【日刊チャート新聞記事紹介】
[記事配信時刻:2014-05-07 15:20:00]
【閑話休題】第289回・えらぐなるのが、がたきうちだ。
▼聖人と俗物。野口英世のことだ。実際の野口は、子供向けの偉人伝に描かれているような聖人君子でもなんでもない。どころか、逆といってもいいくらいだ。だからこそ、偉大な業績を残したといってもいい。聖人などに、病原体と血みどろの死闘を演じることなどできやしない。
▼よく知られているように、福島は猪苗代の生まれ。明治9年1876年である。済生学舎(現在の日本医科大学)を経て、ペンシルベニア大医学部、ロックフェラー医学研究所を転戦した。
▼米国では、NYの酒場で意気投合したロックフェラー医学研究所のメアリ・ロレッタ・ダージスと結婚している。メアリが求婚したらしい。
▼梅毒や黄熱病の研究で知られ、ノーベル生理学・医学賞の候補に三度も名前が挙がったが、これがメアリの献身的な支援ゆえであることは、衆目の認めるところだ。最後は、黄熱病の研究中に自身が罹患。1928年5月21日、アフリカはガーナのアクラで死んだ。享年51歳。メアリとの間には、子供はなかった。メアリは、最後まで野口夫人として過ごし、終戦二年後に病没している。
▼その研究方法というものは、膨大な実験を繰り返すことから得られるデータを重視した実践派だ。考えうるあらゆる実験パターンをすべて完璧に遂行し、しかもその作業スピードは驚異的なピッチと正確さを伴っていた。
▼この腕力で病原体に迫ろうとする気迫は、当時の米国医学界でも「実験マシーン」とか、「日本人は眠らない」と揶揄されもしたらしい。本人も気にしていたようで、「自分のような古いスタイルの研究者は、いらなくなる時代がもうすぐ来るだろう。」と同僚に語っていた。
▼最初の研究となったガラガラ蛇の毒は、蛇毒によって起こる溶血性変化を究明。後の、血清の基礎研究に道を開く。続く梅毒スピロヘータでは、原体を発見。純粋培養の成果については、現代否定されているが。
▼さらにツエツエ蝿(バエ)によって媒介されて発症するぺルー疣(ゆう、いぼ)を研究。溶血性貧血による重篤な症状をきたすオロヤ熱がこれと同一の病原体であることは、ペルーの医学生カリオンがすでに仮説を立てており、ペルーでは認められていた。しかし、米ハーバード大学では否定されていた。これを、野口は、南米エクアドルに飛び、猿の実験によってカリオン報告を証明。ハーバード大学と大変な論争となったが、これを撃破した。
▼しかし、数でいえば、失敗のほうが多い。たとえば、旧制灰白髄炎(小児麻痺)病原体、狂犬病発現体、黄熱病病原体などの発見や特定化の業績は、その後、ウィルスが病原体であることが判明しており、現在は否定されている。
▼とにかく自己顕示欲が強く、女色に溺れ。借りた金(渡航費)、それも大金を、横浜の遊郭で使い果たすなど、この種の逸話は枚挙に暇がない。要するに、修身や教科書に載るような模範的人物ではない、ということだ。
▼その野口が、梅毒スピロヘータの研究に異論や批判が出て、名誉失墜がかかったと感じ、黄熱病の発生が報告されたアフリカへ飛んだ。名誉挽回を期した一戦である。
▼1927年秋、アクラに着くや、500-600匹の猿を入手、彼独特の大掛かりな実験が始まった。ところが翌年元旦から嘔吐と悪寒を訴えはじめてしまった。これは数日で治癒した。黄疸を起こし、黒い血を吐いて死ぬ黄熱病は、一度治癒すると免疫化する。彼は自身に黄熱病の免疫ができたと信じた。
▼1月9日には、再びベッドから降りて、研究に没頭した。そして3月9日深夜、ついに、野口は黄熱病の病原体を発見した。と、信じた。かつて、梅毒スピロヘータを脳内から発見したときと同じように、ちょうどアクラ研究所に来ていたヤング所長をたたき起こし、狂喜した。
▼野口はその菌を培養し、NYでさらに研究を続けようと準備したが、5月10日から、再び倒れた。今度は明らかに黄熱病であった。見舞いに来たヤングに、「どうも僕にはわからない」と言い、これが最後の言葉になった。
▼一度かかったはずの黄熱病に、どうして二度かかったのか、わからないという意味だ。どうも、健康な猿と、黄熱病に罹患した猿の名札をアフリカの少年がつけ間違えるようなミスがあったらしい。野口は、けっきょく20日意識不明となり、21日正午ごろ、絶命した。
▼ヤングは、その日のうちに、野口の遺体を解剖し、まさしく黄熱病であったことが確認された。そのヤングも、27日に、黄熱病の症状を起こし、29日に死亡した。昭和3年のことだ。
▼野口は、不運だった。すでに世の中は、コッホ、パストゥールなどをはじめ、キラ星のごとく排出した「細菌の猟人(かりうど)」時代の末期だったのだ。あらかた「細菌の市場」は乱獲されつくしていたのだ。濾過性(ろかせい)病原体としてのウィルスの存在に、人類は気づきはじめていたころだった。細菌は渉猟されつくされ、時代はウィルスへと移り変わりつつあったのだ。
▼後に、野口が発見したと信じた黄熱病の病原体が、ただの細菌だったことが判明した。真の病原体は、当時の光学顕微鏡では見ることのできないウィルスだったのだ。そこに、野口の焦りや、結果的に悲劇があった。
▼しかし、どんなにその研究の多くに、思い込み、勘違い、失敗があっても、野口の医学界における業績は、輝きを失うことはない。学者として、誰もが脱帽する事績であることを、誰も否定しないだろう。
▼その細菌との戦いの歴史の最後のページを、文字通り自ら燃焼しつくして終わったのが、野口の人生だった。「学問は一種のギャンブルだ」と言い切り、「偉ぐなるのが敵討(がたきう)ちだ。」と口癖のようにしていた野口は、左手が不自由というハンディを乗り越え、刻苦勉励、持ち前の負けん気と不屈の闘志で、細菌(と彼が信じたもの)と戦い続けたのである。
▼アフリカに散った一人の明治人の最期は、医学者として最高の栄誉といってもいい壮烈な戦死だったのである。
増田経済研究所 日刊チャート新聞編集長
松川行雄
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