忍者ブログ

増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第288回・文明開化

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。

【閑話休題】第288回・文明開化

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2014-05-02 15:22:00]

【閑話休題】第288回・文明開化

▼子供の頃から、横浜は桜木町を利用するたびに、なぜか惹かれる場所があった。古びたエドモンド・モレルの記念碑だ。モレルが、日本の鉄道を初めてつくりあげたお雇い外人だったことは、なんとなく知っていた。父親から何度となく聞かされていたのだ。わたしが、いつか海外で働きたいと思うようになる、一番最初のきっかけがこのモレルの碑だった。

▼大人になってから、改めてモレルのことを調べてみた。時は19世期。まだ未開で野蛮だと思われていた日本にやってきた、この若い英国人技術者の心意気に心打たれた。

▼新橋-品川間に、まず鉄道を敷設し、新橋-横浜間で仮開業を始めたのは、明治5年1872年である。言っておくが、明治5年なのだ。わずか5年前に、明治維新が成ったばかりだ。まだ街中では、ふつうのように髷(まげ)をしていた時代である。断髪令は確かに、明治4年に発布されているが、明治天皇自身が散髪としたのが、ようやく明治6年なってからなのだ。

▼そんな時代、文明とは、まさに鉄道のことだった。プロシャではこの頃、参謀総長モルトケが、いわゆる内線理論による機動戦術を完成させ、ナポレオン三世のフランス軍を完膚なきまで撃破したのも、鉄道による兵員・軍需物資の輸送を駆使したためだった。1872年のドイツ統一は、鉄道なくしてありえなかった。

▼同じ頃、南北戦争を経てアメリカでは、西部開拓が佳境を迎えていた。騎兵隊によるインディアン討伐とアウトローの時代である。ロサンジェルスにまで大陸横断鉄道が到達したことで、このフロンティアが消滅。アメリカは、大西洋・大平洋に面する一大国家へと飛躍する足がかりとなった。これも鉄道あってのことだ。

▼明治序盤、まだ世の中は、その外見的な様子は江戸時代とまったく変わらなかった当時に、モレルはハリエット夫人を伴って来日した。これが宣教師であれば、話は別だ。一般の鉄道技師である。

▼未開の非文明国で、ひとつ荒稼ぎしてやろうという輩は引きもきらずであったはずだ。ところがこのモレルは、徹頭徹尾、日本の鉄道敷設に誠心誠意尽力した。セイロン(スリランカ)のゴールで、日本行きの話を持ち掛けられたようだ。

▼当時、日本政府から鉄道敷設のための外債発行を依頼されていた人間から声をかけられたのだ。その職務への忠実性を高く評価され、駐日英国大使パークスの推薦で、日本にやってくることになる。

▼もともとは、伊藤博文・大隈重信が、英国に専門家の派遣を要請したことに始まる。政府の鉄道建設推進者は民部大蔵大輔大隈と少輔伊藤であった。目的は、中央集権化という政治的目的と人心に「時代が変わった」ことを示す、社会的衝撃の二つにあったといわれている。

▼かくして、エドモンド・モレルが明治3年1870年に5年契約で来日した。副技師長はジョン・ダイアック、ジョン・イングランド、チャールズ・シェパードの3人、更に技術者や工事担当者を伴っていた。

▼モレルは、それまでにボルネオのラブアン島や、ニュージーランドでの業務経験を経ており、申し分のない人材だった。彼の提出した「鉄道見込書」によると、新橋―横浜間は最重要路線として明治5年中に完成させ、大阪―神戸間は翌明治6年開通させるべきとしている。

▼また、後発国での新規事業は民間任せではなく、一括して政府主導で公共事業を推進すべきだと献言し、工部省の設立を提案した。 そして人材育成である。モレルは、自ら鉄道建設を指揮し、技術者の教育は業務の合間に指導教官を務めた。

▼英国では、日本に鉄道建設を行わせ、その枕木を日本に買わせようという腹でいた。つまり、モレルを日本に派遣したのは、そうした言わば「ひも付き」のお雇い外人としての意味合いが強かった。

▼ところがモレルは、財政難に苦しむ新生日本政府の状況に胸を痛め、すでに英国に輸入手配していたものを、すべて取り消し。日本の豊富な木材を伐採することに方針を大転換した。日本の外貨消費を節約し、国内産業育成にも効果をもつ計画変更だった。さらに、当時、世界の常識であった広軌鉄道ではなく、敢えて狭軌鉄道に計画を変更。これも、鉄の延伸によるコスト削減のためだった。

▼モレルは、この当時30歳。すでに、来日した際には肺患を患っていたフシがある。新橋-横浜間の鉄道建設は、しかし、スムーズには始まらなかった。鉄道反対派は、三田の旧薩摩藩邸を通ることを拒否し、軍部も旧台場などの陸海軍敷地を鉄道ルートに提供せず、用地買収に窮したのだ。

▼モレルはそこで、海岸を埋め立て、海中築堤によって鉄道線路とした。これは世界初の事業だった。海の上を鉄道が走るのだ。モレルが全力を投入して、短期間に仮開業にこぎつけた明治5年5月、 “陸蒸気(おかじょうき)”と呼ばれた列車に乗った人達は、乗り心地の良さとそのスピード・時間短縮に衝撃をうけた。この結果、反対派は一気に鳴りをひそめ、10月14日に開業。この日が鉄道記念日となっている。 神戸・大坂間の工事は横浜側より4か月後にスタートした。

▼しかし、日本中がそれこそ度肝を抜かれた、鉄道というものの奇蹟の晴れの舞台に、モレルの姿は無かった。前年、明治4年1871年、9月23日に激務による過労がかさんで、肺患が悪化した末に、亡くなっていたのだ。

▼なんと、ハリエット夫人も、夫の死後わずか12時間後に、神経性か、あるいは呼吸器系の急性疾患によって急死している。夫人にも感染していたのかもしれない。肺病が思わしくないことから、インド・セイロン方面に一時療養願いを日本政府に申し出、それが許されて、旅立つ矢先のことだったらしい。インド・セイロンへの転地療養のため、政府はモレルに5000円(現在の価値で3500万円を下賜している。)

▼この若い夫婦には、おそらく金銭的な野望もなにもなかったろうと推測される。日本滞在はわずか1年でしかなかったモレル夫妻だが、少なくともわたしに、仕事をするということはどういうことかを、身を持って教えてくれた先人だった。技術者としての使命感を1年で燃焼してみせた彼らは、今、仲良く横浜の外人墓地に眠っている。

増田経済研究所 日刊チャート新聞編集長
松川行雄


日刊チャート新聞のコンテンツは増田足のパソコン用ソフト、モバイル用アプリから閲覧可能です。

15日間無料お試しはこちらから
https://secure.masudaasi.com/landing/pre.html?mode=cs
PR

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。