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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第340回・絶対絶命 その3〜天下分け目・関ヶ原の実体(後編)

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【閑話休題】第340回・絶対絶命 その3〜天下分け目・関ヶ原の実体(後編)

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2014-12-12 15:30:00]

【閑話休題】第340回・絶対絶命 その3~天下分け目・関ヶ原の実体(後編)

▼またこの間に(家康が江戸に留まっていた間に)、きわめて重要な第二の決定打が放たれている。小早川秀秋と吉川広家(毛利勢)の内応工作(裏切り・造反)である。主に内応工作は恐らくは「ねね」の意を受けた黒田長政が行っている。そして、ほぼこの過程で、小早川・吉川の造反は固まったと考えられる。

▼黒田は、豊臣恩顧の武将であり、秀吉の子飼いである。例の黒田官兵衛(如水)の倅(せがれ)である。従い、毛利・吉川にしろ、小早川にしろ、黒田の工作は家康のそれよりも有効であったろう。この内応工作が成立したのは、吉川の書状に、それまで「家康」と呼び捨てにしてあったものが、「内府殿」と言ったような名称に切り替わっているタイミングと推定される。従って、8月終わりから9月初旬という、まさに関ヶ原直前の時点である。その意味では、家康はまさに薄氷を踏むような大博打を打っていたわけだ。

▼当時家康は、吉川造反に疑心暗鬼だったフシが伺えるが、黒田はこうした家康の不安を意に介していない。黒田には絶対の自信があったようだ。いずれにしろ、家康は小早川・吉川二人が造反するということを、信じ切ることはできなかったのだろう。土壇場でなにが起こるかわかったものではない。それだけに、戦闘開始は、あくまでも武断派が行わなければならなかった。会津征討軍の指揮権を剥奪され、豊臣政権内では公儀から追放処分を受けてしまった家康が率先して戦えば、豊臣政権そのものに反旗を翻したことになる。

▼8月23日、先鋒隊は西軍方に組していた岐阜城を陥落させる。この段階にいたって、初めて家康は3万を率いて江戸を出発する。「私戦」が始まったのである。もはや、家康は、タイミングを待つ必要が無くなった。豊臣恩顧の武将同士の衝突である。家康はその片方に加勢するだけのことだ。大義名分は十分立っている。「治安の回復」である。上杉もどういうわけか、関東乱入をせず(佐竹が結局組しなかった)、最上領へと矛先を変えている。家康は、ついに動いた。決戦である。

▼西軍は大垣城を本陣として、東軍の迎撃体制を構えようとしていた。ここに最大の謎がある。石田は、9月14日夜8時ごろ、大垣城を引き払い、後方にあたる関ヶ原(当時は山中と呼んでいた。正確には現在の関ヶ原よりもっと奥である)に急速後退しているのだ。

▼ここで、軍記物では、石田・宇喜多・島津の諸将の間に意見衝突があったとか、島津はこれで石田と共に戦う気が失せたとか、いろいろ伝えているが、どれ一つとっても、当時の一次資料には見当たらない。

▼事実であろうとみなされるのは、後に西軍から東軍に造反する毛利軍揮下の吉川広家の自筆の書状である。関ヶ原本戦( 15日)の直後、17日の書状だが、そこで広家は「小早川秀秋は、逆意が早くもはっきりする状況となったので、大垣衆(西軍)は、山中(関ヶ原)にいる大谷吉継が危うくなり、大垣を引き払い、移動した。近江の第二防衛線のことを考がえてのことだったろう。」となっている。おそらくこれが、真実であろう。つまり、すでに合戦前から、小早川の裏切りは、噂や観測の域を超える状況となっていたということだ。

▼この14日、すでに家康は先鋒隊に合流していたが、石田ら本陣の大垣城には向かわなかった。いきなり関ヶ原を目指したのである。いわば、大垣素通りである。かつて、信玄に浜松城を素通りされたのと同じパターンをここで使ったことになる。そして、街道に乱破(らっぱ、工作員)を放って風説を流布する。いわく、「東軍は佐和山城を目指す。」と。

▼佐和山城は、琵琶湖畔にある石田の居城だが、ここが落ちれば、そのまま京都・大阪への最短コースになる。そこに、西軍のはずの小早川勢が東軍に寝返りつつある、というかなり確実な報告が入ったに違いない。小早川造反の情報を、家康が敢えて流したことも効果を持っただろう。

▼そしてこの小早川勢こそ、佐和山城(近江)と関ヶ原(濃尾)を通行できる唯一の結接点、松尾山に布陣していたのである。この要衝を押さえていた小早川勢が東軍に寝返ったということは、西軍にとって最終防衛ラインの佐和山城への後退ルートが遮断されたことになる。

▼家康としては、小早川の造反の確証を得たところで、わざと西軍を関ヶ原に誘導したのである。それには、自分たちが大垣城を素通りする(佐和山城に一気に東軍が進行すると見せかける)ことと、関ヶ原は松尾山に陣取る小早川勢が、ふもとの大谷勢(西軍)を攻撃する危険が高まっているという情報による扇動の二つが必要だったのである。

▼この二つの陽動作戦によって、西軍はまんまと大垣城を捨てさせられ、小早川勢にいまにも蹂躙されかねない大谷勢の救援に向かったのである。この家康の陽動に乗せられた西軍は、ただちに関ヶ原に後退したが、完全に自ら死地に飛び込んだも同然であった。彼らは、もう一つ知らない事実があったからだ。

▼関ヶ原の前面(東)にある小高い山(南宮山)には西軍主力の毛利軍が陣取っていた。これがあるために、安心して石田らは急遽、大垣を引き払って、関ヶ原の奥にいる大谷勢の救援に向かうことができたのである。自分たちが、大垣城を捨てて関ヶ原に急行・後退しても、最大主力の毛利勢が南宮山で踏ん張っている限り、東軍はこれをも素通りして関ヶ原にまで進軍することはできまい。そんなことをすれば、逆に毛利勢と石田・宇喜多勢らに腹背から挟撃されることになる。石田らの判断はこういうことだったろう。しかし、この毛利は、どうにも戦闘に参加できない状態になっていたのである。

▼家康の諜略によって、南宮山の山麓に陣を構えていた吉川広家は、すでに家康に造反していた。山頂の毛利輝元はそれと知らなかったが、吉川隊が動かなければ、毛利軍は山を降りることができず、戦闘にも参加できない状態にあったのである。この家康の諜略により、石田・宇喜多・島津らは、主力の毛利を欠いたまま、造反した小早川隊を前面に、そして背後からは急速進軍してくる東軍全部隊と、腹背に挟撃される格好になってしまった。

▼家康は、小早川・吉川が内応したことで、後顧の憂いなく、一気に石田・宇喜多勢らを、関ヶ原奥に追い込んでいくことができた。諜略と揚動が見事に噛み合い、関ヶ原合戦の終盤はまさに瞬殺に近い状況となっていく。

▼この最終局面において、諸説あるが、私見では積算すると東軍の動員兵力は8万9千人。一方見かけ上、西軍の動員兵力は8万3千人。ほぼ互角である。しかし、小早川勢が東軍に序盤から加担しているので、実際には東軍は10万4千人に及んだはず。一方西軍は、この小早川を失っており、吉川が動かず、結果、毛利も参戦できなかったわけであるから、実質、5万人と、東軍の半分にも満たない。それが狭隘な関ヶ原一帯で腹背に強襲されたのであるからたまらない

▼一般に流布している関ヶ原合戦布陣図などというものは、後世のつくりもので、西軍には明確な布陣などしている暇はほとんど無かったはずである。関ヶ原に到着したものの、危機に瀕した大谷勢を救援するため、石田・宇喜多・島津勢らは現地に到着したもつかの間、いきなり小早川勢の強襲に遭遇し、そうこうしているうちに、背後から東軍が一気に攻め寄せたようだ。

▼軍記物では、関ヶ原本戦が始まったのが朝8時。昼ごろになってもなかなか小早川が裏切らなかったとされている。小早川が西軍の右翼・大谷勢を攻撃しないのに業を煮やした家康が、鉄砲隊(あるいは大砲とも言われる)を松尾山の小早川勢に打ち放ち、慌てた小早川勢が山を駆け降りて、大谷勢を圧倒し、西軍が総崩れになったということになっているが、おそらく違う。

▼実際には当時の一時資料からは、ほぼ戦闘は10時に始まっており、開戦と同時に、というよりまさに小早川勢の大谷勢攻撃そのものが、開戦の火蓋を切ったものだったことがわかる。つまり、関ヶ原合戦というのは、軍記物で語られているようなさまざまなエピソードが介在するような余地はない。ほとんど瞬時に勝敗が決したものと推定できる。

▼15日未明、東軍は関ヶ原前面(東)に急進。これより先んじて近江(佐和山城)への道のりの接合点である関ヶ原切所に、西軍は到着していた。通説では9月4日に松尾山山麓に着到していた大谷勢だが、実際には14日の可能性が高い。つまり、関ヶ原本戦の前日である。

▼着陣したばかりの大谷勢に向かって、小早川勢が襲い掛かるという情報がもたらされたため、西軍は大垣城を捨て、強行軍で大谷勢救援のために関ヶ原に急行したのである。15日、大谷勢と石田・宇喜多勢ら西軍は合流する。この段階で、後ろから急進してきた東軍は一気に攻め立てており、同時に松尾山の小早川勢も、呼応したか、あるいはそれより早く大谷勢に攻めかかったということになる。

▼少なくとも、当時現場にいた武将たちの書状からは、こういう事実しか出てこない。そして、当時日本にいたバテレンのフロイスも、ローマへの報告書に、「関ヶ原での戦いは、西軍の味方と思われていた、太閤秀吉の甥(小早川秀秋)など何人かが裏切った。戦いが始まったと思うまもなく、この裏切りが起こったので、西軍の中には叫喚が起こり、陣列の混乱が続いた。短時間のうちに西軍はなぎ倒され、東軍が勝利を収めた」と書いている。同時代の武将たちから聞いた話をそのまま報告しているのであろう。

▼従って、戦闘終盤、あまりにも有名な島津兵の退き口(のきぐち)と呼ばれる、「敵中突破」も、軍記物で言われているようなものではないはずだ。通説では、石田と仲たがいした島津は、開戦当初から戦闘に参加せず、石田の使い番が「戦え」と督戦してきた折に、鉄砲隊で追い返した、という話になっている。そして西軍があらかた敗退した末期に、ただ一隊、戦場に無傷で残存していた島津勢は、にわかに密集隊形で突撃を開始し、家康本陣手前で進路変更し、南へ逃走したということになっている。

▼しかし、先述のような瞬時に西軍が壊滅したのが事実であったとしたら、島津勢はこのように呑気に、戦闘の趨勢が定まるまで動かなかったということはありえない。敵中突破は間違いなくあっただろう。追撃した家康直臣・井伊直政は、このときに島津兵の銃撃によって重傷を負い、その傷が元になって後に死亡している。島津にはほかに選択肢など無かったのだ。そして、開戦と同時に西軍は総崩れとなり、大混乱の中、島津勢は全力で死中に活を求めたのである。

▼軍記物のような悠長な状況ではなく、それ以上に悲惨にして苛烈なものであったろうと想像できる。石田らの戦闘を傍観していたりするような時間的余裕などなく、迫り来る東軍と、造反して攻めたててくる小早川勢の間で、急遽敵陣の正面突破をせざるをえない緊急切迫した状況だったということだ。

▼そもそも、あの島津である。いかに石田と戦術面での確執があったとはいえ、またそもそも西軍に組したことが不本意とはいえ、一度は覚悟を決めて西軍とともに歩んできたのである。本戦を前に周囲の激戦を見ながら、傍観するなどということは、島津の資質として考えられない。それが不利益と思っても、義を貫いたはずである。ただ、開戦と同時に西軍の敗退がほぼ決定的となったと見て、もはやこれまでと、これまた瞬時に戦線離脱を試みたのであろう。そもそも本来ならば東軍にいるはずの島津勢である。いかに行きがかり上とはいえ、西軍の負けと決まった戦で、全滅するまで戦う義理はさすがに無い。

▼当日は、視界20mという濃霧で視界がきわめて悪かった。従って、雪崩のように崩壊していく西軍の阿鼻叫喚の中でなされた島津の敵中突破は、われわれが想像する以上に、誰が誰かも正確にはわからないという状況の中での乱戦、地獄絵図だったろう。

▼ちなみに、16万もの軍勢が激突した関ヶ原合戦だが、戦死者数はこれまた諸説あってよくわからない。本戦から5日後、9月20日の関白・近衛前久(さきひさ)の書状には、4000-5000人死亡となっている。今のところ一番現実的だとされているのが、6000-8000人の死亡というものだ。動員兵力総数対比では5%にすぎない。天下分け目とはいいながら、あまりにも瞬時にして一方的に勝敗が決してしまったので、戦死者数も実はそれほど多くない。

▼余談だが、関ヶ原本戦に東軍として参加した黒田長政の父・官兵衛(如水、孝高・よしたか)は、このとき九州の所領から東軍側に起って挙兵している。家康に、「切り取り次第」を要求しており、家康は了承している。これで大暴れしていたわけだが、如水自身は東西両軍の戦争は、長期化すると読んでいた。最終的な決着がつくまで、1年はかかると考えていたようだ。それほど東西の勢力は計量的な数値で測れる限りにおいては、拮抗していたのだ。ところが、あっけなく終わってしまったことで、本人はまったくアテがはずれてしまったようだ。如水ほどの男が読み誤るくらいである。関ヶ原における家康の揚動戦は、相当のものといっていいだろう。

▼家康の読みは、最初から最後まで、ものの見事に図に当たった。たしかに博打ではあった。もし、上杉・佐竹が江戸に侵攻していたら? もし西軍が伏見城を置き去りにしたまま、一気に尾張方面に進行してきていたら? もし、小早川と吉川が造反しなかったら? 違ったシナリオは確かにいくらでもありえたのである。

▼おそらく家康のことだ。その場合、二の手、三の手を用意していたことだろうが、それにしてもぎりぎりの選択をして行ったことになる。こうしてみると、一見、完全に袋のネズミと化していた家康が、周到に事態を大逆転させたのは、見事というしかない。しかし、それもこれも、最初の会津征討軍の結成段階で、一見自らを絶体絶命の死地に置くように見せかけ、石田三成に「チャンス」と思わせ挙兵させるという、実は家康の壮大な揚動戦が始まっていたのだとすれば、生涯の師でもある信玄すら舌を巻くような完成度である。

▼思えば二十六年前、三方ヶ原では、猫が小動物をいたぶるように、さんざん信玄に翻弄され、完膚なきまで叩きのめされて以来、家康は変わった。

▼「兵は詭道(きどう)なり」。信玄も、家康も、教科書通りの定石を熟知して、秀才肌の戦をしたが、その時々の選択は、ほとんど博打に近い。とても常人のなせるわざではない。しかしそれは、天賦の才能なのではなく、長く苦い経験の積み上げによって培(つちか)われたものであり、それが危機一髪で絶妙の選択の数々を可能にしたのである。

▼よく「俺はツイてない。」という。しかし、ツキは呼ぶものなのだ。

増田経済研究所 日刊チャート新聞編集長
松川行雄


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