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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第355回・王国を夢見た男たち

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【閑話休題】第355回・王国を夢見た男たち

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2015-04-03 15:52:00]

【閑話休題】第355回・王国を夢見た男たち

▼これは、しょせん冗談でしかないのだが、アフリカにいきなり王国樹立を宣言してしまった男がいる。ジェレミア・ヒートンという人物だ。7歳の娘が、「王女様になりたい」と言ったことから、この父親は本当に王国をつくってしまったのだ。

▼ヒートンは、米国バージニア州に居住している。娘の願いをかなえるため、いろいろと調べ続けた結果、エジプトとスーダンに挟まれた砂漠の中に、どの国にも属していない695平方マイル( 2000平方km)の一画があることをつきとめた。

▼そこは、113年間にわたり、エジプトとスーダンの間で、国境線の確定交渉がまとまらず、現状は主権空白地(つまり、無主の地)とされている場所だ。ビル・タウィルという場所だそうだ。過去にも、これに気づいて、ネット上で自分の国にすると声を挙げた人たちがいたそうだが、エジプトもスーダンも、またどこの国の政府にも認められていない。当然のことだ。現在も、主権空白地のままである。

▼ヒートンは、ネット上で宣言するだけではない。2014年6月、30万円の旅費をつかって、エジプトに渡航。この地域への訪問許可をエジプト政府から得て、14時間かけてビル・タウィルにたどり着いた。

▼そして、娘のエミリーの誕生日である6月16日に、子供たちがデザインした国旗を立て、Facebookで王国樹立を宣言したのだ。その後、帰国した後に、国名を「北スーダン王国」と命名した。エミリーには冠を用意し、家族の間ではこれから彼女を「エミリー王女」と呼ぶように取り決めたのである。

(ヒートンと北スーダン王国)

▼ただ、専門家から指摘されるまでもなく、ヒートン自身も、本当に「北スーダン王国」が世界から認められるとは思ってない。それでも一方で、「私は子どもたちのためなら何でもすると、彼らに知ってもらいたいんだ」と話す父は、アフリカで自分の国に対する「認知活動を行っていくつもり」と話しており、一応、まじめに国を樹立させる努力は続けていくようだ。

▼こうした与太話はともかく、過去、まだ「冒険」という言葉が現実に輝きを持っていた時代、ほんとうに世界の果てまで行って、自分の王国を打ち立てた男たちは結構いるのだ。

▼非常に有名なところでは、ジェームス・ブルックだろう。1803年(欧州では、ナポレオンが皇帝に即位する前年)、インドのベナレスにあった英国人居留地で、裁判官の子として生まれている。なにしろ、問題児だったらしい。寄宿舎を脱走して放校処分にあっている。一時軍隊に入隊したようだが、重傷を追い、英国に戻った。相当、野心、それも個人的な野心の大きかった人物のようだ。

(ジェームズ・ブルック、初代)

▼1835年、遺産を相続し、船と乗組員を用意してシンガポールに出航。当時、ボルネオ島の支配者だったブルネイ(現在のブルネイである)王族への友好使節になるよう、政府から依頼されて引き受けたのだ。

▼1839年、ブルックはボルネオ北側一帯に広がるサラワク地方のクチンに到着。ブルネイ王族は、当時、原住民の反乱が相次ぎ、その鎮定に手を焼いていた。そこで、王族は、ブルックにこの荒療治を依頼したのである。

(現在のボルネオ・サラワク州、クチン)

▼ブルックは一旦は断っているのだが、1840年にはついにこれを引き受け、なんと鎮圧してしまったのだ。1842年、ちょうど英国はアヘン戦争で清国を武力で下した年だが、このときブルックは、王族から正式にサラワクのラジャ(藩王)に任じられ、白人王の称号を与えられた。

▼さらにブルックは、英国海峡植民地政庁のバックアップを得て、近海の海賊一掃に乗り出し成功を収めている。この一連の冒険譚は、本国にも伝わっており、1847年に英国に凱旋帰国したときには、熱烈な歓迎を受けたそうだ。ビクトリア女王にも謁見し、サーの照合も与えられた。

▼ただ、世の中やっかむ向きも当然いるわけで、ブルックがいかに、原住民との戦い以来、多くの殺戮をしてきたかが暴露され、本国ではそれまでの英雄視から一点、猛烈な避難も浴びるようになった。一応1854年には、シンガポールの審問会で無罪の判決がでたものの、イメージは失墜したようだ。反乱と鎮定、そして海賊である。多くの死者が出て当たり前の話なのだが、これで英雄伝説はかき消されてしまった。

▼ブルックはこの事件で、かなりストレスを感じたらしく、天然痘に侵されたこともあって、衰弱し1858年には帰国してダートムアで隠居生活を送った。もっとも、サラワクの様子は気になっていたようで、二度ほど現地に赴いている。1866年(明治維新の2年前)に、発作で倒れ、明治維新の年に死んだ。

▼サラワクのブルック王国はしかし、終わらない。甥のチャールズ・ブルックが2代藩王(ラジャ)となり(生粋の英国軍人)、どんどんブルネイ王族の領土も奪っていった。英国植民地軍の後ろ盾がもちろん効いている。チャールズは1917年、第一次大戦終結とともに死んでいるが、3代ヴァイナー・ブルックが継承した。1941年には、建国100週年を記念して、憲法まで制定。立憲君主国になっている。

(二代目・チャールズ・ブルックと、妃のマーガレット)

▼たかが、野心に満ちた一人の男の大冒険の末に、ひょうたんからコマのように誕生した国とはいえ、百年続くというのは、大変なことだ。それなりの施政があったということだろう。

▼しかし、その建国100周年のそのときに、奇しくも太平洋戦争が始まり、サラワクは日本軍が占領。ヴァイナーは、オーストラリアに亡命している。ブルック王朝は、実質的に崩壊したといっていい。

(三代目・ヴァイナー・ブルック)

▼日本が降伏した後、ヴァイナーは王位を辞退している。そのため、サラワクは、イギリスの直轄植民地となり、名実ともに、3代続いた白人王国は、消滅した。現在は、マレーシアの一部となっており、サラワク州である。ブルネイをはさんで東隣のサバ州には、日本の「からゆきさん」でも有名になったサンダカンの町がある。

▼3代にわたるブルック王朝は、しかしかなり善政を敷いたようだ。歴代、「文化の進んだ少数の欧州人のために、先住民の利益を犠牲にしてはならない」というのが大方針だったようで、外国資本による搾取から先住民を保護していた。海外からの投資や開発は原則として禁止だったらしい。

▼そうかと思えば、逆にとんでもない狼藉者も、歴史には登場する。その代表的な人物が、米国人、ウィリアム・ウォーカーである。初代ジェームス・ブルックとほぼ同時代に生きた男だが、これはとんだ迷惑男である。

(ウィリアム・ウォーカー)

▼ウォーカーは、1824年、テネシー州で生まれた。ペンシルベニア、ナッシュビルと二つの大学で医学を学び、医師資格を取得している。欧州でも学んだ。ところが、アメリカでは領土拡張の機運が高かったため、ウォーカーもどういうわか「自分の国を持ちたい」と誇大妄想を抱き始めた。

▼1853年、45人のならず者を従えて、メキシコに攻め込み、バハ・カリフォルニア半島にロウアー・カリフォルニア共和国を勝手に宣言してしまった。このときは、アメリカとメキシコの両方の軍隊によって鎮圧され、彼も捕縛されたが、すぐに釈放された。子供じみた騒ぎということで、不問に付されたらしい。

▼ところが、本人は大真面目なのである。今度は、ニカラグアに57人の「義勇軍」を率いて上陸、攻め込んだのである。1855年6月のことだ。なんと驚くべきことに、不意をつかれ、装備もほとんど無いようなニカラグアで、ウォーカー軍は快進撃。10月には首都グラナダを陥落させ、自由党の政治家を大統領にすえ、自身は軍の最高司令官となって実権を掌握。

▼1856年、ウォーカーは、これまたどうしたことか、自ら大統領選挙に出馬し、当選してしまったのだ。そこで、アメリカ南部の制度を真似て、黒人奴隷制度を復活させてしまう。先述のブルックと違い、アメリカ人が土地を所得しやすくなる法律を公布、英語も公用語にして(本人はスペイン語をほとんど話せなかった)、ニカラグアを環カリブ海帝国建設のための拠点にしようと言い出したのである。

▼この動きに不安を感じた近隣の中米諸国は軍隊を連合した。反米的な英国や英国系財閥もウォーカー潰しにかかった。ニカラグア国内でも、反ウォーカー勢力が結集し、結局彼はニカラグアから追放処分されている。その際、グラナダに放火するなど暴れまわる蛮行を演じている。

▼最終的にはコスタリカ軍を主力とした中米連合軍に降伏し、1857年、アメリカ海軍に引き渡され、帰国。これも当時の米国では英雄譚ということになり、歓迎されたようだ。しかし、本人はあきらめがつかない。

▼1860年に、今度はホンジュラスに上陸したのである。このときは、すでに中米中に悪名が轟いた後だけに、現地の協力はまったく得られず、隣にあった英領ホンジュラス(現在のベリーズ)の英国海軍に捕らえられた。ちょうど、折りしもアメリカは南北戦争直前である。米国内では、海外のことなどまったく関心がなく、内戦勃発前夜の大変興奮した状況にあった。

▼英国はこの問題ばかり起こす誇大妄想家の身柄を、ホンジュラス軍に引渡し、9月12日に銃殺によって処刑された。墓は、最後の地となったホンジュラスのトルヒーヨにある。36歳であった。

▼同じ、王国を夢見た男の人生だが、動機(ブルックはそもそも王国を持とうなどと思っていなかった)も経緯も、そして結末も、見事に明暗を分けている。

▼ブルック王朝は、現在ほとんどサラワクにその事績としての痕跡が残っていない。クチンに行けば、当時の19世紀風の商館が運河沿いに立ち並ぶ、瀟洒な雰囲気を残しているものの、文化的にはブルックを忍ぶものは少ない。ほとんどすべて、ボルネオのジャングルの中に溶け込んでしまった。それが、彼らの望みだったとすれば、見事なものである。

▼一方ウォーカーは、その後、現在に至るまで、ニカラグアが、徹底的にアメリカという国の侵略性や野望を疑うようにさせてしまった、いわば元凶ともいえる。ニカラグアだけではない。ことごとに中南米で反米的な精神風土が根付いてしまった、一番最初のきっかけがこのウォーカーの乱暴狼藉なのだ。

▼一人の個人が、縁もゆかりもない土地で、自分の王国をつくろうなどということが、曲がりなりにもまだ現実性のあった時代。遠くもあり、懐かしくもある歴史のささやかな1ページは、いまや完全にセピア色に染まっている。

増田経済研究所 日刊チャート新聞編集長
松川行雄



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