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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第205回・テスラ

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【閑話休題】第205回・テスラ

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2013-12-26 18:45:00]

【閑話休題】第205回・テスラ


▼ニコラ・テスラ。その名は、科学や電気工業に興味のある人なら、だれもが畏敬の念を持って聞くことだろう。1856年、オーストリア帝国で生まれたテスラは米国に渡り、エジソンの会社で頭角を表していった。歴史に埋もれてしまった、一人の天才の物語である。

▼しかし、エジソンが研究していた交流発電に対して、直流発電の優位性に固執したテスラは、エジソンと袂を分かつ。そして1888年、エジソンのライバルだったウェスティングハウス社の支援と協力を得て、交流電源システムの商業化を目指した。世に言う「電流戦争」の始まりだ。

▼エジソン(GE=ジェネラル・エレクトリック創業者)の直流式そのものには、実はさまざまな欠点があった。たとえば、火事になる危険性が高いことや、伝送力が2マイル(約3.2km)程度しかないため、無数の変電所が必要になってしまうのだ。また、交流式で灯した光は真っ白だったのに対し、直流式での光は黄色っぽいものだった。

▼しかし、直流には直流モーターがあったが、交流には適当なモーターがなかった。ウェスティングハウス社はテスラの「多相交流方式」の価値を認め、全部の特許を20万ドルに加えて1馬力あたり1ドル支払うという条件で買い取った。多相交流方式とは複数の電線を流れる交流のことで、1本の電線を流れる交流が「単相交流」である。

▼以後両者は協力し合うことになったが、テスラが最初にやったことは、ウェスティングハウス社の単相交流のために、分相型誘導モーターを発明することであった。133ヘルツでは周波数が高すぎ、モーターの性能が悪くなったので、彼は60ヘルツを選んでウェスティングハウス社に採用させた。これが今日、アメリカ大陸と日本の西半分で使用されている周波数の始まりである (日本の東半分はドイツ式で周波数が異なる)。

▼さて、「電流戦争」はエジソンのGE社と、テスラ肝いりのウェスティングハウス社との戦いになった。GE社に比べてウェスティングハウス社は、企業規模が小さく旗色が悪かった。同社が破産しそうになったとき、ウェスティングハウス社はテスラに、「1ドル/1馬力の特許料を負けてほしい」と頼み込んだ。彼はこの申し出に応じ、契約書を担当者の眼の前で引き裂いたと伝えられている。

▼テスラも、よほどエジソンに対する遺恨が強かったらしい。このとき破棄された特許契約料は現在の電力事業の基礎となり、その金銭的価値は(後になってみれば)天文学的な額であったと言われる。

▼テスラとウェスティングハウス社にとって、大きな転機が1893年のシカゴ世界博覧会のときにやってきた。テスラは二十台の単相500馬力の発電機を利用して、2群の回転子の位置を90度ずらし、2相の1万2000馬力の交流発電機を組み立てた。変圧器で昇圧してから送電、その後降圧して1000個の16燭光(しょっこう=明かりの単位)の電灯を灯し、誘導モーターを回してみせた。また電車を走らすために回転変流機も作った。シカゴ博覧会での大成功は、ウェスティングハウス社とテラスによるナイアガラ水力発電所の建設へとつながっていく。

▼しかしながら、交流方式が広まる過程は平坦ではなかった。直流側はいろんな手段を使って妨害をした。虚偽の情報で、交流の危険性を訴えるネガティブ・キャンペーンを行なったのだ。その最も象徴的な「事件」が、「電気椅子」を巡る中傷だった。

▼当時( 19世紀末)、米国社会は、それまでの絞首刑から電撃による処刑(電気椅子)へと移行しようとしていた時期だ。一人の歯科医が、雷に打たれて感電死した事件がきっけになって始まったこのキャンペーンは、電気椅子に使うべきなのは交流か、直流かで議論が錯綜した。

▼人を死に至らしめる威力として「認定」されるわけだから、これに「採用」されればイメージが悪くなることこのうえない。そのような“危険”なものを一般の家庭で使うことに、消費者は抵抗を覚えるのではないか、と両社とも心配したのだ。当然、自社の方式が採用されないことを願っていたわけだが、エジソンとその部下ブラウンは、敵側(ウェスティングハウス社)の交流電圧を使って、さまざまな「致死的威力」の“すばらしさ”を世の中に見せつけた。

▼犬や猫に、はたまたサーカスに出ていた象にまで交流を高電圧で流した。そのように殺して見せて、交流式の恐ろしさをアピールしたのだ。結局、電気椅子は交流式で採択された。ウェスティングハウス社の交流電流は危険であり、それゆえ死刑執行に向いているという認識を植えつけるのに、エジソンは成功したことになる。

▼エジソンの妨害工作は、このほかにもあった。ニューヨーク州政府に働きかけ、800ボルト以上の使用を禁止する州法を作って、交流送配電が広まるのを阻止しようとしたのだ。基本的にエジソンという人物は、かなり性格が悪かったようだ。

▼それでも、あらゆる点で原理的に優れている多相交流方式は、エジソンの逆宣伝と妨害工作に打ち勝って実用が拡まっていくのだが、ニューヨーク市から直流配電が消滅したのは第二次大戦後、それもテスラの死後である。

▼テスラは、エジソンのような事業家ではなかった。60ヘルツの交流がアメリカ中に広がり始めたとき、彼は自分の研究室でもっと高い周波数の研究に取り組んでいた。彼は生まれつきのショーマンで、しゃれた服装をし、実験付きの講演にはいつも人気があった。ガラス管が様々な色で輝くことを示し、内壁に燐(リン)を塗ると光度が増すことを見せ、聴衆の絶賛を浴びた。テスラは蛍光灯とネオンサインの元祖でもあるのだ。

▼テスラは長身の好男子で、そのため女性にも人気があったが、一生独身を通した。生活面では、奇人的なところもあったと言われる。その奇人ぶりが、仕事の上でも次第に顕著になっていく。

▼テスラはモルガン財閥から資金を得て、無線送電を計画。コロラドスプリングスに大きな無線の電信と送電用の装置を建設した。直径が24メートルの大きなテスラコイルの一端が、60メートルの高さに置かれた金属球につながれた。300キロヘルツで1億ボルトの電圧を作ろうとしたのだ。しかし、巨大な人口の雷を発生させただけで、近くの発電所を破壊してしまう。負荷が大きすぎたのだ。それでもテスラは何度も「無線送電の実現性は証明された」と講演などで主張した。

▼その奇人ぶりは次第に、彼の700余りにもおよぶ特許で恩恵を受けた人々にも嫌われ、やがて忘れ去られていった。彼の考えは間違っていたのではなく、時代に先行し過ぎていたのである。ほぼ1世紀たった今日、太陽電池による宇宙発電計画では、マイクロ波による無線送電が実現性を帯び始めている。

▼こうした時代に先行し過ぎた彼の考えには、ロボット、スパークプラグ、電気アーク灯、エックス線機器、ブレードレス・タービン、無線通信、レーザー技術、ネオンライト、リモートコントロール、セルラー通信、無線通信、レーダー、地熱エネルギー、海洋温度差エネルギー、ビーム兵器などがある。

▼晩年、テスラの母国ユーゴスラビア政府は7000ドルの年金を与えたが、やがて長年続けた高級ホテルでの独り暮しにも困るようになった。公園の鳩に餌をやることを日課とし、病んだ鳩をホテルの部屋で介抱した。1943年1月8日、独り静かに息を引き取る。享年86。

▼大方の場合、死とともにその人の事業も終わりを遂げるが、テスラの影響は生き続けた。しかし、歴史上の位置付けは勝手気ままに動いていく。かつてのライバル、エジソンは技術史上に高く君臨しているが、これに比べてテスラは奇人の域を脱していない。

▼近年、ようやくテスラを再評価しようという気運が生まれてきているが、なにしろ未完の技術が多いために、未だに「単なる歴史の1ページ」からは抜け出せていないようだ。それでも、私たちの生き方に、一つの示唆は確実に残している。限界を知ればこそ、可能性を信じられるということを。

増田経済研究所
「日刊チャート新聞」編集長 松川行雄



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