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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第349回・「詰め込み」から「ゆとり」へ。そして今は、「自由」だと言う。

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【閑話休題】第349回・「詰め込み」から「ゆとり」へ。そして今は、「自由」だと言う。

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2015-02-20 15:31:00]

【閑話休題】第349回・「詰め込み」から「ゆとり」へ。そして今は、「自由」だと言う。

▼近年、やたらと納得がいかないのが日本の教育への取り組みだ。以前は、「ゆとり教育」などといって、青少年の学力の急速な低下を招いた。その後は引き締めに転じたものの、時間数を増やせばいいというような代物で、中味はお粗末そのものだ。より悪化しているといってもいい。

▼最たるものが、ずっと一貫して続いている「理想的な教育像」というものに、「考える」ことの重視というスタンスがある。ただ、習い、覚える教育から、自分で考え、議論し、判断するという能力の育成ということなのだが、どうも教育論というのは、つねに綺麗ごとが並べられるわりには、不合理なことが多い印象なのだ。

▼そもそも、広く深い知識の蓄積も無く、もとより社会経験がゼロに近く、痴情溢れるテレビやメディアの偏向番組・報道などで、余計な「ゆがみ」だけは、流行に乗って容赦なく直面する青少年が、一体、なにを自分で考え、議論し、判断できるものか。

▼人間というものは、自分の中に無限の可能性を秘めているが、それがなにかは外との接触によって初めて認識することができる。たとえば、「痛い」という感覚は、自分以外の硬い何かとぶつかって初めて「痛い」とわかるのだ。外界との接触によって、自分というものがわかってくる。「叩かれて」人間は、初めて人の「痛み」もわかるのだ。

▼だから、外の世界が何なのか、どう動いているのか、なにによって形成されているのか、基本的な知識がなければ、外の世界にどう接したらいいのかもわからない。人間というのは、そういうものだ。ましてや、ここで言う外界とは、恐ろしいほど複雑怪奇な人間社会という魑魅魍魎なのだ。ロビンソン・クルーソーや、深山の仙人ではない。

▼自己実現、自由な発想、自我の解放、そんな発想は、アメリカのやり方から来ているのだろう。連中を見るがいい。ろくな知識も経験がなくとも、えらそうに自己主張だけは一人前という人間ばかりそろっている。何の知識も経験もないうちから、ディベート(議論。真実を探り当てるための議論ではなく、賛成・反対に分かれて論争に勝利するための議論訓練。)ばかりやらされているから、そうなるのだ。口だけ達者というやつである。中味はきわめて軽薄短小なのだ。それを、合理的であり、ロジカルであり、プラクティカルであると評価するのは、まったく見当違いも甚だしい。

▼青少年の間は、徹底的に広い知識を「詰め込む」に限るのだ。「読み、書き、ソロバン」とは良く言ったものだ。暗記に終始し、体で覚えこませる。上等である。それが教育だ。そして、個々に興味を覚えたものは、どんどん自由に突っ込ませれば良いのだ。詰め込まれた知識が、すべて理解できなくともよい。暗記したものをすべて結局は忘れてもよい。基礎教育というのは、元来そういうものなのだ。

▼いったん徹底的に詰め込まれたそういうものは、必ず何らかの影響を残していく。いつか、「ああ、そういえば、あんなこと教わったな。」と思い出すだけでよいのだ。微分積分が結局よくできなかったとしても、その思想やロジックの癖というものが、知らないうちに人格に大きな影響を残していく。教育とはそういうものだ。長じてそれを忘れてしまってもいいもの、それが教育なのだ。そういうものがあるということを知っている事実が重要なのだ。

▼だから、主体的な思考の育成というものは、大学など高等教育で、徹底的にやればいいだけのこと。そうした小中高校生時代にやったものの、忘れたすべての知識(しかし、深いところで定着している記憶)というレールの上で、走るものなのだ。

▼そんなことだから、AKB48のタレントが、地球儀を前にして誰もサウジアラビアを指差すことができないのだ。しかも、それでいいのだと思い、恥ずかしいとも思わない状況がはびこっている。AKB48だけではない。わたしの知ってる、東大文一卒業の、某大手鉄鋼会社勤めの男ですら、地球儀を見て、マレーシアを探しながら、ここだ、といって平気で「タヒチ」を指差したり、「あ、違ったここだ」といって、今度は「ハワイ」を指すような事態になってしまうのだ。笑い事ではない。これは実話なのだ。わたしは、腰を抜かした。

▼こんなことだから、イラクやシリアで起こっていることなど、他人事でしかない人間ばかりが増殖してくる。情報を受け止めて、認識する前提となる基本的な知識が、決定的に欠落した青少年が多くなってくるのだ。「習う、読む、覚える」から、「考え、判断し、主張する」へと向かおうなど、とんでもない教育の堕落である。そういうのこそ、「砂上の楼閣」と言う。

▼わたしの時代は、漢字テストなど、毎日あり(当時、横浜の田舎の公立中学の話だ)、毎日同学年全員の順位が張り出されたのだ。歴史も、地理も、数学ですらそうだった。(数学の不得意なわたしは、だから地獄だった。)順位が低いと恥ずかしいのだ。しかし、その羞恥心を持たずに、どうやって向上心が育つのだ。

▼小学校の通信簿が、一体いつから「よく頑張りました」「もうちょっと頑張りましょう」といったような意味不明の評価に変わってしまったのか。わたしの時代は、1から5の点数評価だった。点数でなにが悪い。試験で区分して何が悪い。点数で測れない部分は、別に点数枠を加えればいいだけではないか。点数評価は、人間を差別するなどという馬鹿な議論が、公然とまかり通るようなこの国は、また滅びることになるのだろう。平等という概念は、人間がみな違い、能力に優劣があるという前提で初めて成り立つ概念なのだ。人間の「差」というものに、痛みを覚えることない、上っ面できれいごとの「平等」など、偽善と自己正当化の温床でしかない。そんな調子だから、「平等」という概念に、魂が宿らず、思想にもならず、ただの口実になってしまうのだ。

▼わたしは、明治という時代が、あらゆる欠乏と貧困の中でなぜ成功を収めたのか、昭和という時代が、当時世界の一等国にまでのし上がっていたにもかかわらず(国際連盟の五大国の一つだ)、なぜ失敗したのか(昭和20年8月15日のことだ)という点について、人材や教育論の観点から言えば、間違いなく「抜擢」があったかなかったの違いだと思っている。詰め込み式の教育が悪かったのではない。日本はずっとそうだったからだ。違いは、その上で、個々の人間の適材適所を許容できたかできなかったかの違いだ。終戦直後の一時期を除いて、その後の昭和は、戦前の昭和が犯した間違いを、再び継承して現在に至っている。

▼生徒に、自由に考えさせ、自分で考える訓練をするなど、馬鹿馬鹿しくて聞いていられない。倫理一つとってもそうだ。倫理がなにかもわからない人間に、勝手に考えさせてなんの役に立つ。それより「論語」を丸暗記させるほうがよっぽどマシだ。そこには、

義を見てせざるは、勇無き也(為政編)

とあるからだ。
この文句を一つ、血や肉にしみこませることが、教育なのだ。自分の言葉を見つけ、自分の言葉で考え、判断していくのは、それからのことだ。

【余談】
戦前は「修身」という教科があった。
だから、先述の「論語」のような「義」と「勇」に関する名文句を、叩き込まれるような機会はあった。
が、これも、都合のいいところだけ取り上げてしまえば、教育としては片手落ちになる。
たとえば、安倍首相が好んで使う「千万人と雖(いえど)も、吾(われ)往(ゆ)かん。」という「孟子 公孫丑(こうそんちゅう)章句」の名セリフだが、全文はこうである。

吾(われ)嘗(かつ)て大勇のことを夫子(孔子)に聞けり。自ら反(かえり)みて縮(なお)からずんば、褐寛博(かつかんぱく)と雖(いえど)も吾惴(おそ)れざらんや。自ら反みて縮ければ、千万人と雖も吾往(ゆ)かんと。

現代語訳するとこうなる。

わたしは、以前、師に「大いなる勇」とはなにかと問うたことがある。
すると師はこう答えた。
「自分のことを振り返ってみて、間違っていれば、それが軽蔑に値するような卑しい者が言うことであっても、その前では畏(かしこ)まり、自らの言動を改める。
自分の信念が間違っていなければ、敵がどれだけいようと、たった一人でもわたしは行く。」と。

この章句の一番重要な部分は、この前段のほうである。
でなければ、後段は生きない。その輝きは半減するのだ。
「大義」とはそういうものであり、「大勇」とはそういうものである。

増田経済研究所 日刊チャート新聞編集長
松川行雄


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