忍者ブログ

増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第263回・地球の裏側に行った豪傑

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。

【閑話休題】第263回・地球の裏側に行った豪傑

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2014-03-27 15:47:00]

【閑話休題】第263回・地球の裏側に行った豪傑

▼以前、テレビでその人の波乱万丈の人生を知った。拓大OBの高木一臣さんだ。もう八十を超えているが、とてもではないが元気が良い。1951年以来、ずっとアルゼンチンに住み続け、現地の日本語新聞で社説をがんがん書きまくっている。

▼聴けば、昔の拓殖大学というのは、とくに硬派は紋付袴(もんつきはかま)で闊歩(かっぽ)していたそうだ。町で、ちんぴら数人に絡まれても、帽子の校章を見るや、みなすごすごと「拓大の学生さんでしたか、すんません。」と引き下がったそうだ。

▼あるとき、金に困って、件(くだん)のちんぴらに声をかけて、「金がないんだ。金貸してくれ。」と言い、かつあげする側から金をむしりとったともいう。

▼三重出身の高木さんだが、学徒動員で満州にいったが、昭和二十年1945年9月からは、陸軍中野学校(スパイの養成所)に入学することになっていたそうだ。ところが、その前月に敗戦となったので、拓大に再入学したという。

▼一度、横浜で外国船を見ていたとき、(終戦直後である)入港する外国船は、自国旗を掲げ、日本の国旗は掲げなかった。日本は被占領国だから、国としてみなされなかったのだそうだ。ところが、その中で一隻だけ、堂々と日本に敬意を表して日章旗を立てていた船がある。それはアルゼンチン国籍の船だった。

▼米軍のMP(憲兵)がやってきて、波止場から呼びかけ、甲板の船長に怒鳴った。「日章旗を下ろせ。」ところが、アルゼンチンの船長は下ろさない。「この船の中は、アルゼンチン領土と同じだ。日本の国旗を掲揚しようがしまいが、こちらの勝手だ。」とはねつけた。それを見ていた日本人たちが、やんやの喝采を送ったそうだ。

▼それでいっぺんにアルゼンチンが好きになり、なんとしてもアルゼンチンに行かねばならぬ、と思い立ったらしい。当時、日本の権益代表国だったスウェーデンのパスポートを取得して1951年に貨物船「星光丸」で日本を飛び出した。

▼同船は西回りで南米へ。途中アジア諸国では、戦争の恨みで「日本人の腕を斬りおとしてやる」と息を巻く住民が多くて(たいてい、華僑であろう)、下船できなかったが、南アフリカに寄航した時は黒人たちから「日本人は奴隷解放のためによく戦ってくれた」と握手を求められ優遇された。

▼戦後はアルゼンチンが一番最初( 1950年)に移民の門を開いているが、戦前の同国は主にヨーロッパ系移民を受け入れてきたため戦前のアルゼンチン日本移民は皆無だった。高木さんが渡海した当時の日本移民はブラジルなどから流れてきた人たちだったそうだ。

▼現在、アルゼンチンには約五万人の日系人が生活しているといわれているが、高木さんはここの日系社会の顔役だ。

▼しかし、豪傑を地でいくような高木さんも、アルゼンチン入りした当初は、金も無いし、実に心細かったそうだ。当時の日本移民の仕事といえば衣服のクリーニング業が多かった。日本人はこの地でも誠実・勤勉に徹していた。例えば客から預かったズボンの中に小銭が入っていたとしても日本人は正直に客に戻すなど、アルゼンチン人との信頼関係を重んじた。

▼とにかく働かなきゃいかん。金が無ければどうにもならん、ということで、まずは職探し。最初に働いた建築資材店では、とんでもないことが起きた。とびこみで、雇ってくれと頼んでみたところ、「おまえは日本人か」と聞かれ、「そうだ」というと、いきなり、店の支配人にされてしまった。

▼公用語のスペイン語もろくに話せない状態だったが、聞けば「日本人なら、安心できる」と言われたそうだ。信用というものは、凄まじいものがある。

▼その後、日本から進出して間もなかった三井物産(当時第一物産)や日系企業などの勤務を経て同国邦字紙『らぷらた報知』の記者となった。教科書はすぐ眠たくなるので、ひたすらエロ写真満載の雑誌で、スペイン語を猛勉強してマスター。若くして編集長となり、その間、取材先で出会ったフランス系アルゼンチン女性と結婚。

▼1964年のこと。国営放送・アルゼンチン国立放送局に願い出て、海外日本語班の責任者となりラジオアナウンサーの仕事もはじめた。

▼一度、ブエノスアイレスの市内で、うっかり白タクに乗ったところ、この運転手は強盗に早替わり。いきなり「有り金をすべて寄越せ」と脅した。後部座席に座っていた高木さんは、すぐに運転手に後ろから組み付き、首を絞め、「落とし」て「あばよ」と去った。

▼「いや、あの時は殺しちまったかもと思い、びくびくでしたわ。翌日の新聞を恐るおそる読んだが、どこにもその記事が載っていなかったのでホッとしました」と飄々(ひょうひょう)と話す。かつての豪傑の片鱗がうかがえる。

▼しかし、そんな豪傑も、一歩間違えばアウトローだ。高木さんの憎めないキャラクターがあってのことだろうが、それでも1951年以来、高木さんを受け入れたアルゼンチンという国の、われわれ日本や日本人というものに対する認識があってのこと。

▼かつて、1982年のフォークランド島紛争(現地ではマルビナス島紛争)で、アルゼンチンは英国と、その領土領海を巡って、血みどろの戦争をしている。アルゼンチンのボロ負けだ。

▼当時、アルゼンチンでは、日本が英国を支持したために、「裏切られた」という思いが激しくなったそうだ。片思いとはいえ、後味の悪い戦争だった。

▼わたしたち、日本の本土の人間が、海外で居住する日本人、日系人たちにとって、恥ずかしくない存在で、果たしていられているのだろうか。彼らが、孤立無援の現地にあって生き残っていくのに、一番最良の支援とは、日本が誇るべき国であり、立派な国民なのだという存在感に勝るものは無い。

増田経済研究所 日刊チャート新聞編集長
松川行雄




日刊チャート新聞のコンテンツは増田足のパソコン用ソフト、モバイル用アプリから閲覧可能です。

15日間無料お試しはこちらから
https://secure.masudaasi.com/landing/pre.html?mode=cs
PR

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。