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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第181回・南京のまぼろし(前編)

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【閑話休題】第181回・南京のまぼろし(前編)

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2013-11-21 18:50:00]

【閑話休題】第181回・南京のまぼろし(前編)


▼日本と中国・韓国の間で問題となっている「歴史認識」だが、これが政治問題と化したのは言うまでもなく、日本における歴史教科書がきっかけだった。その発端になったのは1982年6月に起きた「教科書誤報事件」だった。教科書検定で高校用日本史教科書の記述が「華北へ侵略」から「華北へ進出」に変更されたと日本のマスコミが報じたため、これが火をつけた格好になった。しかし、これは誤報だった。そろいもそろって、日本のマスコミというものが、誤報をするなどという考えられないことが起こったのだ。

▼そして、誤報にもかかわらず、中国の抗議に肝をつぶした日本政府は、同年8月、「政府の責任において教科書を是正する」という宮澤喜一官房長官談話を発表、早々に白旗を揚げてしまったのである。このことで“味をしめた”中国政府は以後、教科書問題をことあるごとに政治利用するようになった。

▼では、その中国の教科書はどうかというと、未だに国定で、中学校の歴史授業では一般的に『中国歴史』(人民教育出版社)が使われている。自国に不都合な史実を無視した上に捏造を加えた、言わばプロパガンダ教科書そのものだ。

▼都合の悪い史実のひとつに「元寇(げんこう)」がある。モンゴル帝国(元)と高麗連合軍が1274年(文永の役)と1281年(弘安の役)の二度にわたって日本に侵攻したが、中国の歴史教科書は一切これに触れていない。中国は歴史上、「侵略戦争」をしていないことになっているからだ。一方で、自国が被害を受けた「倭寇(わこう)」については、〈元末から明初、日本の武士、商人及び海賊は、しばしば中国の沿岸地方を脅かした〉と書き立てるのである。しかも、この倭寇、日本人は初期のごく一部で、後の圧倒的多数は自分たち中国人海賊だったのである。

▼数え上げれば切りがない。日露戦争も、記述そのものがない。日露両国が、中国そっちのけで戦争をして満州の利権を奪い合い、結果日本が手に入れたことを屈辱と思うのは勝手だが、世界史的にもきわめて重大なこの戦争のことがまったく書かれていない。

▼日中戦争のきっかけとなった盧溝橋事件も、当面は不拡大方針だった日本陸軍は、対峙する中国軍に対して自重していた。きっかけは、共産党軍によるたび重なる発砲からだった。後の劉少奇(りゅうしょうき)国家主席が、いつも「この謀略は自分の功績だ」と自慢していたくらいなのだから、実際そうなのだろう。

▼第二次大戦では、日本は中国共産党軍によって敗北させられたと書かれている。日本が負けたのは、中国国民党軍でも中国共産主党軍でもなく、米軍であったことは言うまでもない。終戦まで、日本軍は大陸のほとんどを(点と線に過ぎなかったとはいえ)占領したままだった。

▼朝鮮戦争の記述もそうである。米帝国主義が突如として北朝鮮に侵攻してきたとなっているが、大嘘である。当時マッカーサーはまったく、北の侵攻を予想しておらず、まったく呑気に構えていた。従って米軍事顧問団は、南朝鮮にわずか500人しかいなかった。韓国軍も北の侵攻があるとは想定していなかったため、警戒態勢はまったく緩んでいた。そこに、38度線を突破して北朝鮮軍が侵攻してきたのである。

▼侵略戦争をしたことがないと言うが、戦後、チベットに侵攻して、700万の人口のうち120万人を虐殺して併合したことも、書かれていない。そもそも教科書に、戦後の日本のことはまったく記述されていない。1979年に、ベトナムに突如として侵攻した事実の記載もない(当時、国際的には共産主義国家が同じ共産主義国家と戦争を始めたということで、大騒ぎだったが)。それどころか、1962年の中国インドの国境紛争(これも中国側からの発砲で始まった)も記述がない。

▼1958年の毛沢東による「大躍進」政策( 1958~1960年)によって、中国全土で2000万人とも5000万人ともいわれる農民の餓死者が出た事実の記載もない。毛沢東は、「死が田畑を肥沃にする」という非情な論を展開したうえで、死体を農地に埋めさせた。結局、毛沢東の失脚につながっていく大失政だった。その後、劉少奇・?小平コンビが実権を握って、現在の資本主義への政策変更の先駆けを行なうようになったきっかけの事件である。そこで危機感を覚えた毛沢東が奪権闘争を起こした。文化大革命( 1968~1978年)という十年に及ぶ内戦であり、ここでも1000万人は犠牲になったと言われる。それくらい重大な「大躍進」政策とその失敗の記述が、まったくない。政府の政策に「失敗はあり得ない」はずだからだ。

▼1989年の、大変な死者を出した天安門事件( 6.4事件)の記述もない。未だに政府の公式見解は、「数百名の犠牲者」にとどまる。が、当時10万の群集が天安門前に殺到してピケを張り、抗議運動を起こし、戦車部隊まで繰り出したこの騒乱に関して、米外交公電では「無差別発砲による1000人以上の学生が死亡・・・」となっており、ソ連共産党政治局の公文書では、「3000人の抗議者が殺害された」となっている。しかし、今、この事件のことを、中国の大学生たちは、ほとんど知らない。

▼さて、日中間の最大の論争の的となっている南京大虐殺について書いておこう。1937年12月13日から6週間~3カ月にわたって行なわれた、日本軍による大虐殺である。もともと、この事件に関しては、極東軍事裁判で日本の罪状を片っ端から挙げる段階で、いきなり登場してきた事件である。ほとんどすべてが「証言」と「伝聞」によるものだ。しかも、最終判決で、日本のA級戦犯(松井石根陸軍大将)の死刑判決の罪状は、「平和に対する罪」「人道に対する罪」いずれも適用されておらず、南京大虐殺とはまったく関係のない「通常の戦争犯罪(本来、これはB級戦犯の要件)」の訴因第55項一つだけが有罪で絞首刑となっている。

▼ちなみに、南京攻略軍の最高司令官だった松井大将は、戦前、日本留学時代の蒋介石とも親交があった。日本での下宿の世話をしたのも、松井だ。蒋が政治的に苦境に陥ったときに、田中義一首相との会談を取り持って救ったのも松井である。軍規に厳しい人物で、1928年の柳条湖事件の際、張作霖(ちょうさくりん)を爆殺した首謀者、河本大作の厳罰を強く要求している。

▼辛亥(しんがい)革命のころから蒋介石始め、多くの中国革命の志士を支援し、交友関係を持っていた。当時としては非常に珍しい、言わば親中派の軍人である。日中戦争必至という情勢の中、松井は中国に渡り、蒋介石や何応欽(かおうきん)、張群(ちょうぐん)、李宗仁(りそうじん)ら軍の要人と相次いで交渉して和平合意を取り付け、広田弘毅首相を説得したのも松井である。残念ながら、この直後、当の蒋介石が西安事件によって、翻意せざるを得なくなり、国共合作による抗日戦の火ブタが切って落とされてしまった。

▼この松井は、巣鴨プリズンで多くの欧米記者のインタビューを受けている。なにしろ英仏独語が堪能で、西欧文学の造詣も深く、知的かつ温厚なインテリだけに海外記者団は誰もが、「本当にこの人が組織的な大虐殺の張本人なのか。とても信じられない」と異口同音に感想を述べている。実際、戦地でも中国兵戦死者の墓を、律儀に作らせていたような人物だ。死刑判決に際しても、対日断罪派のジョセフ・キーナン検事でさえ、「なんという馬鹿げた判決だ。せいぜい終身刑だろう!」と判決に罵声を浴びせている。

▼松井自身は周囲に、「どうも俺は長く生きすぎたよ」と言っていたそうだが、南京攻略時、彼の部下には皇族の朝香宮鳩彦王(あさかのみや やすひこおう)がいたため、昭和天皇の免訴問題とからんで、松井が身代わりになったという指摘がある。ジャーナリストの田原総一郎などはその意見のようだ。戦後、日本の訪台団が蒋介石と面談した折、たまたま昔話で松井に話題が及んだ。そのとき、蒋介石は目に涙を浮かべて、「松井さんには、本当に気の毒なことをした」と語ったそうだ。

(明日の「後編」に続く)

増田経済研究所
「日刊チャート新聞」編集長 松川行雄




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