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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第363回・再び「日本のダビンチ・コード」〜消された神々の名(前編)

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【閑話休題】第363回・再び「日本のダビンチ・コード」〜消された神々の名(前編)

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2015-05-29 16:16:00]

【閑話休題】第363回・再び「日本のダビンチ・コード」~消された神々の名(前編)

▼名前というのは、とても大事である。近年は、どう考えても読めないような読み方の名前を子供につけていることが多い。読みはお洒落だが、漢字が奇妙奇天烈なのだ。意味も独りよがりの異様な当て字であったりする。親御さんの凝った趣向、思い入れというものもわからないではないが、子供にしてみればいい迷惑である。

▼名前というものは、その本人の立場にたってつけてやらなければならないから、親はむしろ自分の気持ちというものを、ぐっと引き、抑えて考える必要がある。なにしろ、一生その名前を背負っていきるのだ。年齢に応じて恥ずかしくないものをつけてやらなければ、酷である。流行にながされない、普遍的な名前がやはり望ましい。

▼おそらくこうした風潮、流行というものは、名前というものをペットにつけるくらいの認識だから起こるのだろう。軽んじているのだ。名前というのは、命がかかっているものなのだ。どれだけ大切か、わかっていないのである。

▼武士の時代、たとえば「織田信長」といっても、本人はもちろん、他人も彼を「信長」とは呼ばなかった。信長というのは、諱(いみな、忌み名)といって、日常生活での使用はことさら控えられた。たいていは、官位(自称の官位でもよい。この場合は、字=あざ名ともいえる。)で呼んだ。信長は「右府」、あるいは自称官位だった「上総介(かずさのすけ)」と呼んだのだ。徳川家康であれば、「内府」と呼んだ。

▼上杉謙信や、武田信玄も同じである。ただ、謙信の本名である政虎は諱であるから、使われない。謙信というのは、戒名である。法号といってもいい。信玄も晴信だが、けして晴信という本名、諱は誰も呼ばなかった。出家した法号=戒名の信玄と呼んだのである。

▼こうした、名前を非常に大事にする文化だけに、古代、神の名前も習慣的に隠された。たとえば、スサノオの父親はフツシ、スサノオはフトゥ(フツ)、そしてスサノオの第五子で、原始大和王国の始祖である大王ニギハヤヒはフルである。いずれもモンゴル名であるから、王朝の先祖が朝鮮ではなく、モンゴルであることは明らかだ。なんでも日本にあるものの起源が朝鮮半島であると思いたがる向きには、不愉快だろうが、天皇家はモンゴルから、朝鮮を「素通り」して日本列島にやってきたということになる。

▼日本には、土着に近い縄文人と、渡来人である弥生人がいるが、弥生人はモンゴル以北から 朝鮮半島を素通りして日本に渡来したのである。 朝鮮半島は弥生人に素通りされただけで、弥生人が ほとんど定着していない。

▼だから、日本人とモンゴル人は最大のハプロタイプが同じで、 同祖を高頻度に共有しているが、朝鮮人にはこのハプロタイプが わずかしか見られない。

▼その代わり、中国人に多く見られるハプロタイプが朝鮮人には見られる。 これが日本人にはほとんどない。

▼日本に弥生人がやって来た後、朝鮮半島は中国人に侵略されたからである。 朝鮮半島人はハプロタイプが日本人と6割以上も違う異人種である。

▼ところでこの弥生人と縄文人のことだが、縄文人とアイヌ人のDNAは完全に一致している。ロシア極東のバイカル湖周辺のブリヤート人とも一致する。

▼脱線した。また話を元に戻す。神社の祭神というものは、架空の神話というイメージが強いが、それは正史「古事記」や「日本書記」の影響が大きいためである。じつは、神々の名は、実在の支配者たちの名であることがほとんどだ。そうではない場合も確かにある。もちろん特定の人間の死後に祀られたのではなく、あくまで自然を恐れる気持ちから発生した自然神的なものもある。

▼たとえば、稲荷神は、スサノオの第二子である、ウカノミタマということになっているが、古代史研究によれば、この人物の実在性が特定できない。伝承にも、生前の事跡がまったくない。しかも諡(おくりな、諡号=しごう)がないのだ。スサノオノミコトとか、イタケルノミコトとか、そうした死後つけられる名前が存在しないのだ。つまり、死んでいないことになる。死んでいないということは、存在がなかったといってもよい。

▼ふつう実在の人間であれば、妻がい、子供や子孫がいるものだが、そうした記録も一切出てこない。そのため、実在の人物ではなかったのではないか、と言われる。つまり、五穀豊穣の自然神が、そのままスサノオの家系に埋め込まれた可能性が高い。後に述べる、スサノオの象徴数字である八に合わせて、スサノオには八人の王子(八王子)がいたということにし、それにつじつまあわせをするために、つくられた創造された神ではないか、というのである。このつじつまあわせには、もう一人スサノオの子がいるが、それは実在の人物を、重複して別名で組み入れられ二人に勘定されている。これで合計で八王子となっている。本当のスサノオの実在した子供は5人ということだ。

▼実際、稲荷の総社である伏見稲荷大社のある宮司に問いただしたところ、彼はこう言った。「ウカノミタマという方は実際にはおられません。伏見稲荷を霊界から今治めておられるのは、奥宮の阿古町(あこまち、阿小町)様です。」

▼余談だが、阿小町というのは、巫女・妙婦(みょうぶ)のことだ。豊穣の神を祀るところでは男女原理の結合という性のイメージが多用され、現実に性の儀式が行われた。そこに登場するのが「巫女」である。神社では巫女は娼も兼ねており、魔術的・儀式的・呪術的な性が活用されていた。昔、刺激が少ない時代、神社と芸能は結合し濃厚で扇情的な世界が展開されていた。

▼美形の巫女の事を「顔よき女体」と呼び当代一の人気巫女は「阿小町」と呼ばれ、猿楽を舞う巫女であった。その心霊が、稲荷山で勢いを持っているということらしい。

▼ちなみに、この稲荷(阿小町)は、応仁の乱による火災で壊滅に瀕した際に、境内に本願所として愛染寺が設けられた(現在の社務所の場所)。この愛染寺こそが、その後現在に至る伏見稲荷隆盛の元となった稲荷勧請を行って、全国に稲荷を伝播したのである。その資金で、伏見稲荷は復興した。

▼この愛染寺の本尊は、(東寺の末寺だけに、密教色が非常に強い)愛染明王である。荼枳尼(ダキニ)天が格上げされたのが、愛染明王だとも言われる。荼枳尼天は、人の魂魄(あまつひ)を食って生きる女夜叉(奪魂鬼)である。愛染明王の祈祷では、6つの手のうち、1手にはなにも持っていない。その手に、「あまつひ」が置かれていると観想して行うことから、愛染明王と荼枳尼天は根が一緒と言われる所以である。密教的な解釈では、荼枳尼天=愛染明王=稲荷ということで、いずれも同置・同体ということになる。

▼さらに蛇足だが、この愛染明王は、インドの原典にはほとんど確認されていない。どうも、日本で独自に生まれた仏尊らしい。しかも、面白いことに空海が東寺の後、高野山を開いた折に、結界を張ったが、ふつう結界は降三世明王(ごうざんせいみょうおう)の真言(マントラ)で張られる。しかし、空海は、なぜか愛染明王の真言で行っている。その真言には、(諸説あるのだが)荼枳尼天の「タキ」が含まれている。

▼この荼枳尼天こそは、伏見稲荷大社奥宮で祀られていた仏尊であり、つまり稲荷とは、その実体は、神道的な側面から見れば、阿小町。仏教的な側面からみれば、荼枳尼(ダキニ)天=愛染明王ということになる。

▼さて、話を元に戻して、日本には、登録されている神社数は81320社。人口10万人当たり、63.78社あることになる。ちなみに、寺は77467寺。人口10万人当たり60.75寺。各種「教会(おもにキリスト教)」は、7164教会。人口10万人当たり5.62教会だ。

▼しかし、登録されていない無人の祠を入れると、神社数は、とても8万社ではすまない。軽く10万社を超えるだろう。

▼寺の場合は、宗派が明確であり、混交している修験系のものでも、その出自がはっきりしているが、神社はそういかない。なにしろ、なじみのない、聞いたこともないような神名がぞろぞろ祀られているから、なにがなんだかまったくわけがわからない。

▼これはこういう神様で、といろいろと説明をされるのだが、どれもとってつけたような説明であることが多く、「はあ・・・・」という感じで、どうもピンとこないことが多いだろう。

▼誰を拝んでいるのか、皆目見当もつかない。これは、日本人が古来、本名の使用を不敬であるとして使わなかったこうした習慣が影響している一方、もうひとつ重大な理由がある。この日本の神社、神名というものは、大きく二度にわたって、改竄(かいざん)の歴史があるからだ。

▼一度目は、持統天皇のとき。大化から大宝(西暦645年から703年)のころだ。持統天皇(女帝)は、いわゆる大神(おおみわ)神社や石上神宮(布留神社)など、由緒ある奈良の古社に伝わる神々(要するに、神話ではなく、実在した古代日本の原始統一王朝の諸王たち)の系図を、ことごとく焚書したのである。自身の王朝を正当化するために、それ以前の、王朝の存在を抹消し、改竄したわけだ。それが、「古事記」「日本書紀」ということになる。

▼だから、「古事記」「日本書紀」には、でたらめもあれば、真実もある。すべてを隠蔽することも不可能であり、どうしてもぽろぽろと真実の一端が、露呈しているのだ。

▼この正史「古事記」や「日本書記」に対抗して、事実暴露を旨として書かれた代表的な文書が「日本先代旧事本記(にほんせんだいくじほんぎ、あるいは日本先代旧事記)」だ。一部、本編以外のところに後世の捏造部分もあり、アカデミズムでは「偽書」として完全に否定されている。

▼しかし、口伝で残されてきた竹内文書(たけうちもんじょ)をはじめ、各種散在するこうした「暴露本」を付き合わせていくと、それぞれ違いもあるのだが、「偽書」にかなり重複する「真実」が浮かび上がってくる。

▼なぜこうした問題が起こるのかと言えば、要するに持統天皇以降、それ以前の王朝の支配者たちの名が、ことごとく改竄されてしまい、想像もつかなくなってしまっているためだ。

▼さらに、問題がややこしくなったのは、過去千年に渡り、寺と神社は二つで1セットだった(伏見稲荷大社と愛染寺のように)。不可分の関係だったのである。しかし、明治以降、廃仏毀釈の運動によって、分離を強いられた。寺に残る記録から、その神社の本当の神の名が多少はわかっていたものの、この分離政策によって、まったくわからなくなってしまった。そして多くの寺は、明治政府から「おまえのところは寺だから、潰す」といわれないため、仏の名前を、神の名前に変更し、神社として生き残ったのである。まったく、縁もゆかりもない神名が新しい神社として、今に存続していることになる。

▼一度目は、出雲系の神々が地下に潜伏し、二度目は仏があらぬ神の名をまとって祭神として成りおおせてしまうという、複雑骨折である。しかも、神社と寺の分離により、神は正当な主張や根拠を奪われ意味不明の存在と化し、仏はただの葬式宗教に堕ちた。

▼この神々の名の混乱と出自来歴の抹殺という二度の大きな衝撃波によって、神社の神々は、いったいなにものなのか、大混乱したままの状態になっているのだ。

▼先述の「先代旧事記」や「竹内文書」など、世に埋もれてきたさまざまな「暴露本」をつぶさに研究し、日本中の神社にわずかに、秘密裏に残されてきた伝承や神々の系図から、次第に、誰が何の神なのか、が少しずつわかり始めている。

▼戦前でも、こうしたアマテラス(伊勢神宮)を皇祖とした明治以降の皇国史観に対して、意を唱え、スサノオこそが始祖であると公言してはばからなかった大本教の出口王仁三郎(でぐちおにさぶろう)などは、さんざんな弾圧に遭い、なかなかこうした正論というものは、通らなかった。

▼出口王仁三郎の場合は、学究的につきつめた結果スサノオに帰着したのではなく、より呪術的に、心霊的なアプローチで到達した結論だったが、いずれにしろ、皇国史観からすれば、不都合なことなのだ。

▼しかし、戦後、皇国史観が排除され、自由な学究が進んだにもかかわらず、学界・アカデミズムでは、なかなかこうした議論に対しては否定的なままである。

▼この「不都合な真実」については、ずいぶん以前にこの閑話休題でも「日本のダヴィンチコード」として、二度にわたって書いたことがある。

▼誤解と批判、非難を恐れず、今ほぼわかっている事実(と目される)民間の研究の結果を述べれば、たとえば、伊勢神宮の天照大御神(アマテラスオオミカミ)は、日本の最初の統一王朝(出雲)の始祖・スサノオが、日向侵攻の際に現地の豪族の娘を現地妻にしたが、その現地妻である。「古事記」などに書かれているような、スサノオの姉ではない。

▼正史「古事記」「日本書紀」などの「神話」では、スサノオは、姉のアマテラスと「誓、うけひ(うけいと読む)」によって、三人の娘が生まれたとされている。九州の宗像(むなかた)三女神である。「うけひ」というのは、誓と当て字するから、誓約と解釈されてきたが、実際には誓約という意味ではなく、「性行為」そのものを指す。

▼このアマテラスも、本名はわからない。後に、「古事記」「日本書記」によって、天照大御神と諡(おくりな)がつけられたわけだが、それには理由があった。

▼もともと天照という称号を与えられていたのは、スサノオの第五子にして、出雲・日向・大和と、瀬戸内を内海として最初の統一大王国をつくりあげたニギハヤヒ(饒速日、本名はフル=布留、別名・大歳おおどし)であった。

▼その称号たるや、天照国照天火明櫛甕玉饒速日命(アマテラスクニテラスアメノホアカリクシミカタマニギハヤイノミコト、あるいはアマテルクニテル・・・とも。)という、日本のあらゆる諡号の中で、これ以上崇高な名前はない、という絶賛をこめた諡号である。

▼日本という国号も、このニギハヤヒが名づけている。そして、スサノオとこのニギハヤヒという出雲系の神々(支配者)の事跡を、歴史から抹殺し、なかったことにしようとしたのが、持統天皇の御世の大焚書事件であった。

▼なんのためであったか? もちろん持統天皇が、飾り物ではない、実権を有した女帝として君臨するため、その正当性のためである。その先例として担ぎ出したのが、アマテラスであった。

▼アマテラスは、日向の国の王家の娘にして、巫女(みこ)である。本名は大日霊女(オオヒルメ)である。スサノオの現地妻となり(スサノオには、出雲に正妻・クシナダがいた)、彼女が産んだ子孫が神武天皇になっていった。

▼ニギハヤヒは、縄文人(アイヌ人)が大勢力を張っていた大和に侵攻し、これを屈服させ、王朝をつくり、スサノオの死後は、出雲・日向を合わせて大王国のトップに立っていた。そして末娘に、神武が婿養子した、という説がある。当時は、末子相続だったのだ。それが娘であったから、婿を採る必要があった。ニギハヤヒが死ねば、ともすると分裂する危険性が潜在したために、大和・日向の合体をすすめて、安定をはかろうとしたのだ。そこで、日向のアマテラスの孫である神武を婿にとったといわれている。そこからニギハヤヒの男系は断絶し、神武系の男系が続いていくことになる。

▼従い、仮説によれば、神武東征ではなく、神武東遷であるというのが正しいことになる。いずれにしろ、このアマテラス(大日霊女)をモデルに、過去にも、飾り物ではない偉大な女帝がいた、と言う事跡が必要だったため、持統天皇は万世一系の天皇家の始祖として大日霊女を引っ張り出し、「アマテラス神話」を捏造した。それには、それなりの諡(おくりな)が必要だ。そこで、抹殺したニギハヤヒの諡から、天照を取り出して、天照大御神とした。そしてこの女性のアマテラスこそが、日本最古の王朝の始祖であり、それ以前にはスサノオも、ニギハヤヒも存在しなかったという隠蔽工作が行われたのである。

▼しかし、隠しても隠しても、真実は泉のように染み出るものだ。伊勢においてすら、アマテラス(女神とふつう考えられている)は、男であったという伝承が色濃く残されている。アマテラスが「夜這い」をした、という伝説は、つくりあげられたアマテラス神話のわずかな亀裂に、ニギハヤヒの影が見え隠れするのだ。

(後編に続く)

増田経済研究所 日刊チャート新聞編集長
松川行雄


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