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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第339回・絶対絶命 その3〜天下分け目・関ヶ原の実体(前編)

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【閑話休題】第339回・絶対絶命 その3〜天下分け目・関ヶ原の実体(前編)

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2014-12-12 15:25:00]

【閑話休題】第339回・絶対絶命 その3~天下分け目・関ヶ原の実体(前編)

▼「孫子」の兵法では、一番最初の「始計編」で、「兵は詭道(きどう)なり」とある。「戦略の要諦とは、敵を欺くことだ」と解する。それは、敵の心理をコントロールすることだ。古来、武将は「孫子」を読むことしきりだったが、武田信玄はその中にあって、もっとも忠実にして優秀な生徒だったといっていい。

▼持ち前の勉強好きもあって、「孫子」をそのまま実践し成功した典型的な武将の一人が、信玄である。「兵は詭道(きどう)なり」の後には、次のように続いている。

(現代語訳)
「・・・たとえば、可能であるのにできないフリをし、重要なことを不要であると見せかける。遠ざかると思わせて、接近し、接近すると予覚させて、実は離れる。有利と判断させて誘い出し、混乱させて撃破する。・・・敵の弱みにつけこみ、意表を衝く。これが要諦である。」

「孫子」の著者と言われる孫武は、紀元前500年ごろに「呉」の将軍に推挙された。隣にある強国「楚」の力を削ぐため、国境に何度も偽りの奇襲を繰り返す。楚軍が駆けつけると、すでに呉軍は撤退している。この孫武による揚動作戦で、楚は厭戦気分が蔓延し、思考も混乱、判断が鈍る。
これなどは、「絶対絶命 その1」で紹介した、三増峠合戦の信玄のやり方そのものである。

▼挙句の果てには、孫武は、いざ決戦という段になると、楚軍が完全防備を構えた陣地に突撃すると見せかけて、なんと素通り。楚の首都に直行する動きに出た。狼狽した楚軍は、陣地から出場。ところが、強行軍で疲弊してしまい、用意万端整え、待ち構えていた呉軍(それも楚軍より遥かに少数であった)に、完敗してしまう。これなどは、「絶対絶命 その2」で紹介した、三方ヶ原合戦そのものである。

▼強いて言えば、信玄は秀才であって、天才ではない。定石の人なのである。だから、定石の通じない相手では、苦労する。最たるものが上杉謙信であろう。馬上で、青竹一本を振り回し、行軍中に、誰は先鋒、誰は右翼から回りこんで衝け、といったように自在に振れ回る。布陣などせず、状況を見ながら、臨機応変にどんどん命令を発していくようなスタイルの謙信に、秀才の信玄はただただ手をこまねくことしきりだ。どうしても、勝てないのである。引き分けがいいところだった。

▼不期遭遇戦となった第四次川中島合戦でもそうだった。視界10mという状況下、思いもかけずに激突した際、信玄は定石通り、近隣の横田砦や別働隊が集結している海津城との連携・合流を図って転進する。しかし、方向転換した甲軍を見て、謙信はここは千載一遇のチャンスとばかりに、しゃにむに総攻撃を命じる。軍団編成などどうてもよい。機に乗じるのが最良である。視界不良の中の乱戦だが、勢いがすべてだと信じる謙信は、自軍の損耗率など一顧だにせず、攻めたてる。当たるを幸い突きまくれと号令する。結果、甲軍は惨憺たる被害を得、転進どころか後退につぐ後退。タイムリーに出張ってきた別働隊の横槍が入らなかったら、壊滅の憂き目に遭っていたことは間違いない。

▼また逆に定石に通じた相手でも苦労する。北条氏康がそうである。甲府を経って以来、実に手のこんだ回りくどい遠征を行っては、氏康の思考の混乱にこれつとめたが、そこは氏康。ハナから、これは信玄特有の揚動戦だと見抜いていた。だから氏康は動かなかった。信玄もまた、氏康が動かないことを逆に見抜いていた。長期の遠征過程の大部分は、信玄によるさまざまな揚動が繰り返されものだったが、氏康を誘い出すことができない。狐と狸の腹の探り合いが続いた。

▼最終局面、それも厚木近辺から、いきなり小荷駄(兵糧)を放棄し、慌てふためいたような偽装を行いながら、強行軍に転じ、三増峠を目指したあたりで、ようやく氏康の定石判断を振り切ることに成功する。あの一日のタイムラグ、いや半日でも良かった。そのわずかな時間差を作り出せるかどうかが決め手だった。定石を熟知した者同士の勘ぐり合いの末、わずかに皮一枚だけ、信玄が土壇場で上手をいったという、きわめて際どい戦(いくさ)だったといえる。

▼謙信や氏康に比べれば、当時の徳川家康ごときは、しょせんアマチュア・レベルでしかない。信玄によって「孫子」を地でいった陽動戦の妙というものを、いやというほど思い知らされたまだ未熟な32歳の家康は、その後これを自家薬籠中の物として、天下分け目の関ヶ原合戦に結晶させていく。すでに家康はこのとき、五十七歳。信玄の享年を上回っており、長い歴戦の末、老獪さが成熟の域に達していた。

▼さて、そこで関ヶ原である。ところがこの関ヶ原合戦、実は天下分け目でもなんでもなかった。結果的には、明らかに家康の天下取りの分岐点となる重要な合戦になったが、実は合戦前までは、まったく戦争の性格が異なっていた。江戸幕府成立以降、家康を神格化するために、さまざまな軍記物が書かれ、時代を追うに従って、「見てきたような嘘」が、歴史の事実の上に塗り重ねられていった。

▼およそ、映画やドラマで演じられる関ヶ原合戦とは、似ても似つかぬ実相をここで見てみよう。まずは、1600年の関ヶ原合戦から20年以上経過した後に書かれたあらゆる軍記物の内容を、すべて頭から削除する必要がある。真っ白な頭で、一次資料、つまり、当時、現場にいた人間たちの書簡や公文書上の命令発給の事実などから、パズルを組合せていくよりほかない。

▼通説では、ざっとこんな流れである。

(会津征討と小山会議)
上杉景勝が会津で謀反の疑いをかけられる。家康は、豊臣政権の代表として、会津征討軍を率いることとなった。ところが、関東にまで来たところで、大阪では、家康を憎む石田三成が、毛利輝元を総大将に立てて、家康追討の兵を挙げる。この石田・毛利連合政権は、正式な手続きを経て、家康を政権から追放し、すべての役職を剥奪する。

(反転、関ヶ原へ)
窮地にたった家康は、下野・小山にて配下の諸将を前に名演説をぶつ。豊臣恩顧の武将たちは、これに呼応し、これまた感動的なセリフを乱発して、一丸となって、「石田三成こそ逆徒である」と一致団結。会津行きを中止し、反転して大阪を目指して東海道を攻め上る。

(吉川と小早川の裏切り)
関ヶ原で決戦となるが、南宮山上に待機していた石田方の主力・毛利勢は、山麓にいた吉川広家が寝返って、毛利の戦線参加を阻止。さらに悪いことに、濃尾平野~関ヶ原と、近江・京阪とを結ぶ結接点にあたる要衝、松尾山に陣取っていた西軍の一方の主力小早川秀秋も、家康に寝返った。

(家康の「問い鉄砲(といてっぽう)」)
当初、小早川は土壇場になっても、西軍を裏切るか、どうしようかと逡巡し、合戦が始まっても去就が定まらなかった。業を煮やした家康が、強引に小早川陣に向かって射撃(砲撃とも)をして恫喝。これが有名な家康の「問い鉄砲」。慌てた小早川はついに意を決して、山を駆け下り、石田の盟友・大谷勢に襲い掛かる。これがきっかけで、腹背を挟撃された西軍は総崩れとなり、家康の東軍は圧勝するに至る。西軍最大の主力である毛利勢は、麓の吉川勢がいっかな動こうとしないので、本戦が始まっているのは、鬨の声(ときのこえ)や銃声が聞こえているのに、どうにもできなかった。吉川に動けと催促するが、意味不明のまま吉川は最後まで不動。これで毛利勢はあたら大軍をもてあましたまま、山上で終戦を終え、石田・宇喜多らの窮地を救うことができなかった。

▼ところが、有名な小山会議は、実際のところあったかなかったかわからない。関ヶ原本戦の序盤、石田勢や宇喜多勢の奮戦、あるいは小早川(西軍)がなかなか裏切らないので、催促するための問鉄砲(といでっぽう。いずれも、およそ一次資料ではまったく確認されていない。無かったと考えるよりほかない。関ヶ原合戦には、最初の家康・会津征討軍の大阪出発から、最後の関ヶ原まで、手に汗を握るようなさまざまな名場面が数多くちりばめられている。が、そのほとんどは、無かった可能性が高いのだ。

▼では、一体、関ヶ原ではなにがどうなっていたのか。それを確認できる事実だけで見直してみようというのだ。

▼そもそも、東軍、西軍などという呼称は当時無かった(一応ここでは便宜的に、東軍・西軍と呼ぶことにする)。本質は、豊臣恩顧の武将たちの間の「私戦」である。家康は、これを利用して豊臣政権内で、圧倒的な優位を得ようとするのが目的だった。実際、豊臣政権そのもの(豊臣秀頼、淀君)は事態を静観しており、ほぼ中立だったといっていい。石田三成の再三の催促にもかかわらず、秀頼は出馬していないのである。

▼関ヶ原合戦は、豊臣対徳川ではなく、本質は石田(文治派)vs黒田・福島ら(武断派)という、豊臣恩顧の武将たちの間の、長年にわたる因縁の権力闘争にすぎなかった。石田三成は、これを家康という逆徒の反乱であり、この討滅に大義をすり替えようとした。家康は、秀吉の死後、ことあるごとに法度(はっと)を破って、どんどん各地の有力武将たちと婚姻関係を結び、政府の許可無く勝手に談合(同盟)を進めていったのだ。だから、石田にしてみれば、家康がやがて豊臣政権を乗ッ取るつもりだと見抜いていた。

▼一方家康は家康で、この戦いはあくまで豊臣政権内の私戦であり、反石田三成派を支援するという立場を貫いた。いや、そうせざるを得なかった。天下を取るために日本中を敵に回せるほど、家康にはまだ力が無かったからである。戦後、結果的に家康が事実上の執政権を得たにすぎない。

▼もともと秀吉の存命中から、石田三成ら文治派の武将と、加藤清正・福島正則・黒田長政・細川忠興ら武断派の武将は、ことごとに対立してきた経緯がある。幾多の背景については、ここでは割愛する。秀吉死後、両派の対立は深刻なものとなり、関ヶ原直前には、加藤ら武断派が、石田邸を襲撃・殺害せんとするような事件にまで発展。石田三成は辛くも危機を脱して、何と自分が敵視する家康に救いを求めるという一幕もあった。

▼この一件が、豊臣政権内における家康の存在感を、非常に際立たせる結果になったことは皮肉である。家康は、両派の衝突を仲裁する格好で、裁定を下す。三成には佐和山城にて謹慎蟄居の沙汰で、一件落着させる。奉行職の解任である。これで最も自分を忌み嫌う男を、政権から追いだすことになった。

▼かねてから、石田三成は、武断派との確執はさておき、むしろ愁眉の問題は、家康が着々と実力を蓄え、東国を中心に全国規模で指導力を高めているということだった。放置しておいてはまずいと、言いようの無い危機感を募らせていたのだ。

▼家康は、こうした石田三成を最大の障害と認識していた。この石田vs武断派、石田vs家康という二重の確執は、はからずも武断派と家康が接近するという事態に発展する。武断派と家康の間を取り持ったのは、ほかならぬ秀吉正室・ねねであるという説が有力である。家康がその後のねねに対してことのほか厚遇を尽くした点からも、ほぼ確実な線であろう。

▼実は、後に出てくる小早川の造反なども、ねねが明らかに糸を引いている。豊臣恩顧の武将たちは、秀頼への忠義はもちろん厚い。しかし、その実母・淀殿と、秀吉の正室だったねねを天秤にかければ、ねねの判断に従うのが自然であろう。加藤・福島といった武断派の武将たちは、幼少期から秀吉に半ば拾われ、可愛がられ、ねねを実母のように慕ってきた。彼らにしてみれば、石田は憎し、しかし淀殿をないがしろにするわけにいかず、去就に迷う。淀殿は石田に全幅の信頼を置いていたからである。そこに「家康に加担せよ」、と彼らの背中を押したのは、間違いなくねねである。

▼ねねにしてみれば、側室の淀殿が秀頼の実母として権勢を振るっていたことに、腹立たしいおもいであったろう。あるいは、どうでも良かったのかもしれない。そもそも、ねねは秀頼とそう近くはなかった。当時の常識として、側室が産んだ男子でも正室がそれを取り上げて育てた。ところが、淀は秀頼を離さず、自らの下で養育していた経緯がある。ねねにしてみれば、秀頼にそれほどの思い入れは無かったと推察する。(そもそも、秀頼が秀吉の子であることには、ねねは恐らく相当疑義を感じていたはずである。)

「この天下は、秀吉とわたしが二人で築いてきたのだ。秀吉無き後、わたしも老いた。実子もいない。もはや思い残すことなど何も無い。この後、豊臣の天下がどうあれ、知ったことではない。天下を治める資質のある者に託していけばよい。秀頼では無理だ。石田も優秀だが、器量が不足。好き嫌いはともかく、徳川殿以外に託すに足る人物はおるまい。」

そういうことだったのではないだろうか。
だから、ねねは、関ヶ原合戦前に、大阪城内の居所であった西ノ丸から退去して、京都新城へ移っている。西ノ丸には家康が入っていることからみて、事実上ねねは石田ら豊臣政権主流の反対を押し切って、西ノ丸を家康に譲ったものと考えられる。

▼ちなみに、ねねは、正式な名がわからない。当時の書簡などには、「おね」「ねね」「ね(祢)」「ねい(寧)」「ねいこ(寧子)」「ねい(子為)」とさまざまな呼称が確認されており、定説は無い。

▼慶長五年・1600年、東北で上杉景勝が、石田三成と謀って家康討伐を画策する。これには、常陸・佐竹義宣も加わっていたとされるが、まだ論議を呼ぶ点がかなり残っている。グランドピクチャーは、東国で上杉・佐竹が起ち、大阪で石田らが起ち、信州では真田昌幸が起ち、と三方から家康を包囲殲滅するという計略であったと言われる。

▼実際のところ、上杉景勝が本気で反旗を翻すつもりであったかは微妙である。もし本気であったなら、その後の行動は不可解極まりない。家康が、関ヶ原に向かったところで、がら空きの江戸に一気に侵攻すべきであったろうが、それをしなかった。

▼確かに、佐竹義宣は石田と懇意であったから、反家康で起とうとした。しかし、隠居こそしていたが、佐竹氏をここまで大きくしてきた先代・佐竹義重や重臣たちの猛反対で、断念した。上杉が、会津の所領が焦土と化しても、家康を討つべしと覚悟していたのであれば、佐竹無しでも、関東に侵攻していたはずである。そして、瞬時に関東を制圧できたであろうから、そうなれば佐竹もさすがに動いた可能性が高い。

▼もしかすると、家康はほぼ濡れ衣状態の上杉景勝を「叛意有り」と決め付けることで、征討軍を召集し、そこで豊臣恩顧の武断派の軍勢を自分の指揮下に組み入れるために、会津征伐をもくろんだのかもしれない。その目的は、所領の佐和山城に謹慎させられた石田三成に大阪で家康追討の兵を挙げさせるための、格好の餌だったのかもしれない。つまり、家康が大阪を離れたところで、石田に「今がチャンス」と思わせるということだ。石田にしても、対立する武断派と敵視する家康を、一網打尽に葬り去るには今を置いてほかに無い、と判断したのだろう。しかし、それは家康の壮大な罠だった。

▼だから家康は上杉が関東に侵攻をしてきたとしても、それには構わず関ヶ原合戦に望むつもりでいた可能性が高い。江戸など蹂躙されても構わないのだ。関ヶ原で勝ちさえすれば、大阪城に入ることができ、石田・毛利連合政権に代わって、正式な執政権を獲得することができる。そうなれば、上杉は完全に逆徒となる。伊達政宗はすでに徳川と縁戚を結んでおり、南北から関東に入った上杉を挟撃できる。少なくとも、家康には江戸を焦土にしても、これを振り切って関ヶ原で決戦する覚悟があったであろう。

▼逆に上杉には会津を捨てるほどの覚悟は無かったということになる。あるいは、上杉には、もともとそこまで家康と武力衝突するつもりなど無かった可能性もある。だから、家康が征討軍をぶち上げてしまったため、やむなく抗戦という選択を取ったということかもしれない。いずれにしろ、この覚悟の差が、決定的な勝敗を決する分岐点になった。

▼慶長5年1600年6月16日、家康の会津征伐軍は大阪を出立。7月2日には、江戸城に入る。同日、大阪では、いわゆる西軍の主戦力の一角となる宇喜多秀家が挙兵。17日には、毛利輝元・石田三成が挙兵。その事実をまだ知らない家康は、全軍で21日に江戸を出発、会津に向かう。そして24日、下野(しもつけ)の小山で、西軍挙兵の報せを受ける。伏見城に残った家臣・鳥居元忠が、連絡してきたのである。

▼鳥居は、家康が会津征伐に向かえば、石田三成の画策で、家康追討のための兵乱が起こることを重々承知していた。家康は、石田らが兵を挙げれば、最初に関西における家康の唯一の居城である伏見を攻撃するとわかっていた。できるだけ時間を稼ぎ、西軍が畿内から東海へと出張ってくるのを引き留めておくため、全滅覚悟の守備隊を伏見に配置する必要があった。だからこそ、徳川家臣団の中で、絶対忠義の鳥居に後事を託したに違いない。それは死を意味する。鳥居はこれを受け、その期待に応えた。

▼毛利輝元を総大将とする西軍は、「内府ちがひの条々」を全国に発し、家康が私利により政権を専横しようとしていると弾劾。挙兵の大義を、逆徒・家康の鎮圧に絞った。が、10万に上る西軍とはいえ、中身はまったく一枚岩ではなかった。

▼実際、薩摩の島津義久は、畿内で家康の出陣を見送った折に、じきじきに家康から、伏見城の防衛を頼まれている。島津はその要請に応えて(つまり東軍側に立ったわけだ)、伏見城の鳥居に合流すべく赴いたが、どういうわけか鳥居はこれを拒否。鉄砲で撃ちかけて、島津勢を寄せ付けなかった。

▼鳥居の本音としては、全滅という衝撃的な事実は、徳川直臣でなければ効果的ではないということをわかっていた。これが一つ。もう一つは、その後に起こる、東西両軍の激突において、島津のような強兵が徳川方ついて奮戦してくれることのほうが、ここで自分たちといっしょに全滅して捨て駒になるより、遥かに有意義であるという算段もあったろう。皮肉なことに、鳥居に入城を断られた島津勢は、西軍の真っ只中に取り残される結果となり、やむなく不本意ながら、西軍に組せざるをえなくなった。

▼一方、挙兵した石田三成は、ここで大失敗をしている。大阪に在番していた会津征討軍武将たちの妻子を人質に取ろうとしたのだが(当然会津征討軍を、家康直下の軍団と豊臣恩顧の武断派とに分裂させるためである)、7月17日、細川邸を襲った際、焼き討ちに発展し、細川忠興正室たま(ガラシャ夫人、明智光秀の娘)を自害に追い込んでしまったのである。(キリシタンなので、正確には自害ではなく、家臣に殺害されている。)

▼この報せはただちに会津征討軍にもたらされ、武断派諸将を痛憤させる結果となり、むしろ逆効果となった。世に言う小山会議など必要なかったのである。実際、当時現場にいた人間たちのいずれの書状、公文書発給にも、小山会議のことは一切触れられていない。つまり後世の創作である可能性が高い。もしあったのなら、会津征討から、石田討伐へと軍事目的を変更する重要な軍議である。連署による書状が一通も残っていないということは、ありえない。したがって小山会議は無かった。武断派は「三成を討つべし」と激昂しており、会議の必要など無かったのである。

▼家康は、これを最大限に利用し、武断派を先鋒に、大阪へと進路を転換する。石田と武断派の確執を、武力衝突へと発展させたのである。すでに、毛利・石田らは先の「内府ちがひの条々」によって、正式に家康のすべての役職を剥奪しており、家康は公式には完全に無頼の徒となっている。会津征討軍の指揮権も剥奪されている。

▼家康としては、自ら先頭に立つ事は得策ではなかった。それでなくとも、会津征討軍の中にも、家康に組すべきか否かで、悩んでいるものは多かった。したがって、できるだけ石田と武断派の「私戦」ということで、事態を押し切っていく以外に無かったのである。自分は、ただ、武断派に組するという立場である。あくまで豊臣政権への謀反ではないということだ。

▼家康は、加藤・黒田・福島ら武断派の軍勢を大阪に向けて進発させ、自らは江戸城で軍を仕立てなおした。秀忠には3万7千の軍勢を預け、中山道から関ヶ原方面に進路を取らせた。全軍の三分の一という大軍である。自らは残軍を率いたわけだが、すぐに江戸を出たわけではない。上杉・佐竹の動きを伺っていたことと、なにより、自分が前面に立ってはいけなかったのである。あくまで、豊臣家臣団の「私戦」でなければならなかったのだ。

▼7月18日、宇喜多・小早川・島津の大軍4万に包囲された伏見城。西軍は、鳥居に降伏勧告を行うが当然拒否。19日から戦闘が始まる。激闘の末、8月1日に陥落。鳥居以下1800人は玉砕している。石田は、篭城戦の長期化に苛立ち、またもや城内の甲賀衆の妻子を人質にとり、投降しなければ処刑すると恫喝している。これに応じた甲賀衆の造反がなければ、もっと鳥居の抵抗戦は長引いたはずである。また、島津など典型的だろうが、そもそも伏見城を攻撃することに関して、まったく戦意のない軍勢も多く、これも陥落が長引いた要因でもある。

▼当初、石田は、急速に近江から濃尾平野に入り、できれば、尾張・三河にまで進出して、決戦する想定をしていたが、伏見城の戦闘が長引いたこともあって、計画がズレていく。もともとは、石田が信州・真田昌幸宛ての書状に、「尾張と三河国境付近で東軍を迎撃、背後より上杉・佐竹軍と挟撃することで勝利をする目算。」としているから、この戦争計画は確かにあったと思われる。そのため早急に美濃・伊勢を平定して尾張になだれ込む必要があった。

▼最大の誤算があったとすれば、上杉の関東侵攻が無かったことである。家康は、アンチ豊臣を内に秘めていた伊達政宗・最上義光らが、上杉と戦闘状態に入ることで、上杉を会津に足止めさせる手を打っていた。また、仮に、伊達・最上勢を振り切って、会津が敵に欲しいままに蹂躙されるのを捨て置いたまま、上杉が関東に強行南下し、佐竹と連合して江戸城を攻めた場合には、中山道の秀忠軍を取って返す予定でいたはずである。

▼よく、関ヶ原本戦に、秀忠軍が完全に遅参したことに激怒した家康が、諸将の前で秀忠を面罵・叱責したという話が伝わっているが、もし本当であったとすれば、それは演出にすぎない。そもそも、決戦場が関ヶ原と決定した日時から、中山道を進行中の秀忠に連絡しても、まず物理的に、時間的に間に合わず、計算が合わない。

▼家康は、ハナから秀忠軍を関ヶ原で必要としてはいなかったと考えられる。しかも、秀忠に託したのは、徳川総軍のうちでも、主力・精鋭ぞろいである。むしろ、関東の押さえにいつでも転進させることができる状態のほうが都合が良かったはずだ。ただ、まさか真田が立てこもる上田城一つに三万もの大精鋭軍が1ヵ月近くも釘付けになるとは、予想もしなかったであろうが。

▼一方西軍だが、10日余り、伏見城で足留めを食った遅れは、最終的に致命的なものとなる。西軍が大垣城に入ったのは、8月10日である。一方、東軍・武断派の先鋒隊は、同じ頃にすでに木曽川を超えており、石田は当初の挟撃作戦を撤回せざるをえなくなる。14日には、この東軍・先鋒隊は清洲城に着陣している。まだ家康はこのとき江戸にいる。

▼ここで黒田・福島・加藤ら武断派諸将1万8千は、家康の本隊が一向に江戸を出発しないことにいらだつ。軍記物では、そこで家康が軍監を発して、督戦したことになっているが、事実は不明である。いずれにしろ、ここで家康が伝えた内容がきっかけとなって、先鋒隊は堰(せき)を切ったように快進撃をはじめる。開戦は、あくまで豊臣恩顧の武将同士(石田vs加藤ら)で行われなければならなかった。家康になんの大義も無かったからである。家康が何を伝え、何が先鋒隊を一気に攻撃態勢に仕向けることができたのか、これは未だに謎である。伝えられている軍記物のエピソードを鵜呑みにするわけにはいかない。

増田経済研究所 日刊チャート新聞編集長
松川行雄


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