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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第240回・独眼竜最後の賭け(前編)〜「ハポンという名のスペイン人たち」

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【閑話休題】第240回・独眼竜最後の賭け(前編)〜「ハポンという名のスペイン人たち」

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2014-02-21 15:51:00]

【閑話休題】第240回・独眼竜最後の賭け(前編)~「ハポンという名のスペイン人たち」

▼スペインには、Japon姓もしくは、Xapon姓の人がいる。ハポンと読む。スペイン語で「日本」の意味だ。17世期、支倉常長(はせくらつねなが)による慶長遣欧使節がローマへの途上、スペインに上陸し、日本に帰らず南西部セビリア近辺に留まり、永住したキリシタンの日本人や、使節の現地人水夫、あるいはその支援者の子孫たちであると伝えられている。

▼現在でも、セビリアから15kmのところには、830人ほどのハポン姓のスペイン人がいるらしい。現地のエストレージャ教会に残る洗礼台帳によると、1667年に、ファン・マルティン・ハポンという人物が一番古いハポン姓を持つ人物であるとされている。

▼この場所は、コリア・デル・リオという町なのだが、もちろんコリア(英語の韓国名とはまったく無縁である)市には、往路・復路、両方で、支倉一行が9ヶ月以上滞在している。一行の任務の最後の地点である。スペイン国王から主君・伊達政宗(だてまさむね)への親書が届くのを待ち続けていた場所だ。

▼しかし、一向に親書が届かない。この時点で、日本を発って3年が経過している。一行が、メキシコ(当時はスペイン植民地)を経由して、スペインに渡ったのだが、一説には24名。あるいは30名とも言われているが、正確な人数は不明である。セビリアのインディアス総文書館にある資料では、ローマから帰国前にここに立ち寄った際に、使節の滞在に28名分のベッドを用意したと記録されている。

▼このことから、第一陣で帰国した人数や、一年後に支倉とともに帰国した人数など、さまざまな要素を割り引いていって、どうも6名から8名が帰国しなかった、あるいは死亡した(今泉令史はローマで死亡している)、ことになるらしい。

▼実際、マドリッドで支倉と一緒に洗礼を受けたドン・トーマス・フェリペ(日本名は不明)が、国王に日本へ戻る許可と証書を要請している資料が現地に残されている。この要請は1622年であるから、支倉が帰国してから5年後であり、通算ではこの人物は8年もスペインにいたことになる。

▼しかもこの人物が、実際に日本に帰国したかどうかは不明である。すでに日本では過酷なキリシタン弾圧が行われており、カトリック教会から日本のこの情報は聞いていたことだろう。帰国せずに、スペインに留まったと考えるのが自然だ。

▼あるハポン姓の女性は、自分の子供について、モンゴル斑(はん)が出ていたと証言している。もともとスペイン人は混血の人種である。ケルト、フェニキア、ローマ、西ゴート、モロ(アフリカ系アラブ)などと徹底的に混じりあってきた歴史がある。しかし、歴史上、モンゴロイドと混交した事はない。蒙古の大侵略時代でも、その支配はイベリア半島にまでは及んでいない。おまけに、このコリア市には面白い風習がある。稲作をするときに、日本と同じように苗床をつくるのだそうだ。DNA鑑定のため、住民600人ほどの血液採取が行われたと報道があった。昨年10月ごろだったと思うが、その後、結果が発表となっていないが、どうなっただろうか。

▼もともと、この慶長遣欧使節団というのは、仙台藩主であった伊達政宗が、仙台領内でのキリスト教布教を許す代わりに、ノバ・エスパーニャ(メキシコ)との直接貿易を求め、エスパーニャ(スペイン)国王及び、ローマ教皇のもとに派遣したものだ。慶長18年1613年のことだ。しかし、一体なぜこの時期だったのか。

▼このころの日本はどういう政治地図になっていだろうか。1603年には、関が原合戦を制した徳川家康がすでに幕府を開いていた。征夷大将軍就任である。しかし、大阪には厳然として、主家である豊臣政権(豊臣秀頼・淀君)が存在していた。天下が最終的にどちらに傾くのか、まだ混沌とした戦国末期である。1633年の鎖国令までは時間があったにせよ、政宗のこの行動は、さまざまな憶測を呼んでいる。一体、たんなる伊達藩とスペインの直接貿易を開く為だけのことだったのか。

▼一説には、それは表向の話だという見方もある。大器でありながら、戦国末期という、あまりにも遅すぎたその登場に、伊達政宗自身が自分の運命を呪ったとも言う。甲子園の高校野球になぞらえれば、とうに地区予選大会が終わり、準決勝も終わり、東西の決勝戦に突入するという段階である。

▼乱世が終息していこうとするその最後の瞬間に、政宗は乾坤一擲の勝負に出ようとしたのではないか、というのだ。その仮説は、発足したばかりの徳川幕府(もはや家康は高齢で、寿命的にも先が短かった)にあっては、有力者と結んで、その内部から突き崩しを行ない、内部分裂を誘う。一方、海外とはスペインと結び、その海軍力の支援を得て、大阪の豊臣方と連携しながら、東西から徳川政権を武力で打倒する。天下取り最後のレースに、このように壮大な大番狂わせを引き起こそうとしたのではないか、というのだ。あわよくば、幕府を開くか、少なくとも天下三分の計で最終レースに、強引に入り込もうとした計略があったのではないか、と民間の研究者の間では仮説されている。

▼一見、荒唐無稽な仮説だが、でたらめとも言い切れない状況というものが実はここにある。これまで「閑話休題」で書いてきた歴史の「裏読み」と違い、なかなか決定的な証拠がない。あくまで推論に基づく仮説でしかないが、ひとつお話として読んでいただこう。戦国が終わろうとしていた土壇場で、まさにその天下を天秤にかけた独眼竜・伊達政宗、最後の賭けである。

増田経済研究所 日刊チャート新聞編集長
松川行雄


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