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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第178回・「決闘の話」

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【閑話休題】第178回・「決闘の話」

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2013-11-18 18:45:00]

【閑話休題】第178回・「決闘の話」



▼ヨーロッパで盛んに行なわれた決闘は、言わば正式な裁判手続きの一つだった。罪を犯した可能性が高いのに、証拠がないため相手を罪に問えないとき、被害者が決闘を申し込んだ。この決闘の場合、立会人は裁判官であった。神は正しいものに味方すると信じられていたこともあり、その結果は絶対的なものとして受け入れられていた。

▼無茶な話だが、それが普通だったのだ。フランスのアンリ4世の時代( 16世紀終わりから17世紀はじめ)、年平均235人が決闘によって命を落としたと記録にある。中には、「貴殿は勇敢だという噂を聞いたので決闘を申しこむ」といった理由での決闘もしばしば行なわれたそうだ。こうなると剣の腕自慢を競う、日本の兵法者の果たし合いとあまり変らない。

▼ちなみに、日本では喧嘩両成敗などとされ(もともとは武田信玄が領内で定めたもの。徳川家康が江戸幕府を開き、法度として全国に制定された)、両者とも罪に問われた。基本的には、江戸時代の決闘は、領主の警察権の対象であったから、果し合いは領域を統治する大名勢力から見れば自領内で起こった乱闘・殺人事件にほかならない。だから、刑事罰の対象とされた。有名な宮本武蔵と佐々木小次郎の「巌流島の決闘」の場合では、豊前と長門の間の「ひく嶋」を果し合いの場所に選んでいる。これは大名側(細川・毛利)の統治範囲の曖昧な無人島であったからと推測されている。

▼ヨーロッパでは、18世紀以降は剣が短銃に代わられた。短銃での決闘の場合、あらかじめ決闘責任者が用意した2丁の短銃を互いが取り、12歩ほど離れて行なうのが決まりになっていた。発数は1発のこともあれば3発のこともあり、決闘のやり方は双方が合意さえすればどのような方式をとってもよかったらしい。時刻はたいがい夜明けに定められ、家族に悟られないことが必要とされた。19世紀初期、イギリスで行なわれた200件の決闘のうち、死亡したのは14人という記録が残っている。

▼このヨーロッパにおける、裁判の一形態としての決闘という無茶な制度が、大いに揺らいだ事件があった。時は1385年、フランス。合法的な手続きに基づく最後の決闘が行なわれた。ノルマンディの騎士ジャン・ド・カルージュが、「従騎士のル・グリが覆面をして自分の妻を犯した」として、決闘による裁判を申し込んだ案件だ。

▼ル・グリは無実であると主張したが、決闘を受け入れた。決闘の結果、ル・グリは敗者となって死に、ジャン・ド・カルージュの主張が認められた。しかし後になり、ジャン・ド・カルージュは覆面をした強姦魔は自分自身であったと告白した。このため、決闘裁判の正当性そのものが揺らぐことになり、この結果、フランスにおいて決闘裁判は制度的に廃止されたのである。

増田経済研究所
「日刊チャート新聞」編集長 松川行雄




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