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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第234回・日の丸

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【閑話休題】第234回・日の丸

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2014-02-13 15:57:00]

【閑話休題】第234回・日の丸

▼国旗としての日の丸は、どこから始まったのかというと、やはり古い。文献としては、797年(延暦16年)の『続日本紀』の中にある文武天皇の701年(大宝元年)の朝賀の儀で、正月元旦に儀式会場の飾りつけに「日像」の旗を掲げたとあるらしい。これが日の丸の原型で最も古いものというが、白地に赤丸ではなかったようだ。

▼そもそも、世界中で歴史的に太陽が赤で描かれることは少なく、太陽は黄色または金色、それに対して月は白色または銀色で表すのが一般的だという。日本でも平安時代末期の頃までの「日輪」の表現は通常「赤地に金丸」であったと考えられている。

▼異変が起こったのは源平合戦の頃。ご存知、平氏は赤、源氏は白が旗印だった。平氏は天皇を擁するという大義名分から、その御旗にちなんで「赤地金丸」を、源氏はこれに対抗して「白地赤丸」を使ったらしい。

▼以前中国大陸で仕事をしていたころ、日の丸については一度だけ嫌な思いをしたことがある。今と違って、一般には(国家もそうだったが)まったく反日的な社会状況は無かった。皆無だったといってもいいくらいだ。(だから、近年の反日には、個人的にも相当面食らっている。)

▼当時の中国人は、仮にそういう歴史的な思いがあったとしても、けして口にはしなかったものだ。言及する機会があったとしても、彼らはとてもわたしたちのことを気にして、「あんな話は、昔のことだから、気にしないでくれ。」といわれることのほうが多かった。だから、返ってこちらが恐縮した。経済開放直後くらいまでの中国人には、清貧とはいえ、そうした大人風の余裕すら感じさせられた。

▼それでも、一度だけ嫌な思いをしたことがある。親しく仕事をしている相手方の公団の一人が、「あんたの国は、どうして未だにあんな軍国主義の国旗を使っているんだい」と聞いたのだ。適当にわたしも笑って流していたが、余計なお世話だ。本人は特段、悪気があったわけではなく、ケチがつく国旗なら、変えてしまえばいいじゃないか、というほどの、ごく軽い気持ちだったようだ。

▼しかし、共産主義国家のように、ころころ国旗が変わることのほうが異常だ。植民地で暴虐の限りを尽くした、大英帝国はユニオンジャックを一度でも降ろしたか。フランスもそうだ。革命で殺し合いをし、ナポレオンが欧州大陸制覇をした、征服の象徴でもある三色旗を、一度でも降ろしただろうか。

▼日の丸(日章旗)が、初めてその規格が制定されたのは、明治3年( 1870年)の太政官布告だった。以来、正式に国旗として使っている。それまでは、なんとなく象徴的に使われていたわけで、そこには政治イデオロギーが入り込む余地はなかった。ごく自然に日の丸が古代から、何かの折に好んで使われていたのだ。

▼実際、日本人ほど太陽を好む民族はいない。昔の名前には、男の場合は彦という字がついたり、女の場合は姫なども使われた。これは、そもそもが「太陽の子」という意味だ。「日(ひ)の子=彦(ひこ)」や「日(ひ)の女(め)=姫(ひめ)」から来ている。

▼皇室にしてからが紋章は、十六紋の菊だと勝手に思っていたら、とんでもない、正式には菊を用いないのだそうだ。日紋(ひもん)を用いるという。

▼太陽はふつう、丸それ自身で表すが、月も昔は丸で表したから、多くは色で識別した。しかも、昔は赤ではなかった。日・月の紋は金と銀でそれぞれ表していた。

▼戦国時代、日の丸は武田信玄、上杉謙信、小西行長、加藤嘉明(よしあき)なども戦場で用いたが、家紋にまで発展しなかったようだ。

▼ちなみに、 旧日本海軍や海上自衛隊で使用している日の丸は、日章旗ではなく、旭日旗である。思想的には左寄りのくせに、旭日旗がどうかなったような中途半端なデザインにしたのが、くだんの朝日新聞のマークだ。だから、そのていどに半端な新聞なのだろう。この旭日旗は、古くは「日足(ひあし)」と呼んだ。株の罫線、足のことではない。

▼この日足(旭日旗)は、日章旗と違って、家紋に使われたりしている。たとえば、戦国武将の竜造寺、鍋島など北九州に日足紋が多い。

▼この日足(旭日旗)は、軍隊では海軍特有の旗のようなイメージを持っている人が多いかもしれないが、明治時代初頭、軍が最初に軍旗として旭日旗を制定したのは、陸軍のほうが先である。海軍はその後だ。軍艦旗として用いられるようになってから、イメージ先行型で海軍の旗のように思われてしまったのだろう。日露戦争などでは、陸軍兵士は銃剣に旭日旗を括りつけて突撃している。

▼この国旗というのは、昔、祭日を「旗日(はたび)」と呼んで、必ず玄関先に国旗をだしたものだ。その役は、わたしの実家ではつねにわたしの「任務」として課されていた。今では、掲揚する場所もない。無理にやれば、通行妨害で訴えられる。だから、祭日町を歩いても、寂しいくらい国旗の掲揚が見られない。むかしは、国旗ばかり翻っていたような印象だったが。

▼ふだん、こんな風になんとも思っていない国旗かもしれないが、これがどういうわけか外地にいると、ものすごく郷愁を覚えるものだ。石油会社に勤めていた友人が(ちなみに、彼はわたしと反対の左翼であった。今は知らない。)、訓練で遠洋航海に出た。1年ほどは世界中をぐるぐる回ったらしい。

▼そのときの話だが、何日も何日も、だだっぴろい海原の中で、まったくなにもない。陸影さえも見ることがない。そんなとき、ずっと遠く水平線あたりに大型の船舶を見かけたときなどは、まるで何日も人に合わなかったように懐かしくなったそうだ。

▼「船だ!」という声で、乗り組んでいた連中みなが甲板に飛び出してきて、双眼鏡でその船を眺め始めた。そして、そこに日章旗が掲げられていたのがわかったとき、誰が始めたわけでもなく、一斉に「ばんざ~い!」と叫んでいたそうだ。なにが万歳だったのか、あとで皆で話しても答えはなかったらしいが、国旗とは、そういうものだ。そんな国旗を、それもよそさまの国の国旗を、足下にして、ましてや公然と焼いてみせるような人々がいるが、怒りを覚えるより、その民度の低さに同情を禁じえない。

増田経済研究所 日刊チャート新聞編集長
松川行雄


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