて、榴弾(りゅうだん)でさえ凍りついた満州の大地では歯が立たず、力比べの白兵戦になってしまったのだ。

▼司令部の苦境をよそに、乃木第三軍と秋山支隊は、当初の作戦通り、ロシア軍右翼をかすめて、後方に回り込む迂回を試みた。しかし、ロシア軍司令部は当初、自軍の左翼に接触してくる日本の第一軍を、乃木第三軍と誤解した。もともと、ロシア側は旅順を陥落させた乃木を高く評価しており、最大の難敵と理解していた。そのため、左翼に主力を移したのだ。

▼ところが、ほんとうの乃木第三軍は、自軍の右翼を迂回していることに気づき、あわてて再度、主力部隊を右翼に転戦させた。これによって、乃木第三軍は迂回作戦を行ないながら、敵の主力部隊の攻撃にさらされるという苦境に陥った。戦線の正面は、あたかもロシア軍が中央から右翼に移ったかのように見えた。

▼乃木は司令部に、敵は第三軍に主力の重圧をかけてきていると連絡した。「中央正面を突破するなら今だ」ということなのだが、司令部はそれどころではなかった。ロシア軍の主力部隊が、正面からすでにいなくなっていたにもかかわらず、司令部は大苦戦に陥っていたのだ。

▼もともと軽視していた乃木からの連絡を、援軍要請と勘違いした司令部は、にべもなく、「司令部は第三軍を頼みとしていない」と返答。さすがの乃木も絶句した。部下が、「それはいったい、どういう意味か」とすごんだが、乃木は黙って戦線に復帰した。司令部は、自分の中央を支えるのに精一杯で、陽動部隊の第三軍のことなど、もうどうでもよくなっていた。

▼乃木はここでも、最善の任務を遂行する。迂回しながら、事実上の正面戦闘を引き受け、絶体絶命のピンチに陥った。もはや陽動作戦ではない。完全にロシア主力部隊との総力戦に発展していた。3倍以上もの兵力を誇る敵の猛攻に応戦、迂回しながら強行突破を図る。壊滅に瀕する危機に直面したが、このときわずか3万の第三軍が、ロシアの10万の右翼軍団と互角に戦い、大混乱に陥れたのは驚くべき事実である。

▼ロシア軍司令部も、この乃木第三軍の猛戦に心底、衝撃を受けた。旅順要塞を落としたという一事に続き、このときの第三軍の奮戦には戦慄すら覚えたようだ。ロシア軍司令部は、第三軍は3万ではなく、実は予備兵力として10万を擁していると誤解したくらいだった。満身創痍の第三軍は、ロシア右翼軍団の猛攻を振り切り、さらにロシア軍後方の奉天を目指して長駆した。

▼ロシア軍は、退路と補給路を第三軍に遮断されると判断し、ついに戦線から退却した。中央正面で、最悪の状況に追い込まれていた司令部は、第三軍の鬼のような勇戦によって事実上救われたといっていい。それにもかかわらず、乃木の評価は、陸軍内部でも低いままだった。その不当な評価は戦後まで受け継がれ、司馬遼太郎によって決定的なものとなる。

▼時代が移り、新しい研究によって歴史が再び検証され始めている。今なら、乃木は何と言うだろう。乃木のことだ。やはり、何も言わないかもしれない。今頃は冥府で、「百年も前の話じゃないか。とうに昔のことで、何も覚えちゃいないよ」とただ笑っていることだろう。

増田経済研究所
「日刊チャート新聞」編集長 松川行雄




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