忍者ブログ

増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第235回・幸せな時代

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。

【閑話休題】第235回・幸せな時代

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2014-02-14 15:43:00]

【閑話休題】第235回・幸せな時代

▼江戸学の祖と言われる三田村鳶魚(みたむらえんぎょ)によれば、江戸の歴史は文化に興味のない野蛮な明治政府によって潰された、ということにでもなるらしい。

▼一説には、日本人にとって最も幸せな時代とは、縄文時代、平安時代、江戸時代の3つだったそうだ。 共通点は、いずれも鎖国時代なのだ。 食料もすべて自給自足の時代だった。

▼現在のようにどこかよその国で、強烈に汚染された食材を使って2週間前に作られ、冷凍のまま安く輸入して、 電子レンジでチンして味気なく食するなどということはなかった。
数年前にテレビで見た恐るべき実験がある。コンビニというコンビニから各種弁当を買い込んで、ベランダで放置したところ、そのほとんどが1週間たっても色が変わらず、ちょっと見ではほとんどいたんでいることがわからないくらいだったのだ。あれを見ると、恐ろしい。コンビニや、製造会社からクレームが出たという話はその後なかったように思うが、あれは事実なのだろうか。

▼それに比べて、江戸時代は、近代的な加工技術が未熟だっただけに、そうしたリスクは当然のごとく皆無だった。国産の食材だけを使ったし、調味料も酒からつくったわけだから、思えば豪華な食事だとも言える。鎖国時代にだけ、日本独自の文化が生まれ、 日本人は争いも少ない幸せな時代であったとも言うらしいが、それは事実のようだ。

▼そもそも、東京には明治以後に作られた公園がないといってもいい。東京で有名な公園といったら、ほとんどが江戸時代につくられたものばかりだ。明治政府以降で作られた公園といえば、ブランコと滑り台のある、申し訳け程度の狭い児童公園くらいのものだ。

▼特に明治以降にできた晴海や芝浦あたりの埋立地は、人間が住むような場所でなかった。 殺風景な風景が広がり、それこそが明治以後の文化の原風景なのだ。

▼遡れば、もともと江戸城(現皇居)の前面(東京駅側)というのは、まったくの海だった。皇居前の御堀からもうそのまま海だったのである。海は、江戸湾から続いて虎ノ門当たりもずっと海で、そのまま皇居外苑まで海が続いて入り込んでいたのだ。これは日比谷入江と呼ばれた。この入り江の先には前島と呼ばれる半島が、神田のほうから新橋まで突き出していたのだ。現在の東京駅、有楽町、新橋などは、この前島という半島の中にあるわけだ。

▼それを家康が逐次埋め立て、何度か大規模な都市計画が実施され、さらに埋め立ては、前島の先まで拡大され、ついに江戸八百八町が築かれたのだ。それは、縦横無尽に運河を内包した、まさに水の都。当時、世界最大の百万都市を機能させることが可能だったくらい、緻密に計算された都市計画だった。

▼明治維新の倒幕派の志士たちは、やはり冷静に考えれば、全員そろいもそろって異常である。革命というのは、本来異常なことであるから、当然と言えば当然だが、西郷隆盛が「江戸を火の海にする」と恫喝したことなどは、その典型だろう。(本人が、ほんとうにその気だったかは別である。政策的にそうした恫喝をしただけ、だったのかもしれない。)

▼西郷だけではない。長州の高杉晋作も(その前に死んだが)、基本的には既存の体制が粉微塵に砕け散ってしまわなければならないと思っていたわけで、西郷と同様に完全な内戦破壊のイデオロギーだったと言える。彼らの主張するところの意味は、よくわかる。シュンペーターではないが、「破壊的創造」ということである。

▼しかし「江戸を火の海にする」と言う西郷の言葉を聞いて、 徳川方は「こんな頭のおかしい連中を相手にしておられない」と思ったに違いない。それがいわゆる常識というものだ。しかし革命は、常識では成就しないのだ。 それで、江戸を火の海にされるより、そのまま官軍に江戸城を明け渡すことに、同意したといってもいい。西郷と親しかった勝海舟を通じて行われた、「無血開城談判」である。

▼しかし、歴史というものは不思議なものだ。「江戸を火の海にする」と豪語した志士たちによってつくられた明治政府が、77年後に行き着いた先は、 東京大空襲と広島・長崎の原爆で終結して残った焼け野原の国土だった。さぞ本望だったろう。 あれほど、徳川幕府が大事にした江戸の風景を、近代日本という国家は、 あろうことか米軍のB29の力を借りて焦土にしてしまったのだ。

▼東京の各地に、汐見坂(江戸湾を臨む)や富士見坂(富士山を遠望できる)がある。徳川家康があれほど大切に都市設計をした江戸の風景は、いまや無軌道な道路に沿って、大小マンションがひたすら林立する不気味な風情と化している。

▼パリでも、サンクトペテルスブルグでも、あのいい加減なアメリカでさえ、各地にはその土地特有の規制によって、町の色合いや高さなど一定に保たれ、瀟洒な風情の維持に努めている。明治以降の東京にはそれは無い。やりたい放題もいいところ、無秩序といっていい。これが日本の首都だ、と胸を張れるような街づくりが、明治維新以降現在に至るまで、あっただろうか。

▼こうしたインフラだけではない。食べ物でも、明治以降、東京には新たな料理などというものは無いに等しい。江戸時代のグルメといえば、今と同じ、「寿司」「天婦羅(てんぷら)」「うなぎ」、せいぜい新しい食べ物といったら、「すきやき」くらいのものだろう。要するに、明治以降、東京という町は、江戸時代のそうした名物以上のものをつくることができなかったのだ。

▼そして、その「寿司」「天婦羅」「うなぎ」といった江戸前の食材の産地である東京湾をゴミで埋め立て、殺風景な工業地帯にしてしまったわけで、言うなれば自殺行為以外のないものでもない。

▼考えれば考えるほど、皮肉なことだ。自分たちが二百年という歳月をかけて生み出した名物料理の産地を壊滅させておいて、わざわざどこかの国からまずい食材を輸入して、これまたまずい調理で安いだけの弁当として食っているというのが、今のわたしたちだ。これ以上の矛盾もないだろう。一体わたしたちはなにをしているのだろう。

▼しかも、だ。江戸時代は、「天ぷら」の値段も、ファーストフード以上に激安だったのだ。 マクドナルドのハンバーガーを食うのが幸せなのか、 激安の、しかも絶品の「天ぷら」を食うのが幸せなのか、今一度日本人は考えたほうがいい。 わたしたちは、ある部分においては、江戸時代の水準以下でしかない、ということなのだ。

▼株の世界で生きているわたしが、こういう経済合理性を無視した発言をすること自体が矛盾そのものなのだが、その懐旧の念というものがどうにも捨てられない。

▼グローバルか、それともガラパゴスかという議論は、最近ではあまり聞かれない。わたしも単純に時代を逆行させればよいと思っているわけでもない。失われたものは、二度と戻ってくることはないのだ。鎖国などというのも、時代錯誤以外の何ものでもない。それは百も承知なのだが、やはりこの東京という町の、あまりにも色気を失った風情というものには、慨嘆の念を禁じえないのだ。

▼今、だいたいからして、屋台などというものが無いではないか。福岡あたりでは、戦後の屋台撲滅運動の風潮に抗して、まだ屋台がいくばくか頑強に踏みとどまっている。見上げたものだ。東京にはもう無い。鎮守のお祭りのときに出るにわか屋台くらいのものだ。

▼屋台は、待たされるのを嫌う江戸っ子の気質に合い、江戸中期ごろに出現したが、後期になると大繁盛して隆盛を極めた。天明( 1781~1789)になると、通りの両側にずらりと並ぶほどだったというから、 相当な賑わいだろう。

▼料理の種類は天婦羅をはじめ、うなぎの蒲焼き、鮨、おでん、麦飯、焼芋、 茹で卵などで、だいたい一品が四文くらいだったと言う。 米の価格で換算すると、一文はいまの20円くらいになり、四文は80円らしい。

▼これでは主婦がいても、みなたいていは外で、適当に食い歩いていたというのも嘘ではない。主婦が食事をつくるなどということは、実は滅多に無かったのだ。なにしろ安い。家で食事をつくるほうがむしろ高くついた。一日に五回ほど、基本的には外で済ませるというのが、日常の生活としてあったのだ。

▼屋台の中でも一番人気は、天婦羅だったらしい。はじめ大阪で行われていたが、 江戸にも伝わり、江戸っ子の嗜好にも合って、大いに流行したそうだ。

▼だいたい、江戸の物価というのは、今と社会事情が違うので、すっとんきょうに高かったり、べらぼうに安かったりといろいろだが、日常的なものを挙げて比べると、おしなべて安い。

▼長屋の家賃は、1ヵ月で、現在価格にして9900円であった。要するに、ここが決め手なのだ。安心して、屋根のあるところで寝ることができるという住居費が、今の価格でこの程度であったなら、かなり可処分所得は増えてもおかしくない。大工の日当が6600円だったから、二日仕事があれば、屋根のあるところで1ヵ月暮らせたことになる。野菜売りの稼ぎでも、一日3300円はあった。あとは、食費と、日常の瑣末な経費だ。

▼按摩は一回825円、床屋(髪結い・散髪)は一回462円。醤油は一升で990円。蕎麦やうどんは、一杯264円。これに天婦羅がいくつか乗っかると528円。納豆一束66円。ただ、鮨(すし)は握り一貫で132円だったようだから、現在の回転寿司もかなりこれに肉迫していることになる。また居酒屋で酒を飲むと、一合495円ということで、現代の安いところの値段とそうは変わらない。

▼風呂は、大人一人132円、小人一人99円。幼児は66円だったそうだ。いわゆる宿場の宿代というものは、一泊二食付で、4092円。このあたりまでは、いまでも常識的な値段と思えたり、さすがに安い、と思ったりもする。が、高いものもあったのだ。米は1キロ当たりに換算すると、1100円だから、高いといってもいい。それだけ庶民に出回っている数量が少なかったということだろう。

▼蜆(しじみ)が一升で165円。これはどう考えても安い。実際、戦前、都内の川ですら、蜆が取れたわけで、祖父の世代には、子供の頃都内の川で取った蜆を売って歩いたという話があるくらいだ。江戸時代といったら、確かにそのくらい安かったかもしれない。

▼逆に極端に高かったのは、卵だ。意外や意外、一個330円であった。ところが、鮪(まぐろ)は一尾でも3300円であったというから、これは存外安い。一尾がどのくらいの大きさのものを言ったのかわからないので、なんとも判断は難しい。少なくとも、今の遠洋で漁をするマグロとは違う。

▼中には、江戸時代ならではの物価というものがある。たとえば、高級娼婦のいた吉原だが、太夫の揚げ代は、一回10万320円だったというから、さすがに敷居が高い。ふつうは通えない。一般庶民が足繁く訪れた岡場所では、1万2000円以内で、飲んで食えてさんざん遊べたらしい。即物的に夜鷹を物色した向きは、もっと破格に安かったろうが。

▼逆のケースだが、身売りというだけあって、身売りをすれば、お金が手に入った。病気の親の薬代のために娘が吉原に身売りをする値段は330万円。夫の窮地を救うために妻が吉原に出る、という場合は、なんと528万円だった。こういう場合分けがなされていたというのも面白い。

▼ちなみに、歌舞伎の場合、土間席なら1万6500円。今、歌舞伎は高い席でもだいたいこのくらいではないだろうか。江戸時代、桟敷席のような良い場所では18万円だったそうだ。もっとも、一幕席や立見は264円だったそうだから、現代に比べてかなり料金設定が極端だ。

▼郵便事情はどうだろうか。手紙を江戸から大阪に送る場合、飛脚の普通便だと495円( 25日で届いた)。これが、特急便(わずか2-3日)だと、2046円だったそうだ。

▼では一体、江戸から京都まで旅をした場合に、だいたい13-15日かかったそうだが、旅費合計は、片道82500円が相場だったという。

▼今は無き江戸の生活というものを、物価を通じて見てきたわけだが、今では、遠く想像の中でしか味わうことができない。いたずらに懐旧に浸っていてもしかたがないのはわかっている。しかし、憧れは尽きない。




日刊チャート新聞のコンテンツは増田足のパソコン用ソフト、モバイル用アプリから閲覧可能です。

15日間無料お試しはこちらから
https://secure.masudaasi.com/landing/pre.html?mode=cs
PR

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。