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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第203回・戦場のメリー・クリスマス

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【閑話休題】第203回・戦場のメリー・クリスマス

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2013-12-24 18:45:00]

【閑話休題】第203回・戦場のメリー・クリスマス


▼日本映画(大島渚監督)の「タイトル」ではない。史実である。クリスマスには終わり、国へ戻れると誰しもが思っていたその戦争は、意に反して長期化した。独仏国境に沿って、スイスからドーバー海峡まで、恐ろしいほど長い塹壕(ざんごう)が掘られ、ドイツ軍兵士と英仏軍兵士が血で血を洗う総力戦に発展していた。第一次世界大戦である。

▼その年、1914年12月24日に一つの奇蹟が起こった。両軍の間は、わずか100メートルぐらい隔て合うだけの距離だった。その最前線のドイツ軍の塹壕に、ヴァルダー・キルヒホフが慰問に訪れたのだ。彼は当時、世界で最もチケットをとる事が困難といわれるバイロイト音楽祭に、1911~14年まで4年連続出演するほど高名なドイツのテノール歌手だった。

▼ドイツ軍の塹壕から、キルヒホフの美しい歌声が凄惨な戦場に響きわたった。フランス軍の塹壕でもそれはよく聞こえた。するとフランス軍の中から、「この歌声は聞いたことがある。パリのオペラ座で聞いたヴァルダー・キルヒホフだ」と言い出す兵士が現れた。

▼それに気づいたフランス軍将校は、ドイツ軍の塹壕に向かって大きな拍手を送った。キルヒホフはその拍手に答えて、思わずドイツ軍の塹壕から飛び出し、仏軍の塹壕に向かって歩き出した。ノーマンズランド(無人の地)と呼ばれる両軍の中間地帯を横断し、仏軍の将校に向かって深々と、そして優雅に挨拶をしたのだ。

▼その瞬間、戦場は戦場でなくなってしまった。この様子を固唾を呑んで見守っていた両軍の兵士たちが、塹壕からぞろぞろと出てきて、敵兵と交流し始めたのだ。ふつう、休戦するときには交戦国の上層部が取り決める。現場の兵士のほうから勝手に休戦してしまうのは、きわめて稀なことだ。

▼実はこの話、映画『戦場のアリア』( 2005年製作)のモチーフにもなった「実話」なのだが、どうも事実関係がはっきりしない。どこまで本当のことかも、はっきりしない。第一次大戦の一年目のクリスマスに起こった、いわゆる「クリスマス休戦」がそもそもの話の端緒だが、なにしろ非公式の休戦であったために、公式記録には存在しない「幻の休戦」なのである。上記の話のような、さまざまな逸話が伝説的に語り継がれている。

▼この「クリスマス休戦」のきっかけを作ったのは、時のローマ法王ベネディクト15世だった。彼がクリスマス休戦を、カトリック教徒に呼びかけたのだ。ドイツは受諾したが、フランス・ベルギーは拒絶した。カトリック教徒の少ないイギリス人は、これを自らへの呼びかけと見なさなかった。最初はその程度のものだったらしい。

▼実際に、「なし崩し的な休戦」のイニシアチブをとったのはドイツ側で、まず蝋燭(ローソク)を灯したクリスマス・ツリーが夜、高くあげられた。やがて、イギリス軍がこれに応える形で(一説には両軍がそれぞれの塹壕から、「聖しこの夜」などの合唱をし合ったとも言われる)交歓会が始まったという。

▼確かに、「戦場のメリー・クリスマス」は存在したようだ。当時の様子をイギリス軍のJ.ファーガソン伍長は、次のように手紙に書いている。

「握手をして、互いにメリークリマスと挨拶した。その後はまるで何年もの友人のように語り続けた。ちょうど無人地帯の中央、鉄条網の間に私たちとドイツ兵たちは立っていた。彼らのなかに英語の分かるのがいて、ほかの仲間に通訳した。街頭で円陣を組んで話し込んでいるようなものだった。やがて、A小隊全員が出てきた。その後は、円陣がまるで前線すべてに繋がったようにあちこちに出来た。暗闇のなかで笑い声が聞こえ、煙草をつける火が見えた。互いに煙草を交換したものだ。言葉が通じないグループは、身振りで何かやっていた。」

▼数時間前まで殺し合いをやっていた人間がどのようにして話し、笑い合える様になったのだろうか。当時の現場を知る生き残りたちの手紙や回想から、ドイツ兵は戦場でクリスマスキャロルを斉唱し、イギリス兵も英語で応じたとされる。そしてイギリス兵を「トミー」、ドイツ兵を「フリッツ」と呼び合い、互いの塹壕に招いた。イギリス兵はウィスキーを、ドイツ兵はソーセージを差し出した。噂は瞬く間に広がった。ある地点では将校間で休戦が合意され、期間と互いの歩行できる範囲が定められた。やがては前線の約三分の一が、非公式ながら事実上の休戦状態となったようだ。

▼英独両軍の兵士が、数週間も放置されていた戦死者の収容をしたり、イギリス軍ベドフォードシャー連隊に至っては、ドイツ兵と戦場でサッカーまで行なったらしい。ただ不幸なことにボールが鉄条網に刺さり、切り破れてしまったので終了したようだが。

▼ただし、西部戦線におけるクリスマス休戦は、これが最初で最後となった。イギリス軍は上層部から、敵との友好的な接触、非公式の休戦を厳しく禁止され、その翌年以降、クリスマス期間にイギリス軍はむしろ砲撃の頻度をあげた。皮肉なことにこの休戦の後、第一次世界大戦が激化し、4年間で1000万人が戦場に斃(たお)れることになる。

▼ただ、軍がそのような禁止命令を出したというのは事実であるから、敵との友好的な接触、非公式の休戦などが、実際に戦場では起きていたことになる。当時、北フランスのラバンティ村郊外の戦場にいたイギリス兵で、近年106歳で亡くなったバーティー・フェルステッドは、先述の伝説となった「戦場のサッカー」を、こう回想している。

「最初は、ただ見合っていた。何をしようということもなかった。しかし、そのうちに誰かがサッカーをやろうと言い出した。もちろん、戦場にサッカーボールなんてなかった。そのへんのぼろきれを集めて丸め、つくりあげた。そして蹴り始めると、すぐさま試合になった。試合といっても、子どもの遊びみたいなものだ。両チームとも50人ほどいただろう。ゴールは目印を置いて決めたが、何点入ったのか、誰も数えなかった。」

▼休戦時の交流は、前線のいたるところで行なわれたようだ。あるところでは、ひとしきり「歌合戦」が続いた後で互いに歩み寄り、タバコを分け合い、記念品の交換が行なわれた。しかし、多かったのは、やはりサッカーの試合だったらしい。どこからか、「本物のサッカーボールが出てきた」という証言もある。「ザ・タイムズ」紙は、ある戦場でイギリス軍が2対3で敗れたという“記録”を掲載している。

▼フェルステッドのいた戦場ではイギリス軍将校が割って入り、試合の「中止」を命じたこともあったという。サッカーの試合から数日後、戦闘は再開された。しかし、上官から「ドイツ野郎をやっつけろ」という怒声を浴びても、まともに銃を撃つ気になれなかったと伝えられている。

▼確かに99年前の12月24日~25日にかけて、戦場には「メリークリスマス」の声が響いていた。みな、誰のための殺し合いなのか、うんざりしていたのだ。この奇蹟のような一日は、その後の阿鼻叫喚と化した戦場の中で、わずかな記憶として語り継がれていくことになる。かけがえのない一日は、やがて“伝説”となったが、歴史のページに記録されることはなかった。

増田経済研究所
「日刊チャート新聞」編集長 松川行雄



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