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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第198回・裏読み“元禄赤穂事件”(後編)

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【閑話休題】第198回・裏読み“元禄赤穂事件”(後編)

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2013-12-16 18:45:00]

【閑話休題】第198回・裏読み“元禄赤穂事件”(後編)


▼浅野内匠頭が吉良上野介(義央)に刃傷に及んだ原因は、いろいろと取り沙汰されている。浅野内匠頭(長矩)は、「この間の遺恨、覚えたるか」と告げて上野介に刃傷に及んでいることから私怨説が強いが、本当のところは分かったものではない。皇室をがんじがらめにした「禁裏御所御定八箇条」は、上野介によるものだ。

▼むしろ、この遺恨は「私憤」によるものではなく、尊王論を巡る「公憤」だった可能性のほうが高い。この刃傷事件は、将軍綱吉の実母に従一位を下賜するため、勅使・院使が江戸に下向する際に起こった。このことを考えれば、内匠頭がよほど隠忍し、見逃すことの出来ない、皇室に対するさらなる「不敬の所業」が、将軍家並びに吉良にあったと考えるのが自然であろう。

▼実際、刃傷の後、取り押さえられた内匠頭は、取調べに際して、朝廷へ迷惑が及ぶことを避けたのであろうか、刃傷に及んだ原因を一言も語らなかった。しかもきっぱりと「乱心にあらず」とし、宿意と遺恨をもって刃傷に及んだと弁明をするのみで、申し開きを一切せずに、黙って切腹したのだ。従ってこの刃傷事件は、“朝敵”上野介に「天誅」を加えて成敗するための義挙である、ということになる。

▼残された大石ら血判状に名を連ねた旧臣たちは、主君の遺恨や無念のほどを、心にしみるほど分かっていたに違いない。具体的に、いったいどのような「不敬」がなされたのかは分からない。しかし、それがどうであれ、朝廷の沽券(こけん)にかかわる重大な「不敬行為」があった、と旧臣たちは察したはずだ。主君が未達に終わった「天誅」を、家臣団が完遂したのが赤穂事件の実体ではなかったのだろうか。

▼先述したように、大石は仇討ちの意思などないというジェスチャーのため、山科に隠遁。ここで、領地の所有者である近衛家と接触していたことは間違いない。そして、近衛家といえば、例の近衛熙子が綱吉の養子・徳川家宣と夫婦であった。ここに陰謀が図られた可能性が指摘されている。

▼五代将軍・綱吉に子がないことは述べたが、じつは身分の低い側室に男子が生まれたのである。正室・信子は穏やかではない。それでなくとも、綱吉の実母とは不仲であったと伝えられている。その実母に、信子(従三位)を超える従一位を天皇から得る工作が幕府によって進められていた。これに応える形で、勅使下向がなされ、そこで饗応役をしていた内匠頭と、指南役をしていた上野介との間で、「松の廊下」の刃傷事件が発生するのである。

▼このままいけば、信子は江戸城で完全に干上がってしまう。側室の子が次の将軍にでもなったら、側室の専横の前に信子は身の置き場がなくなる。逆に、再従姉妹・熙子の夫、徳川家宣を将軍にすれば、万事丸く収まる。朝廷が幕府を半ば牛耳ることになるのだ。ここに、「信子+熙子」によるタッグが成立し、「綱吉+その実母+側室と世継ぎ」の打倒が計画されていった。

▼「松の廊下」事件の後、赤穂藩はお取り潰し。家臣団とその家族は路頭に迷った。過激派は、怨念のこもった天誅の檄を飛ばす。そこに信子や熙子が、近衛家を通じて、大石に接触したとしても不思議はない。資金源は、生前、水戸光圀の紹介で知己を得ていた淀屋に託された。

▼後は朝廷をないがしろにしてきた上野介(実際は、幕府そのものだが)に天誅を下し、五代将軍綱吉の、「松の廊下」事件の裁定をあからさまに蹂躙(じゅうりん)してみせるのだ。当然、将軍の権威は落ち、乳飲み子である側室の子に代わって、英明な徳川家宣に将軍の椅子が回ってくる。その暁には、赤穂藩の再興を約すとしたら、大石たちは決死の“テロ”を敢行するだろう。おおむね、そのようなシナリオだったのではないか、という仮説である。

▼赤穂事件の結果、いったい何が起こったか。綱吉は面目丸つぶれとなり、失意のうちに死ぬ。後継者は、側室に生まれた子ではなく、近衛熙子の夫・徳川家宣であった。綱吉の葬儀の二日後、「生類憐みの令」は廃止される。それによって、この法の下に獄に入れられていた8300人もの「囚人」が釈放されている。綱吉の未亡人・鷹司信子と近衛熙子の、尊王タッグによる完全勝利であった。時ならずして、死者たちとの「密約」通りに、赤穂藩は再興された。朝廷の怨念を被った吉良家は、改易(身分剥奪、領地没収)された。

▼浅野内匠頭と吉良上野介との刃傷事件そのものは、おそらく偶発的に発生したのであろう。しかし、佐幕派の吉良と尊王派の浅野が同じ業務で、しかも天皇からの勅使を迎えるという段取りの中で鉢合わせしたのだ。一触即発の機会はいくらでもあったはずだ。起こるべくして起こった事件と言っても間違いない。

▼「松の廊下」事件後、赤穂浅野家のお家再興の嘆願を、幕府がまったく聞き入れなかったのは、単なる幕府の片手落ちではなく、尊王派の排除を実現し、かつその復興を阻止するためであったに違いない。

▼しかも、非常に興味深いのは綱吉側近の柳沢吉保(大老格)の存在であろうか。物語としての「忠臣蔵」では、大石らと対極をなす悪役として登場する。ところが、実はこの人物、意外なことに皇室に対する崇敬の念が強く、古代からの天皇陵を莫大な費用をかけて補修復元したり、皇室の歳費を増やしたりしている。天皇陵修復を推進した吉保の側近、細井広沢(ほそい こうたく)は堀部安兵衛(討ち入りの義士の一人)と無二の親友である。江戸幕府の歴代権力者を見ても、吉保ほど皇室を大切にした幕閣はいないといわれる。

▼柳沢吉保も元は甲府出身。綱吉の養子である家宣(熙子の夫)は、甲府徳川家出身。どこかでつながっていた可能性は否定できない。綱吉亡き後、綱吉の重用著しかった柳沢吉保は当然失脚するが、通常、この種の権力者の退場というのは、実に見苦しい醜聞に塗れるものだ。

▼しかし、彼の場合は信じがたいほどなんの咎(とが)めもなかった。噂された汚職の摘発も在職中の所行についての追及もされることなく、静かに隠退していく。彼の政敵でさえ、「見事なものだった」と感嘆しているくらいだ。逆に言えば、家宣や熙子、信子らから糾弾されなかったことを意味する。「松の廊下」事件から、討ち入りとその処断に至るまで、すべてにかかわっていた柳沢吉保である。しかも、綱吉の覚えめでたく一代の権勢を振るった男である。不思議なことだとは思わないだろうか。

▼こうしてみると、柳沢吉保も実は尊王派であった可能性がある。そして、討ち入りをした浪士たちに、犯罪者としての「斬首」ではなく、名誉の「切腹」を与えたという意味では、せめてもの餞(はなむけ)であったかもしれない。吉保が激怒した将軍綱吉の命を受け、浅野内匠頭を異例とも言える即日切腹に処したのも、皇室に迷惑を掛けまいとする内匠頭と、まさに意を同じくしていたからかもしれない。

▼うがった見方をすれば、幕府の隠密組織が機能していた時代である。大石ら赤穂旧臣たちによる討ち入り計画など、やろうと思えばいくらでも阻止できたはずだ。それを見て見ぬふりして放置し、むしろ吉良上野介を討たせたということも考えられなくはない。

▼「松の廊下」事件では吉良家へのお咎めはなく、赤穂家は断絶された。そのとき柳沢吉保は、どのような思いで事に当たっていただろうか。なにしろ大事件である。確かに、彼一人では何も裁断できない。まだまだ、この柳沢吉保の立ち位置については、論証していくだけの材料が乏しいようだ。後世の歴史研究に委ねるしかなかろう。

▼歴史に学べというが、その歴史こそは歪曲と捏造、そして隠蔽(いんぺい)に塗れた世界である。ただ、ある一つの事実が、赤穂事件が世に言われるような単純な話ではないことを、如実に示している。

▼それは、 明治天皇が明治元年11月5日、「朕深ク嘉賞ス」との御勅書を、浅野内匠頭や四十七士が眠る泉岳寺に命達しているという事実だ。非命に斃(たお)れた尊王の志士たちへの追悼であり、謝意である。明治維新(王制復古)が成った、その直後に天皇がこれを行なったということに、重大な事件の真相が垣間見える。

▼こうして考えると、「松の廊下」の刃傷事件やその後の討入り事件の背景は、実に奥が深い。映画・演劇、テレビなどで面白おかしく伝えられてきたような、単なる私憤による乱心事ではないことを、この“事実”は静かに示している。

増田経済研究所
「日刊チャート新聞」編集長 松川行雄



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