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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第327回・インドへの道

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【閑話休題】第327回・インドへの道

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2014-09-19 15:18:00]

【閑話休題】第327回・インドへの道

▼先般、首相就任後、初の外遊先に日本を選んだインドのモディ首相は、親日で知られる。個人的な理由もあるだろう。なにしろ彼は、わずか三人のツイッター仲間の一人に、安倍首相が入っているくらいだから。しかし、モディ首相のみならず、インドはもともと親日である。

▼インドが親日になった、一番最初のきっかけは、言うまでもなく日露戦争の勝利からである。あの、ガンジーと共に歩んだ非暴力・非同盟主義のネルーでさえ、当時熱狂してこのニュースを受け入れたのだ。孫文も、航海中、中東やアフリカ沿岸の寄港地で、「おまえは日本人か。」といって間違われ、対ロシア戦の勝利を激賞され、こぞって握手を求めらたように、世界中でこの歴史的な歯車の大転換は、衝撃的に受け止められたのだ。

▼今の時代感覚でしか歴史を見ることができない人間には、歴史の評価などできはしまい。当時、白人支配・白人優位の世界観を初めて打ち砕いて、アジア人の意識を劇的に転換させたものは、この日露戦争という大事件以外にはない。

▼大英帝国のくびきに呻吟していたインドでは、独立への志向が強かった。ガンジーは、その非暴力主義によって、独立運動を起こしていたが、現実的な方法とはいえなかった。ヒトラー・ナチスの侵略戦争においても、英仏は抗戦すべきではない、と主張していたくらいだ。非暴力で抵抗すべきだ、と言ったのだ。

▼そのガンジーの非暴力主義(英国品の不買、英国社工場での労働拒否などの全面的なボイコット運動)によって、英国で数万人の人々が企業倒産などに追い込まれ、多くの子供を含む餓死者を出したことなど、ガンジーは頓着しないのだ。非暴力主義によって、間接的に相手国の国民が死に至るのと、直接的に生死をかけた独立戦争をすることと、どちらが正しいのか、答えはないだろう。これは哲学の違いだ。

▼ただここにはっきりしている事実がある。それは、独立を経過したインドの国会議事堂において、最上段に掲げられている独立の英雄の写真は、ガンジーでは無いということだ。それは、チャンドラ・ボースである。しかも、彼は、不幸にして終戦時に飛行機事故で亡くなっており、インド独立のその日を迎えることは無かったのにもかかわらず、である。インドでは、ボースこそが、独立の英雄として受け止められているということだ。

▼チャンドラ・ボースがそれほどインドで高く評価されているのは、たった一つ、第二次大戦において、海外在住のインド人を主力とした、インド国民軍の総帥として、英軍に独立戦争を挑んだからにほかならない。そして、そのインド国民軍は、日本人によって結成されたのである。ここに、インドと日本は深い歴史の絆がある。

▼第二次大戦において、シンガポールなど海外で工作に当たったF機関(陸軍参謀本部・藤原岩市少佐以下、10名。全員陸軍中野学校出身者。)は、一様にインド独立を本気で考えていたが、大本営の南方作戦には当初はインド攻略が含まれていなかった。この乖離が、後々インド攻略戦にさまざまな齟齬をきたし、インパール作戦のような大失敗にもつながっていく遠因である。

▼以前も、閑話休題「失敗の本質」で述べたが、第二次大戦の帰趨を担っていたのは、英国を連合軍から脱落させることにかかっていたわけで、この重要性は当時の陸軍には徹底して認識されていたとは思えない。

▼藤原少佐は、マレー電撃戦で捕虜となったインド兵(英軍)たちに対し、「私達はインド兵を捕虜として扱わない。友情をもって扱い、インドの独立の為に協力したい」と宣言、アジア全般に在住するインド人の、独立の気運に火をつけた。大本営は、しょせんインド攻略を、戦略的にのみ視野にいれていたにすぎなかったが、現場のF機関は本気であった。F機関は岩畔豪雄(いわくらほりお)陸軍大佐を機関長とする岩畔機関に発展改組され、250人規模の組織となった。

▼大戦前、日本で組織されたインド独立連盟は、もともとラス・ビハリ・ボースを筆頭としていた。インドで、ラホール蜂起などを組織して失敗、日本に亡命しており、長年、日本でインド独立運動を指導していたが、そのころはまだ日本が英国に配慮していた時代だ。政府はラス・ビハリ・ボースを国外退去させようとしたこともあった。このときは、頭山満・内田良平、そして犬養毅ら、大アジア主義者たちが、彼を銀座中村屋(相馬家)にかくまうという一幕もあった。

▼頭山らの猛抗議で、結局国外退去は撤回。中村屋に婿入りして、後世に例の中村屋のカレー・メニューを残していったことでも知られている。ラス・ビハリ・ボースは、人格者であったが、病気がちであったため、ドイツに亡命していた元インド国民会議派(ガンジーやネルーが主導)議長だったチャンドラ・ボースを日本に招聘することとなった。ちなみに、二人のボースは、同名だがとくに縁戚関係があるわけではない。

▼当時、チャンドラ・ボースは、ガンジーやネルーら、非暴力主義者と路線が合わず、ドイツにいた。北アフリカ戦線でドイツ軍の捕虜となった英軍インド兵を糾合して、インド旅団を創設し、ドイツ軍の支援を得て、中央アジア・カフカスからインドに侵攻する計画を立てていたが、日本の招請によって、アジアでの対英独立戦のほうが近道だと判断したようだ。

▼そもそも、チャンドラ・ボースは、ドイツに亡命していたものの、英国と同じくらい、ドイツを嫌っていた。ヒトラーの人種差別主義に我慢がならなかったのである。ついにボースはドイツを離れた。1943年、欧州戦線でも、また太平洋戦線でも、日独の枢軸側に次第に退勢が目立ってきたころ、ドイツ海軍Uボートでキール軍港を出発。マダガスカル沖で、日本海軍伊29号潜水艦に乗り換え、来日した。

▼同年7月、二人のボースは日本軍統治下のシンガポールにおいて、インド独立連盟総会を開催。総裁には、チャンドラ・ボースが就任したが、彼は、ラス・ビハリ・ボースに、「まだまだあなたの力を借りたい」と延べ、壇上で堅く握手を交わした。ラス・ビハリ・ボースは、連盟の名誉総裁に就任している。

▼このとき、チャンドラ・ボースは、数万のインド人群集に向かって、有名な激を飛ばす。「チャロー・ディリー!(進め、デリーへ!)」。これが、インド国民軍の、合言葉になる。同年10月、チャンドラ・ボースはシンガポールに自由インド仮政府を樹立し、その主席に就任し、併せて英米へ宣戦布告した。つまり、中国共産党(八路軍)のような民兵ゲリラではない、ということだ。国際法によって規定された、れっきとした正規軍としての宣戦布告である。

▼このとき、インド国民軍は、4万5000人に膨れ上がっていた。対独・対日戦で疲弊し、まったくインドにおける実効支配力を失いつつあった英国に対し、それでも武装蜂起をしようとしない在インドのガンジーに、業を煮やしたのが、ボースだった。

▼1944年、悪夢のインパール作戦が始まった。この惨状については閑話休題「ある日のチッタゴン」で書いたが、要するに南方軍司令部と大本営のずさんな計画がものの見事に大失敗を引き起こした。日本陸軍首脳の意図は、英米によるインド・ビルマからの援蒋ルート(中華民国への物資補給路)を遮断することにあった。それは、ビルマから峻険な山岳地帯を踏破して、要衝インパールを攻略するという壮大な遠征ではあったものの、あくまで局地戦の作戦計画であった。

▼これに対し、チャンドラ・ボースは、それだけにとどまらず、インドへの本格的な侵攻による独立達成まで視野に入れて、あくまで沿岸部からのインド東部・ベンガル地方の攻略戦を主張。目標地点が違うのだ。

▼このボースの主張は入れられることは無かった。このボースの作戦計画が実施されていたとしたら、かなり戦況は違ったものになっただろうという指摘は多い。ベンガル地方は、ボースの故郷であり、圧倒的な人気があった。日本軍とインド国民軍がここに全力を傾注した場合、インパール作戦のような悲惨な山岳遠征のようなことは避けられたであろうし、仮に戦闘目的が達成できなかったとしても、むしろ、直接的にインドにおける独立運動や蜂起を誘発させた可能性がきわめて高いとされている。

▼当時、日本のアジア独立支援というスローガンを疑い、むしろ敵視さえしていたガンジーでさえ、日本軍のビルマ侵攻が成功するや(インドはすぐ隣である)、それまでの前言を翻して、急に日本寄りの発言に切り替わっているくらいである。これをガンジーの変節と言えば変節だが、政治とはそういうものだ。

▼それまでは、日本も英国と同じく、ただの植民支配国家に成り下がったとして、激しく日本を非難していたのがガンジーだった。しかし、そのガンジーは、インド国民軍による進撃によって、インド独立が達成されるというシナリオも視野に入れ、日本との講和も考え始め、にわかに日本寄りの発言に終始するようになったのは、事実である。

▼しかしながら、インパール作戦は惨憺たる失敗に終わった。これに参加したインド国民軍は精鋭6000名だけであったが、チンドウィン河にまで撤退してきたときには、すでに2600名に減っていた。さらに撤退戦によって、400人が戦死。1500人が戦病死。インパール作戦に参加したインド国民軍部隊は壊滅している。

▼アウンサンらビルマ独立軍は、この後、日本を見限った。ますます敗色が濃くなってきた日本との心中を避け、あろうことか敵の英国と手を結んだのである。もちろんビルマ独立を条件にだ。これもしかし、変節といって非難することはできまい。それは政治だからだ。日本陸軍の南機関(ビルマ独立運動の工作機関)が育て上げた、アウンサンら30人の若き指導者たちは、苦渋の選択に悩んだ末、日本に反旗を翻した。うち3人は反乱参加を拒否。そして一人、ボ・ミンオンは、日本に反乱を起こす同志たちを激励しつつ、自らは日本に義をたてて自決した。

▼ビルマ独立軍は、ついに英軍と接触、講和。連合国軍側に寝返った。腹背に敵を受けた日本軍とインド国民軍の残党は、さらに後退して、シンガポールで全面降伏するにいたった。

▼1945年、ラス・ビハリ・ボースは、すでにこのとき病死しており、チャンドラ・ボースは、終戦工作に入った日本の代わりに、ソ連の支援によるインド独立を考えた。台湾から訪ソしようとしたが、四手井(しでい)陸軍中将らとともに、飛行機事故で亡くなっている。もっとも、このボースの事故死には、後にさまざまな疑惑が指摘されており、未だに釈然としないものもある。

▼たとえば、日本軍による謀殺の疑惑である。ただ、日本がこのときボースを謀殺しなければならない理由というものも、実は無い。日本軍・政府ともに、日ソ不可侵条約を結んでいたことから、ソ連に対米英講和工作を望む動きがあったことも事実であり、その意味からも日本が支援してきたボースが、ソ連に向かうというのは、ある意味、利用価値もあったわけで、やはり偶発的な事故死というのが、一番自然かもしれない。

▼二人のボースが亡くなってから後、インドでは終戦後、大英帝国による植民支配に再び、緩んだタガを締め直す動きが始まった。その手始めが、インド国民軍残党の「反逆罪」適用による処罰である。起訴の対象となったのは、捕虜となった2万人のうちの400名であった。当然、反逆罪であるから極刑になれば、死刑である。

▼しかし、皮肉なことに、この裁判を機にインド民衆の間に独立の気運が一気に高まった。次々とゼネストや暴動が起き、ガンジーやネルーの国民会議派も世論に押される形で「インド国民軍将兵はインド独立のために戦った愛国者」として即時釈放を要求。かつて、戦前には、独立闘争の路線を巡って袂をわかったボースの支持者たちに組したわけだ。これも政治だ。

▼1946年2月には英軍インド兵(水平)たちも反乱を起こし、ボンベイ、カラチ、カルカッタで数十隻の艦艇を占拠し「インド国民海軍」を名乗った。水兵たちは市民に混じって英官憲と市街戦を展開、英軍インド兵たちはイギリス人上官の発砲命令を拒否。また、民衆はイギリスの植民地政府による日本への戦勝記念日には、むしろ弔旗を掲げて抗議を示した。日本の敗戦を悼んだのである。

▼インド独立の過程については、ガンディーやネルーに代表されるインド国民会議派の、インド国内における大衆運動が有名だが、現実に独立運動の起爆剤となり、独立を達成させたのは、チャンドラ・ボースやビハリ・ボースらインド国民軍とその関係者の直接行動であったことは、否定できない。ただ、独立の日まで生き残ったのが、非暴力主義を標榜して、英国植民地政府と融和的な独立交渉をしていたガンジーやネルーだったということにすぎない。

▼インド国民軍兵士の裁判は、結局英国が危機感を覚え、逆に懐柔策に切り換えた。全員無罪釈放処分としたが、これに狂喜した民衆の独立運動の機運は、むしろ燃え盛った。1947年8月、ついにインドは英国からの独立を勝ち取る。

▼歴史家のエリック・ホブズボームは、「インドの独立は、ガンジーやネルーが率いた国民会議派が展開した非暴力の独立運動によるというよりも、日本軍とチャンドラ・ボースが率いるインド国民軍(INA)が協同して、ビルマ(現ミャンマー)を経由し、インドへ進攻したインパール作戦に依ってもたらされた」としている。

▼事実、独立後、インド国民会議派(ガンジー、ネルー主導)によるインド政府は、10年にわたって、チャンドラ・ボースの名をラジオなどで使うことを禁じ、報道管制を敷いた。つまり、それだけボースや旧インド国民軍の影響というものが、あまりにも大きかったということを裏づけている。

▼先述したように、ボースが主張したような、日本軍によるベンガル地方への直接侵攻が行われていたら、もしかしたら、インド独立運動をその時点で激発させていた可能性は高いかもしれない。その場合、太平洋戦争の帰趨も、また違ったものになっていた可能性はある。

▼事実、日本軍がビルマに突入した際に、英軍は、ベンガル地方への日本軍侵攻を想定し、同地域の物流網を破壊。これによって、米穀の流通が途絶え、1943年の飢饉では、300万人の餓死者が発生したという大事件が起きている。

▼南方軍首脳、陸軍大本営指導部の作戦計画の、的外れな様子は、ここにも見事に露呈していたと言わざるを得ない。しかし、東條首相をはじめ、陸軍統帥部の人たちが、ボースと直接会見し、食事をした際、そのカリスマ性を一様に認めていたことも、また事実である。みな口々に、「あれは、人物だ。日本にもあれだけの男はいない。」と、誰もがそう言った。

▼歴史にif(もしも)は、確かに無い。しかし、ボースが生きていたら、そして、ボースがインドの独立に立ち会えていたら、戦後の日印関係の歴史は、さらに濃密なものとなっていたのかもしれない。

▼最後に蛇足だが、ボースを支援した諜報機関の岩畔豪雄(いわくろほりお)大佐について、付記しておこう。実は、岩畔大佐は、F機関を引き継いで、岩畔機関に拡大改組し、インド独立を模索していく前は、対米外交交渉に当たっていたのだ。

▼岩畔は、陸軍部内では、謀略畑である。「謀略」という言葉は、当時軍では、今のような「陰湿」「卑怯」といったようなイメージで使われていなかった。単に、「軍事行動をしないで、目的を達成する」工作という意味であった。

▼1941年昭和16年3月、緊迫する日米関係の調整のため、その工作能力を買われ、日本大使館付武官補佐官として渡米、日本の興亡を決定する日米交渉を行っている。駐米大使・野村吉三郎らと日米開戦回避のために、日米首脳会談などを柱とする「日米諒解案」の策定を行った。この「諒解案」には岩畔の思想がかなり盛られていた。

▼岩畔、野村(大使、元海軍大将)らはコーデル・ハル米国務長官も認めるほど誠実かつ真剣に日米和平を追求しており、スパイ活動などとは一線を画している。岩畔は野村と国務長官だったコーデル・ハルとの会談にも同席し交渉を続けたが、6月に独ソが開戦してしまい、米国にとって「諒解案」は急ぐ必要の無いものとなってしまった。

▼落胆する野村や岩畔に対し、コーデル・ハルは「今後、(日米関係)がどんなことになっても、あなたたちが見せた真剣な努力はけして忘れないし、あなたたちの安全は私が保証する。」と言った。この後、ハルはあの有名な「ハル・ノート」を日本に突きつけ、事実上の交戦状態に日本を引きずり込んでいく。野村は絶望し、再三にわたり辞職を願うが、本国からは慰留され、絶望的な交渉を続けていくことになる。野村は、ルーズベルト大統領とは、ルーズベルトが昔海軍次官だったことからの旧知の間柄だったから、ルーズベルトの野村に対する認識は非常に好意的なものだった。しかし、それだけでは歴史の歯車を変えることができなかった。

▼岩畔は帰国した後、それでも陸海軍省、参謀本部、軍令部はいうにおよばず、宮内省へも足をのばし折衝を続けた。あまりにも有名な岩畔の自論がある。「アメリカの物的戦力表は、以下の日米の比率で明らかです。鋼鉄生産能力は1対20、石炭は1対10、石油1対500、電力は1対6、アルミ1対6、工業労働力1対5、飛行機生産能力1対5、自動車は1対450です。開戦し、もしそれが長期化した場合には、勝算は全くありません。」

▼しかし、当時大勢は参謀本部での会合でも「日米開戦は避けがたい」と堂々と述べられほどで、岩畔が「勝算があるのか」と反問すると「もはや勝敗は問題ではない」という暴論がかえってくる始末だった。非戦論の多い海軍もやがて主戦派の抬頭となり、岩畔の対米開戦回避運動は挫折した。8月直談判した陸軍大臣東條英機から、逆に近衛歩兵第5連隊長に転出を命じられた。「万事休す」、岩畔は天を仰いだ。

▼太平洋戦争勃発とともに、岩畔は近衛兵を率いてマレー電撃戦に参加。足に銃創貫通を受ける。その後、シンガポールで、インド国民軍の創設に傾注していった。対米戦を止められなかった以上、戦況の活路は、インドを独立させ、英国を連合国戦線から離脱させる以外には無いという判断である。フランスはすでにドイツに降伏しており、英国さえ脱落させれば、後は米国一つに標的を絞ることができる。講和への道も開きやすい。

▼残念ながら、岩畔と折り合いの悪かった東條政権は、こうしたインド政策を巡って、岩畔やボースたちの考えと、どうにも路線の統一を図ることができず、インパール作戦という大敗を喫することとなった。

▼終戦直前、諜報機関員として、陸軍兵器行政本部付に発令され帰国。戦後、英国が、岩畔らが大戦中に展開したインド独立工作に対する恨みから身柄執拗に引き渡しを要求しており、文字通り「矢の催促」であったという。シンガポールに連行して軍事法廷にかけるというのである。

▼しかし、米GHQは 「まだ当方の取り調べがすんでいない」と言い、頑として引き渡しを拒否している。 岩畔は「ハル(元国務長官)が守ってくれているんだよ」と周囲に漏らしていたという。当時のアメリカ国務省に優秀な人材がいないことに悩んでいたコーデル・ハルは周囲に、「私にもあんな(岩畔のような)優秀な部下がいたらどんなに助っただろう」、と述べていたから、その可能性はある。

▼以後、20年にわたる事跡は、実は謎に包まれている。沖縄返還の秘密交渉、GHQ情報部への協力活動、ベトナム戦争の準備情報工作、旧中野学校出身者を中心とた民間右翼団体の指導など、さまざまな憶測がなされているが、はっきりしていることは、吉田茂首相から、自衛隊創設に際して、参加を要請された際に、「敗軍の将、兵を語らず」とのみ言って、固辞したということだけだ。

▼せいぜい、経済人はじめ、多くの人々に哲学を講じたりした生活が知られているくらいだ。フジサンケイグループを作り上げた一人の水野成夫も、アドバイザーとして岩畔を師と仰いでいたが、この水野は、かつてシンガポールの岩畔機関でインド独立運動に携わった経緯があった。もともと共産党員だった水野は、転向しており、岩畔はインド独立運動の支援に当たり、「英国の圧政の下、地下で活動しているインド人たちの気持ちがわかるのは、同じように潜伏した生活を送ったものだけだよ。」といって、水野を起用していたのだ。

▼あとは毎日、通勤ラッシュの時間帯を避け、風呂敷包みにたくさんの本を持って出かけ、夜遅くに帰ってきていたという。ときに、一人息子をつれて、かつてインド独立運動の協力者だったAナイル(ラス・ビハリ・ボースの同志)が開いた銀座のカレー店を訪れ、カレーを食べながら、往時の思い出話をしていた、ともいう。

▼晩年は、心筋梗塞に悩まされ、1970年没。激動に彩られた74年の人生を終えている。インドは余りにも遠く、そしてインドは時空を越えて、なお近い。

増田経済研究所 日刊チャート新聞
編集長 松川行雄


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