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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第328回・ビルマの竪琴

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【閑話休題】第328回・ビルマの竪琴

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2014-09-26 15:29:00]

【閑話休題】第328回・ビルマの竪琴

▼昭和15年6月。一人の男が、英領ビルマに入国した。讀賣新聞駐在員・南益世と名乗った。記者という身分は偽装で、その正体は、帝国陸軍参謀本部の鈴木敬司大佐。目的は現地の独立運動家と接触を図ることだった。いかにビルマ独立を支援といっても、軍務を逸脱して暴走した側面もあり、現地では「独立の英雄」とされる一方で、日本では批判もある。この人物の軌跡を辿ってみよう。

▼日中戦争の収拾に目処がつかなくなる中、蒋介石・中華民国への支援物資に使われていたビルマ・ルートの遮断が戦略的課題だったのだ。大陸奥深くに残留する中国軍に対し、英軍が物資を公然と運び込んでいたのだ。

▼鈴木大佐は、ビルマの独立運動の重鎮ティモン博士から、運動の主力だったタキン党のアウンサン(オンサン)26歳との接触を勧められる。アウンサンは、ビルマでは懸賞金をかけられていたので、中国のアモイに逃亡、潜伏していた。鈴木大佐はそこで、参謀本部に照会し、上海の陸軍諜報機関や満鉄調査部が動き、アウンサンとの単独接触にこぎつける。

▼それまでは、アウンサンは中国軍との連携を試みていたようだが、日本軍からのコンタクトにかなり驚いたようだ。ただ鈴木大佐が独立派重鎮のティモン博士に通じていることがわかり、態度を翻し、日本軍との共闘に踏み切っている。

▼日比混血児に偽装したビルマ人が羽田空港に降り立ったのは、昭和15年11月のことだった。アウンサンとラミヤンの2人である。鈴木大佐は出身地の浜松に2人を匿っていたが、参謀本部側の対ビルマ計画が定まらず、半ば宙ぶらりの状態に置かれた。

▼しかし、幸いそれも僅かな期間だった。翌年初めにビルマルート遮断の問題が緊急課題となったことで、海軍軍令部が在ビルマ諜報機関の設置を要請。それを受けて2月1日「南機関」が産声をあげた。

▼機関長に抜擢された鈴木敬司大佐の偽装名「南益世」をもじって名付けられた名称だ。機関設立に海軍も深く関与していた為に「南機関」は大本営直属という特異な性格を持つことになった。また南機関には複数の中野学校出身者が加わっていた。

▼南機関に与えられた最初の作戦行動は、数十人のビルマ人に軍事訓練を施し、軍事エリートを育成することであった。そして、アウンサンらは同志の脱出を手引きするべく、祖国潜入の命を受ける。南機関員の全面協力のもと、アウンサンはタキン党の地下ルートなどを駆使し、有力メンバーとのコンタクトに成功。陸路・海路を経て日本に辿り着いたビルマ人青年は30人に上った。彼らこそが後に、独立の英雄と称される「ビルマ三十人志士」である。

▼日本に集結した30人のビルマ青年は、箱根で静養を終えると、中国最南部の海南島に赴いた。気候条件がビルマに似通っているという理由で選ばれた場所だが、訓練地は海南島・三亜の町から50キロ離れた密林の中だった。

▼大東亜戦争開戦まで8ヵ月を切った昭和16年4月。海南島・三亜訓練所での軍事訓練プログラムが始動した。その内容は皇軍の将校育成コースを土台に、「戦闘・戦術の指揮」といった基本的なものから「国内擾乱に向けた情報収集活動」「地方行政」にまで及んだ。

▼本来なら2年以上かかるプログラムを3ヵ月以内に修得しなければならない。更に叛乱を呼び込むゲリラ戦術も学ぶ必要がある。人知れぬジャングルの奥での過酷な訓練だ。今すぐにでも、ビルマに突入して、民衆決起の運動を起こしたがる三十人の若者たちにとっては、過酷な3ヶ月だった。「こんなことをいつまでやっていなければならないんだ」といったような焦燥感にも駆られた。これをなんとか抑え、まとめていたのが、アウンサンと、ネ・ウィンだった。

▼ 南機関を率いる鈴木敬司大佐は、明確なビジョンを持っていた。「三十人志士」を中核に兵員を増強、タイからビルマ南部に浸透し、対英蜂起を促す。一部地域の支配を手掛かりに独立を宣言、臨時政府を樹立する。これが、最終的に大本営の承認を得られるかどうかは、まだ不透明だった。軍上層部は、三十人を戦略上利用価値がある、とみなしていただけだったのだ。

▼昭和16年7月に「三十人志士」の軍事訓練は終わりを迎えた。初期段階の計画では、時をおかずビルマ浸透作戦に移る手筈だったが、やはり大本営からゴーサインは下されなかった。日米開戦の帰趨がはっきりしなかったからだ。しかし、鈴木大佐らにしてみれば、ビルマの独立は日米開戦とは、ある意味無関係のものだったのだ。

▼6月にはオランダが植民地・蘭印から日本への資源輸出を停止。米国が7月に対日資産凍結を発令すると英蘭も追従。そして、8月になると米国は石油の対日輸出全面禁止に踏み切る。ABCD包囲網が完成した。

▼海南島の三亜訓練所に待機していた志士達は、台湾の玉里やバンコクなどを転々とし、最終的にサイゴンに移される。そして、真珠湾攻撃が決定され、ようやく南機関は動きだす。まず2人がタイ国境からビルマ潜入に成功。真珠湾奇襲の5日前だった。

▼日米開戦となった昭和16年の年の瀬、ついにBIA(ビルマ独立義勇軍)がタイで誕生。近代ビルマ国軍が産声をあげた瞬間である。

▼南機関は大本営直属から南方軍司令部の麾下となり、タイに進駐した第十五軍に組み込まれた。それでも特異な性格は変わらない。機関員の日本軍人・軍属74人が加わっていたが、皇軍とは別組織だった。鈴木大佐はBIA司令官という肩書きを持ち、アウンサンは参謀総長に就任している。

▼発足に際して志願入隊したタイ在住のビルマ人は約200人で、尚も“小さな軍隊”であったが、1世紀以上も英国によって武器を取り上げられていたビルマ人にとっては画期的な出来事だった。

▼BIAは主に3隊に分かれてビルマ国内に侵攻することとなった。鈴木大佐やアウンサンらによる主力部隊。南機関ナンバー2である川島威伸大尉(BIA中将)指揮下の兵団。さらに平山季信中尉(BIA大佐)率いる水上支隊。

▼BIA主力部隊は、北回りのコースを辿って進撃した。その為に第十五軍の後塵を拝する形となったが、土地勘に優るBIAは巧みなゲリラ戦術で敵残存兵力を粉砕。地元住民の全面協力もあって、ビルマ中央平原を流れるシッタン河に逸早く到達した。

▼行軍の途上でビルマ人の志願兵は増え続け、兵力は約2000人に膨れ上がっていた。将校役となっていた「三十人志士」メンバーが即席の軍事訓練を施しながらの進行であったという。

▼BIA主力部隊の快進撃に加え、川島兵団も主要幹線のマンダレー街道を強硬突破、英軍の退路の一角を切り崩すなどの活躍を見せた。そして、平山水上支隊の大胆な行動は、首都決戦を大きく様変わりさせている。

▼最南部から海岸に沿って北上した平山水上支隊は、首都ラングーンの後背地にあたるデルタ地帯に敵前上陸を敢行。その際、地元民の間に「日本軍数千名とビルマ義勇軍2,000名が攻撃準備中」との偽情報を流している。

▼退路遮断を恐れた英軍は首都を放棄して撤退。結果的に、激烈な市街戦が行なわれることなく、昭和17年3月9日にラングーンは無血陥落した。

▼不幸なことに、平山水上支隊は首都陥落の歓喜をよそに英軍を追撃中だった。イラワジ河本流を遡上、英軍との交戦で平山支隊長が被弾、戦死している。

▼3月25日、英国支配から脱したラングーン市内のスタジアムでBIA観閲式が行われた。年末に200人規模で産声をあげたBIAはその時、兵員数3万人に増大していた。

▼BIA最高指揮官・鈴木敬司大佐は白装束を身に纏って登場する。鈴木大佐のBIAでの呼称はボ・モージョー(=雷帝)。

▼ビルマ最後の王朝が英軍に倒された後、現地ではひとつの民間伝承が生まれた。それは「雷帝、東方より来たり、ビルマ族の解放をもたらす」というもので、BIAの進撃途中「雷帝来る」の噂は瞬く間に広がった。これにあやかったのだ。

▼一部の戦史家は、これを鈴木大佐の巧みな情報操作と断定しているが、南機関の主要メンバーだった泉谷達郎氏によれば、偶然の産物で、鈴木大佐が民間伝承を知ったのはビルマ進撃の途中だったという。また、その名付け親はアウンサンでもある。

▼ところが、事態はそう甘くはなかった。雷帝率いるBIAは熱狂的に迎えられたが、南機関は苦境に立たされていた。ビルマ南部攻略後も、ラングーン陥落後も、ビルマ独立宣言は行なわれなかった。当初の約束は果たされなかったのだ。

▼英軍部隊は未だ北部にあり、またビルマ族に反感を抱く他民族の平定もままならなかった。その中で“ビルマ政策”を司る第十五軍が主権移譲を行なう余裕はない。「時機尚早」の一言で退けられた。

▼鈴木大佐は、約束不履行は不測の事態を生み出しかねないと重ねて警告。陸士同期の那須軍政部長と大喧嘩をしている。「我が軍のビルマ占領は、むしろビルマ人の協力によって最小の犠牲で済んだのではないのか」しかし、大本営は首を縦に振らなかった。ちょうど同じ頃、チャンドラ・ボースのINA(インド国民軍)も誕生し、もはやビルマ情勢は南機関の志とは別に、高度に政治的な問題になっていたのだ。

▼独立宣言の保留に反感を募らせていたのは、アウンサンも同じだった。軍政部の方針は南機関員を通じてBIA中枢の志士達にも伝わっていた。彼らの憤懣の知った鈴木大佐は3月末、ラングーンの私邸にアウンサンを招き、こう直言している。

「もし俺がお前の立場だったら、手に入りかけた独立を絶対に逃しはせんぞ。独立はどうすれば獲得できるか、歴史をみればはっきりしている。独立は他人がくれるものじゃないんだ。だから、ビルマ人が独立を勝ち取るために反乱を起こすと言ったって、なにも不思議じゃない。それはまったく当然のことなんだ」

▼鈴木大佐は軍刀を置き「まず俺を殺せ。それから独立の戦いをやれ」と言い放つ。アウンサンの心はひどく痛んだ。そして「機関長がビルマに居る限り反旗は翻さない」と言うと、それ以上は語らず、粛々とビルマ北部の熾烈な戦場に向かった。

▼まだ日米開戦翌年3月の話である。日本の敗色が濃くなっていた昭和18年であればまだしも、破竹の勢いで太平洋全線に渡って支配地を急拡大していた時期である。鈴木大佐の真意がどこにあったのか、ここにかなり史家の議論が集中している。

▼すでに、鈴木大佐がこの段階で、日本の敗戦を予知していたのか。純粋に、ビルマ独立運動に大義を感じ、独断専行の軍務違反も辞さないつもりだったのか。

▼この後、第十五軍と南機関の溝は何ひとつ埋まらない。それでも鈴木大佐は様々なプランの現実化に向け、矢継ぎ早に手を打った。ラングーン市民向けの病院開設・住宅の確保・銀行創設。更に、永井行慈上人の勧めでビルマ仏教会と連携。僧侶の影響力は絶大で、これが全土の治安回復のに大きな役割を果たした。

▼BIAの総仕上げも重要だった。護郷軍を整備し、3万人規模の兵員から3千人を選抜したBDA(ビルマ国防軍)への改編に着手。さらにビルマ海軍の創設に尽力した。

▼同時に南機関は、その役割を終えようとしていた。 鈴木大佐に辞令が交付されたのは6月末のことだった。事実上の更迭である。北部戦線からラングーンに戻ったアウンサンをBDA司令官に命じ、鈴木大佐は7月14日にビルマを去った。

▼更に「三十人志士」から兄と慕われた機関ナンバー2の川島威伸大尉にも転出命令が下され、南機関は自然消滅。誕生から1年と6ヵ月のことであった。

▼軍令部と激しく対立した鈴木大佐は、更迭されたわけだが、ペナルティを科せられることはなかった。1年後には少将に昇進。陸軍内には南機関の役割を評価する勢力があったらしい。

▼結局、アウンサンらのBDAに不穏の匂いを感じ取ったのだろうか、大本営は南機関消滅の直後からビルマ独立行政府の準備を進め始めた。英軍に投獄されていたバー・モウ博士を救出。翌18年8月1日、バー・モウ首相によってビルマ独立が宣言された。

▼アウンサンも国防相に就任。同時にBDAはビルマ国軍と再度名称を変え、「三十人志士」の多くが国防省・国軍の重要な部署を占めた。ビルマ情勢は落ち着き、バー・モウ首相が「大東亜会議」に参加するなど日緬の関係は強化されていったが、そこに暗い影が忍び寄っていた。インパール作戦である。

▼もともと大本営としては、援蒋ルート(中国への英米による、インド・ビルマからの物資支援ルート)の遮断を目的としていた対ビルマ作戦は、全土からの英軍追放、根拠地インパール攻撃に移行していったのだ。

▼昭和19年3月に始まったインパール作戦は、ご存知のように皇軍に膨大な犠牲者を出し、敗北に終わった。それどころか撤退の過程で、北の要衝マンダレーも英軍の手に落ち、完全に形勢は逆転した。

▼日本軍の敗色が濃くなった昭和20年3月末、左派グループとも連携したアウンサンの決断でビルマ国軍は決起した。いわゆる反日蜂起である。日本が支援したはずのビルマ軍が、逆に英軍と結んで反旗を翻したことに、日本国内では憤激する声が高まった。だがこの事件によって、むしろ日本の敗戦を予感する者も少なくなかったという。

▼アウンサンらにとっては日本軍と共に心中するか、英軍と通じて独立を貫くか、ギリギリの選択だった。仮に英国が再植民地化を進めるなら、最終的は英軍とも矛を交える覚悟だった。(実際、英国は戦後ビルマを独立させるつもりなど、この時点では毛頭無かった)

▼決起直前にアウンサンはバー・モウ首相に長い手紙を寄せている。そこには、こう綴られていた。

「私には日本人を責める気持ちはありません。・・・貴兄には今は理解しかねるかも知れません。でも信じて下さい。しばらくすれば私の真意がどこにあったか、判って頂けるでしょう」

反日蜂起で日本軍には3,000人を超す犠牲者が出たが、不思議なことに軍関係者から怨嗟の声は殆ど聞こえて来ない。5月には、各地の反日蜂起を誘導し、英軍と連携しながら、敗残の日本軍を追いつめていった。6月にはラングーンを回復している。

▼インド・ビルマ方面の英軍は、マウントバッテン卿が総司令官だったが、アウンサンは交渉で英軍への寝返りと、その代償として主権委譲を要求している。密約としてこれが成立し、アウンサンの反日蜂起が決定された経緯がある。そして、このマウントバッテン卿が承認した一枚の密約が、終戦後、どうにも英国としてはアウンサンを戦犯容疑で処断することができない命綱の役割を果たすことになる。

▼反日決起の際、「三十人志士」メンバーのうち3人は参加を拒み、その一人ボ・ミンオンは自決した。その時、旧南機関のメンバーで唯一人、高橋八郎中尉がビルマ国軍顧問として残っていたが、アウンサンは暴動と戦闘で大混乱をきたしていたビルマ国内にあって、「何が何でも救え」、と絶対救命指示を出している。日本軍の武装解除を行なった「三十人志士」の1人ボ・ゼヤは沈痛な面持ちで、高橋中尉に、こう語りかけた。

「我々は不本意ながら反乱を決意しました。あなたには済まないと思っています。…どうか我々の苦衷もご理解下さい」

▼2ヵ月後、終戦。本格的に英国が戻ってきた。しかし、かつて支配したビルマとは全く違っていた。英領に復帰させられたビルマの行政府に、アウンサンは参加し、粘り強く独立の交渉を続けることになる。ようやく英国政府からの主権移管を約束した「アウンサン=アトリー協定」の締結に成功した矢先、同時に内部抗争も激化し、昭和22年7月、テロリストに暗殺される。

▼暗殺者は、もともと親日家の人物だったが、英軍によってナイロビの監獄に入れられていた。その人物が、アウンサンを撃ったのだが、一説には英国が死刑と引き換えに、アウンサンの暗殺を命じたともいう。当時、確かにビルマの英国行政府内の英国人たちは、ことごとにアウンサンを憎悪していたから、この筋書きはあながち作り話とも言い切れない。

▼アウンサンを憎むこと余りある在ビルマ英国人たちは、アウンサンがマウントバッテン卿から、主権委譲の約束を取り付けていた事実を、どうにも動かしがたかった。それがなくば、たちどころに反逆罪によって身柄拘束し、処刑できようものを、切歯扼腕していたのだろう。事ここにいたっては、ビルマ独立を阻止するには、アウンサン暗殺しかないと判断したのかもしれない。

▼たとえば、英国のアウンサンに対する憎悪は、こんな一件にもかいまみえる。英国は、ビルマに独立の蜜の味を覚えさせた張本人として、南機関やビルマ戦線にかかわった日本軍人を相次いで連行しているのだ。鈴木少将も戦犯としてラングーン刑務所に収監された。これに猛抗議をして釈放させたのは、アウンサンであった。

▼厦門(アモイ)で初めて鈴木大佐と接触してから6年。その間、アウンサンは全力疾走を続け、凶弾に倒れた。享年32。悲劇的な最期を遂げた7月19日は「殉難者の日」として今もビルマの暦に刻まれている。

▼南機関に対する「三十人志士」の思い入れは共通で、アウンサンの死後、同志をまとめていたネウィンは、ずっとその後のビルマに院政を敷くことになるが、その途中、昭和41年に鈴木少将を招待(翌年、鈴木氏は死去)。さらに56年にはビルマ最高の栄誉である「アウンサンの旗」勲章を授与し、偉業を称えた。勲章が贈られた7人全員が南機関の関係者だった。

▼既にこのときには他界していた鈴木少将に替わって、未亡人が式典に参列したが、その際、夫人は書状を携えていた。それは、昭和17年に鈴木大佐がビルマを去る時に、アウンサンらから手渡された感謝状だった。

「父親が子供に教え諭すがごとく、その子供を守るがごとく、雷将軍は真の愛情をもって、ビルマ独立義勇軍の兵士全員を導き、かばい、心を砕いてくれた。ビルマ人は、その老若男女を問わず、このことを忘れることは決してない。・・・・
将軍のビルマ国への貢献も、いつまでも感謝されるだろう。たとえ世界が亡びようとも、われらのこの気持が亡ぶことはない」

▼この後、ビルマはネウィンの下で、あたかも日本軍が作り上げた軍事独裁国家の純粋培養のようなていで存続していく。ついに1988年、ついに時代の流れに抗しきれず、民主化暴動の責任を取ってネウィンが長い院政から退いた( 2002年に死去)。今につながるビルマ民主化運動の旗手アウンサンスーチーは、言うまでもなくアウンサンの長女である。

▼因果は巡る。日本が生んだビルマの独立と軍政は、父娘二代にわたって未だに着地点を見出せずにいる。鈴木少将と南機関が果たした役割とは、一体なんだったのであろうか。歴史は彼らにどういう評価を下すのだろうか。

増田経済研究所 日刊チャート新聞編集長
松川行雄


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