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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第241回・独眼竜最後の賭け(中編) 「大久保長安というワイルドカード」

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【閑話休題】第241回・独眼竜最後の賭け(中編) 「大久保長安というワイルドカード」

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2014-02-24 15:28:00]

【閑話休題】第241回・独眼竜最後の賭け(中編) 「大久保長安というワイルドカード」

▼ワイルドカードというのは、トランプなどで、どんな種類のカードにも代用が可能なものを意味する。ジョーカーがよくこれに使われるが、個々のカードを具体的にワイルドカードだと指定すれば良い。

▼実は、伊達政宗が戦国末期に最後の賭けをしたのだとすれば、そのワイルドカードになったのが大久保長安(本名は、大蔵長安)という、特異な人物である。まず、この男のことを書かなければならない。やがて、伊達政宗と一見まるで関係がないかのような何人かの人物が、実は伏線でつながってくる。大久保長安というワイルドカードをめくると、なんとその裏には、真田幸村という切り札が出てくるのだ。マージャンで言えば、「裏ドラ」といってもよい。

▼長安は1545年、武田信玄お抱えの猿楽師(現在の能楽・金春流)の一家の次男として生まれた。もともと播磨の国の生まれというが、一説には南蛮人(スペイン、ポルトガル)とも言われる。一家が甲斐に流れてきたところ、信玄の目にとまり、若い頃から頭脳明晰であったため信玄にその才能を見いだされ家臣(代官衆)となり、税務や司法、さらに甲斐一の金山である黒川金山の開発など、数々の業務に携わることになった。おそらく、(後の業績を考えれば)信玄の人材登用の中でも、外様・真田氏の起用以上の大抜擢だったといえる。

▼この大蔵(後、大久保)長安は、年齢的には、信玄の近習であった真田昌幸(後の幸村の父)と2つ違いである。昌幸も、信玄をして「我が両の眼」と言わしめたほどの逸材である。昌幸は幼少期より、甲府の躑躅ヶ崎館(つつじがさき)で小姓として育ち、ずっと信玄そば近くに詰めていることが多かった。もともとは真田は征服地・信州の豪族だけに、人質として甲府に引き取られていたのだが、信玄の覚えめでたく、徹底的にしこまれた。第四次川中島合戦でも、一時は崩壊寸前であった武田本陣にあって、旗本として信玄を支えている。

▼基本的には内務官僚であったから、長安と業務上も重複あるいは、関係することが多く、かなり当時から親しかったはずだ。この二人は、信玄の直接教育によって純粋培養された、いわば、「武田学校」の同窓生だったといってよい。この真田と長安が、後年、伊達政宗の不可解な挙動に深くかかわってくる。

▼奇縁というべきか、信玄亡き後、後継の武田勝頼は、父親時代以上に甲斐の版図を拡大し、織田信長の心胆を寒からせることになるが、利あらず長篠合戦(設楽ヶ原合戦)で大敗する。このとき、真田昌幸は兄二人、長安も兄一人が戦陣で散っている。このため、昌幸は、家督を継ぎ、真田家当主として、所領の信州・上州などの差配と、甲府での内務官僚と、掛け持ちとなり多忙を極めていくことになる。

▼七年後、信長の甲州攻めで武田家は滅亡。昌幸は、その直前、勝頼を信州に引き取り、そこで上杉を後ろ盾に、徹底抗戦を主張。いったんは勝頼もこれを了承する。昌幸は先行して信州に下って篭城の準備に入った。この昌幸のプランは、大言壮語とも言えない。実際、後年、上田のような平城でさえ、徳川の強兵を一度ならず二度までも、返り討ちにしている。

▼一度目は、1585年に5倍の三河兵を撃破。1600年には関が原に向かう10倍の徳川秀忠別動隊を大混乱に陥れ、挙句の果てには、ほぼ1ヵ月釘付けにした。徳川秀忠は関が原合戦に間に合わず、家康から叱責される羽目になった。東軍の三分の一を、足止めしたのだから驚異的である。圧倒的優位に立った西軍が関が原で勝てなかったほうが、不思議なくらいである。昌幸にしても、開いた口がふさがらなかったろう。

▼しかしまだこの頃は、内務官僚としては武田家にあって大黒柱になっていたものの、合戦となると未知数の段階だった。特段の手柄もない。そのためか、甲斐国内の譜代・小山田氏が、その要害に篭城することを勝頼に進める。けっきょくこれが罠であり、小山田による裏切りに遭い、勝頼は天目山まで逃亡するが、そこで力尽き自害。

▼結果論だが、真田昌幸との取り決め通りに信州へ落ちていたら、難攻不落の要塞化を完了させていた岩櫃(いわびつ)城に篭城したはずであるから、後年の平城の上田城どころではない。織田勢は手も足も出なかっただろう。しかも、わずか3ヶ月後には本能寺の変で信長は死んでいることからすると、昌幸にしてみれば、切歯扼腕したことだろう。

▼この後は、昌幸は権謀術数を駆使して、本能寺の変を経て、大混乱する戦国後半戦を小大名として乗り切っていくことになる。武田領内において、主家滅亡後に独立して存在し続けたのは、裏切った木曽氏を別とすれば、この真田氏だけである。このとき次男の幸村は8歳であるから、大久保長安とはそう関係はなかったろうが、躑躅ヶ崎でお互い見知っていた可能性は十分にある。

▼かくして、武田家は滅亡する。甲府にいた大久保長安は、織田勢による武田の残党狩りが酸鼻を極めたため、逃亡・潜伏。一方、徳川家康は信長の同盟軍であり、信長から残党狩りの要請を受けていたにもかかわらずこれを無視。むしろ反対に、裏で逃亡中の武田の遺臣たちを根こそぎ匿って、家臣団に組み入れていた。武田の精鋭・赤備え(具足をすべて朱色で統一した武田の中核部隊。)に倣い、井伊直政のもとに武田遺臣を糾合して、赤備えを復活させ、徳川軍にあっては「井伊の赤鬼」と恐れられる精強部隊を作り上げたのもこのときだ。

▼いったい長安が、どういう経路で徳川方に飛び込むことになったか不明である。しかし、重臣の一人大久保忠隣(おおくぼただちか)に重用され、たちまち荒廃した甲斐の復興に成果を見せ始める。この功績で、それまでの大蔵姓から、大久保姓になり、忠隣の与力として、家康から最大限の支援を受け、実力を発揮していくことになる。

▼武田家から江戸幕府に引き継がれたものは、金貨「甲州金」の貨幣制度だけではない。人材、兵法、軍事制度、そして鉱山開発のノウハウも引き継がれている。そのほとんどすべての武田のノウハウを徳川に移植したのが、この大久保長安であった。堤防復旧、新田開発そして金山開発と大車輪の活躍をみせ、数年で甲斐を再建させたといわれている。戦国時代というと、どうしても合戦のほうに眼がいってしまうが、けっきょくこの裏方(地方、じがた)が大名の実力の本源であることを考えると、長安は相当の逸材であったということが言えそうだ。

▼この後、時代は信長亡き後、一気に天下統一に向かって急ピッチで頁がめくられていく。豊臣政権では、真田氏は北条氏滅亡の直接的なきっかけとなる「名胡桃城事件」を引き起きこす。諸説あるが、秀吉と真田氏との間で、北条討伐のための謀議がなされた可能性はきわめて高い。この結果、秀吉は東国まで制することで、事実上天下統一を成し遂げることになる。唯一、去就が定まらなかった伊達政宗も、ついに秀吉の北条征伐に際して膝を屈し、その代わり本領安堵を得ている。

▼ちなみに、真田幸村は、秀吉の人質として大阪城に在住していたが、その器量に秀吉が惚れ込み、大谷吉継(おおたによしつぐ)の娘を娶っている。この大谷吉継も、実は出自がはっきりしない。実はこの人物、母親が秀吉の正室・ねねの侍女であることが近年判明しているので、秀吉の「お手つき」で生まれた隠し子であった可能性が急浮上してきている。とすると、真田幸村は、その縁者ということになるわけで、豊臣との因縁は一気に深まったと言える。

▼一方大久保長安は、秀吉の天下となった後、家康が関東に移った際には「関東代官頭」として徳川直轄領の事務を担当。江戸を守るための要衝であった八王子において、またもや武田家遺臣による「八王子千人同心」を結成するなど、現在の八王子市の基礎も長安がつくっている。名目は江戸城を、西国からの侵攻に対して、最初の防波堤ということだが、事実上の「私兵軍団」といっていい。

▼武田の遺臣たちだけではない。長安は、武田滅亡の際、辛くも甲府を脱出して生き延びた信玄の五女・松姫を庇護。八王子に草庵を設けて、陰に陽に生涯、支援し続けた。八王子千人同心たちの心の支えにもなったのが、この松姫であったことは言うまでもない。ちなみにこの松姫は、横死した兄弟の3人の娘を育てながら、寺子屋で地元民の教育に携わったが、生活費用を自ら捻出するために養蚕を起こしている。この八王子の養蚕、絹生産が興隆して、後年、明治序盤に日本の唯一の外資獲得製品として花開く。現在の横浜線は、八王子の絹を横浜に搬出する大動脈として敷設された経緯がある。

▼さて話は戻るが、1600年に関ケ原の戦いで家康が勝利すると、豊臣家が支配していた佐渡金山・生野銀山などは徳川直轄領となり、長安は「甲斐奉行」「石見奉行」など数々の役職を兼任。鉱山についての豊富な知識と経験をいかし、これまで湧き水に苦しめられることの多かった縦堀から、排水が容易な横堀に変えて効率アップに成功している。1603年には、さらに「佐渡奉行」「所務奉行(勘定奉行)」に任ぜられ、同時に「年寄(老中)」にまで登りつめた。まさに異例の大出世である。

▼彼の活躍は全国の鉱山統括にとどまらない。日本橋を起点とした東海道・中山道などの交通網の整備や一里塚の建設まで取り仕切っている。家康による全国統一事業は、武田家が培ってきたノウハウとそれをいかす長安という人物がいたからこそ成し得たといえる。

▼石高に換算すると、その資産120万石に相当すると言われた大久保長安は、最盛期には、今でいえば、財務大臣、経済産業大臣、国土交通大臣、文部科学大臣のすべてを兼任していたのと同じである。

▼長安の私財は膨大なものとなった。これは、当初から家康との取り決めで、鉱山採掘による利益を四分六分となっていたためだ。六分が長安の懐に入る。もちろん、開発のコスト、人件費や設備費その他、一切合財が長安持ちである。リスクを取る代わりに、報償も大きいということなのだが、おそらく家康も肝を潰すほどの大成功だったに違いない。巷では、「天下の総代官」とさえ呼ばれた。

▼このように、武田遺臣から身を起こした大久保長安は、それだけであればまだ話が簡単であったろうが、さらに驚くべきことに縁戚関係によって、諸大名ととんでもない人脈を構築していたのである。石川康長、池田輝政などから、7人の息子の嫁を迎えている。逆に娘の一人は、服部家に嫁いでいる。服部半蔵の一族は、ご存知徳川幕府の秘密警察である。伊賀者、いわば公安といってもいい。ふと気がつくと、徳川幕府の屋台骨は、大久保長安によって、ほぼ牛耳られていたといっても過言ではない。

▼きわめつけは、(家康の指示で)家康の六男・松平忠輝の付家老になっていたのだ。ここで、たんなる利殖にとどまらず、「権力」というものの影が見え隠れするようになってくる。長々と、大久保長安の経歴を、真田のそれとかぶらせながら解説してきたが、ようやくお待ちかね、そこで伊達政宗の登場である。なんとこの長安が支える忠輝の正室に、伊達政宗の長女、五郎八姫(いろはひめ)が嫁いだのである。この両家の取り持ちの交渉にあたったのは、言うまでもなく大久保長安である。

▼これで、島津(豊臣恩顧、関が原では徳川に敵対)、前田(同じく)に次ぐ東北の大藩・伊達家が、徳川家と縁戚になったわけだ。家康としては、豊臣恩顧の大藩二つが最も巨大な脅威であっただけに、東国に強力な支持者が欲しかったのは言うまでもないだろう。ところが、相手が悪かった。伊達政宗である。ただ者ではない。扱いを間違えると、徳川幕府が一気に崩壊しかねない、危ない選択肢であった。

▼もしこの伊達家という強大な武力と、徳川幕府内部で経済・産業・交通のすべてを握っている大久保長安(しかも私兵を保有する)とが、つながったのだとしたら。しかも、伏線には、徳川家最後の攻略目標である大阪の豊臣家が残っているのだ。ここには、真田という切り札が潜んでいる。

▼時代は、ここでいきなりキナ臭くなってくる。関が原以来、10年以上にわたって、珍しく合戦のない時代が続いた。とうに、人心は戦国が終わったかのような錯覚も支配していただろう。しかし、話はそう簡単ではなかった。真の天下泰平となる前に、もう一度、天下分け目の合戦が近づいていた。

増田経済研究所 日刊チャート新聞編集長
松川行雄


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