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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第366回・物事は半面でしか、わからない(戦前のものだが、不快な画像含む。閲覧注意。)

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【閑話休題】第366回・物事は半面でしか、わからない(戦前のものだが、不快な画像含む。閲覧注意。)

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2015-06-12 16:04:00]

【閑話休題】第366回・物事は半面でしか、わからない(戦前のものだが、不快な画像含む。閲覧注意。)

▼物事というものは、しょせん半面でしか、わからない。歴史は、とくにそうである。残された記録は、勝ち残ったものが改竄(かいざん)するのが普通だから、額面通り受け取るのは大変危険だ。すべてを疑い、あらゆる可能性を残した解釈をしなければならない。

▼「分かった」とよく言うが、「分かる」とは、「分ける」という意味である。全体を完全に把握することは困難であるために、いくつかの部分に分けて、その一部分だけを見て「分かった」と言っているのにすぎない。

▼それは、賞賛するときも、非難するときも同じである。ことに写真の一枚が与える衝撃は、社会を正しい方向にも、間違った方向にも、大きく動かしてしまうインパクトがあるから、わたしたちはいったん身を引いてみる必要がある。

▼たとえば、ここに一枚の写真がある。20世紀を変えたといわれるうちの有名な一枚だ。

(罵声)

1957年、アメリカのアーカンソー州リトルロックのセントラル高校で撮られた一枚だ。黒人の女子高生エリザベス・エックスフォード(当時15歳)が、学校に登校したときのものだ。

▼9月4日、新学期の初日。この日は、セントラル高校でも白人・黒人の共学がスタートする予定だった。しかし、歴史的な偏見から、全国黒人地位向上協会や白人司祭たちといっしょに、団体行動で登校することが決められていた。危険だからである。

▼ところが、家が貧しく電話がなかったエリザベスには連絡がつかず、彼女だけは単独で登校する羽目になった。しかも、当日、セントラル高校に登校する初の黒人生徒は、エリザベスただ一人だったのだ。

▼エリザベスは、少しでも可愛く見えるようにと、この日のために手製のスカートを作り、アイロンも念入りにかけていた。バスを下り、学校に近づくと、並んでいる州兵が「あっちへ行け」という仕草をした。

▼彼女は素直に、通りの反対側にうつって、大回りで学校の正面玄関に向かった。すると、エリザベスを発見した白人生徒を含む群衆は、ぞろぞろと彼女について歩き、口々に「Nigger!(くろんぼめ)」「Go back to Africa!(アフリカへ帰れ)」と罵り始めた。

▼この1ブロックの歩行は、彼女にとって生涯で一番長い距離となった。正面玄関へと続く小道の近くにいた州兵たちは、冷たい視線で彼女をにらみつけ、銃剣をかざして通せん坊をした。彼女は、テレビ報道で州兵がいることは知っていたが、州兵は黒人の生徒を守ってくれる役目だと信じていたので、愕然とする。

▼エリザベスは途方に暮れ、ふと目に入ったバス停のベンチを目指す。罵声や憎しみの目に囲まれ、彼女の膝はがくがく震え、やっとの思いでベンチにたどり着いた。数人の親切な白人たちの助けで、バスに乗せられ、母親の職場に駆け込んで泣き崩れた。

▼この一枚は、正面玄関に向かうエリザベスの後に続いて、罵声を投げかける女子高生や群衆の姿まで写されている。彼女の後ろで、獰猛な野獣のように大声でエリザベスに罵声を浴びせているのは、ヘイゼル・ブライアントという女子高生である。

▼アメリカが公民権運動で、ようやく黒人の人権の確保が一歩前に進んだ幕開けのときだった。この一枚は、エリザベスより、ヘイゼルのほうに見る者の注目をひきつけた。10代半ばの少女が、差別という狂気に取りつかれた現実を、これ以上雄弁に物語る一枚もない。そして、ヘイゼルは、その後40年にわたって、たったこの一枚の写真によって、苦しむことになる。

▼1997年、ヘイゼルはエリザベスに謝罪をしている。そして、二人が仲良く並ぶ写真が当時のメディアで報道された。この一枚が、公民権運動に圧倒的な支持の世論を巻き起こす切り札になっていったことは間違いない。そして、それは人間の歴史を正しい方向に修正させていくきっかけになったことも事実だろう。しかし、わたしたちはこの写真を見るとき、得てして現在、当たり前と思っている「人種・民族の平等」という常識で見ているのだ。

▼この常識が生まれるまで、人類は差別が常識であった。だから、今の常識で当時のことすべてが間違いだったと言うのは、歴史を歪めることにほかならない。差別が正しいと言っているのではない。時代によって、正義が違うのだ、という前提を忘れてはならない。

▼ましてや、ヘイゼルはエリザベスに罵声を投げつけて40年、苦しみ続けたのである。自分が、そういう常識を教えられてきたことに、激しく後悔した。エリザベスの悲しみはこの一枚にあますことなく映し出されているが、ヘイゼルの苦悩は誰も汲み取ろうとしない。

▼もっと時代を遡り、1930年に撮られ、同じく黒人の人権無視という問題に、大きな波紋を呼び起こした一枚である。

(リンチ)

アメリカのインディアナ州マリオンで、若い黒人男性3名が、白人女性をレイプし、その恋人を殺害した事件が起こった。3人は拘留されていたが、激昂した1万人の市民が刑務所に押しかけ、彼らを引きずり出し、散々暴行を加えた挙句、2人を公開処刑した写真だ。

▼命拾いをした1人、ジェームス・キャメロンは、その後死ぬまで黒人の法的権利について活動していった。リンチは論外である。しかし、それは今の常識だ。それまでアメリカでは、リンチこそ正当な行為だった。

▼人の無残な吊るし首を前に談笑する白人たちの様子はグロテスクですらある。この一枚のインパクトが、リンチの違法性を制定する動きになっていたわけで、その影響は甚大なものだったことがわかる。

▼しかし、この一枚からは、彼ら3人が白人女性をレイプし、恋人を殺害したというむごたらしい事実を訴えはしない。

▼確かに、今から思えば、とんでもないことが平気でまかり通っていたのだ。1888年以降、アメリカではリンチによって殺されたのがわかっているだけで4900人前後。そのうち、3分の2は黒人である。

▼ここに一枚の写真がある。驚く無かれ、実は観光用の、今で言うところの絵葉書である。

(絵葉書)

1911年5月25日、アメリカのオクラホマ州オケマー近く、州道56号線がノース・カナディアン川にかかる橋梁(写真は旧橋。現在は新らしくなっている)で、リンチされ、吊るされた二人の黒人の写真だ。驚くべきことに、絵葉書として使われていた。

▼事の次第はこうだった。5月2日、ローラ・ネルソン(主婦、当時33歳)とその夫オースティン、息子のLD(当時14歳)は、副保安官ジョージ・ロニーとその他3名の訪問を受けた。

▼牛泥棒の嫌疑がかかったために、ロニーは取り調べに来たのだ。そこで、息子のLDは、ショットガンを発砲し、ロニーは足を撃たれ、出血多量で死亡した。

▼このとき、ショットガンに最初に手をかけたのは、母親のローラであったとされている。ローラとオースティンの夫妻は比較的安全な州刑務所に拘留され、実際に発砲した息子のLDは、オケマー郡刑務所に入れられた。いずれも、公判を待つ身となった。

▼5月24日深夜、チャーリー・ガスリーを筆頭に、合計12名から40名と言われる集団に、ローラとLD二人が拉致され、ローラはレイプされた。当時の目撃者によると、ローラは妊娠していた。その後、二人は、首にロープをくくりつけられ、橋梁の上から突き落とされて縛り首となって死亡した。この写真はリンチが行われた翌朝、撮られたものらしい(右側に吊るされているのがローラ、左側が14歳の少年である。)。ちなみに、リンチをした側は、告発されていない。そして実行犯などは未だに特定されていない。

(生前のローラ・ネルソン)

▼どうにもやりきれない事件である。実際に牛泥棒をネルソン一家の誰かが行っていたのか、ロニーが取り調べにいったときの彼の対応は妥当なものだったのか、一体なにがどこでどう間違って、事態がこうした悲劇を巻き起こす羽目にしたのか。まったく闇の中である。事実は、ロニーがショットガンで撃たれて死亡し、ローラとLDが暴行を受けた後、吊るされたということだけだ。

▼観光用絵葉書として売られていたこの一枚も、雄弁に当時の「常識(現在の狂気)」を如実に伝える写真だが、実は事実のほんの一部しか、伝えていないのである。写真はすべてを物語るとよく言われるが、真っ赤な嘘である。

▼ちなみに、余談だが、先の1960年代の公民権運動まで、アメリカでは黒人差別がまかり通っていた。日本では、戦前でさえありえないことだ。1936年に、アメリカの黒人運動家にして社会学者のウィリアム・デュボイス(デュボワ)が満州・中国・日本を訪れたとき、感動したエピソードを、帰国後ピッツバーグ・クリア紙に寄稿している。

▼帝国ホテルを発つ日、デュボワはフロントで勘定を済ませていた。そこに、白人女性がいきなり割り込んできたのだ。アメリカなら、当時どこにでも見られる、ずうずうしい風景だ。

▼しかし、日本人のフロントは、その白人女性に取り合わず、粛々とデュボワの勘定を済ませ、深々と頭を下げた。中国ではアメリカにいるのと同じ思いを味わったと書き残している。日本には、当時からアメリカの「常識」は無かったのである。

▼デュボワは書いている。「そこ(日本)には、有色人種の、有色人種による、有色人種のための政府がある」と。だから、デュボワはアメリカ共産党員にもかかわらず、徹底して親日であった。満州国は合法であると主張し、大東亜戦争を支持した。

▼さて、本論に戻す。最後の一枚をご覧いただこう。ベトナム戦争たけなわの1968年2月1日。AP通信のエディ・アダムズが撮影した一枚だ。

(サイゴンでの処刑)

▼北ベトナム軍によるテト(旧正月)攻勢にさらされ、大混乱していた南ベトナム首都サイゴンにおける衝撃的な一枚である。

▼当時、南ベトナムの警察長官グエン・ゴク・ロアンが、潜入してきていたベトコン(北ベトナム軍が組成した、南ベトナム解放民族戦線)の兵士、グエン・ヴァン・レム(とされているが、レ・コン・ナという説もあり、特定されていない。遺族が双方とも、酷似していると証言している。)を路上で射殺する様子だ。ロアンが、個人所有していたレボルバー(回転)式スミス&ウェッソンの拳銃で、レムの側頭部に発砲した瞬間である。

▼この「サイゴンでの処刑」と表題された一枚は、世界各地に報道され、軍事裁判さえも行わずに、路上で虫けらのように処刑を行ったロアンへ非難が集中した。

▼このとき写真だけではなく、動画も撮影されており(当時、同時にNBCニュースのカメラマンたちによって撮影されたもの)、それにはレムが撃たれ、倒れ、側頭部から間欠泉のように血が吹き出している様子が、無残に記録されている。グロ画像に耐えられる人は、youtube辺りで検索すれば、すぐ閲覧できる。当時、その映像が、ゴールデンタイムに米国家庭のお茶の間に流れたのだからたまらない。

▼「一体米軍は、どういう戦争をしているのだ」ということを、米国人のみならず、世界中に知らしめた衝撃波ははかりしれない。そして、米国内に、「正義の戦い」という信念の動揺をきたし、全国的な反戦運動に発展していく起点となったのが、この衝撃の一枚だった。

▼グエン・ゴク・ロアンはベトナム共和国陸軍の士官であった。後にグエン・カオ・キ副大統領の側近となり、警察庁長官を務めた。任官中に、北ベトナム軍とその配下のベトコンによる、テト攻勢が勃発した。

▼ロアンはこの一枚で、歴史に残る極悪人のレッテルを貼られることになった。しかし処刑された兵士は正規の軍人ではない上に、一般市民を虐殺したことが明確であった。 戦時国際法において、このベトコン兵士は戦争犯罪にあたるため処刑は合法だった。ベトコン(民間ゲリラ)は、国際法が定める、一見して明らかな戦闘員である軍装という義務を履行していないのだ。一般民間人を装って戦闘行為を行う者は、捕虜としての何の人権も無いのである。しかしまた同時に、べトコンにとっては、そのくらいのリスクを犯さなければ、強国アメリカの軍隊に対抗できないことも事実だった。

▼処刑されたレムは、その日、一隊のべトコン部隊を率いて、南ベトナムの警察官やその家族を殺害した、今で言うテロ活動の指揮官であり、彼の部隊は「死の部隊」と呼ばれていた。

▼レムが逮捕されたのは、警察官とその親族の遺体が放置された溝の付近であった。死体はいずれも、縛られ、射殺されていた。犠牲者の筆頭は、ロアンの副官である。そして副官の6名の子供(いずれも、ロアンが名付け親になっていた)、女性を含むその家族たちも含まれていた。合計、34名である。

▼レムの未亡人は、夫がベトコンのメンバーであり、テト攻勢が始まってから夫の姿を見ていないことを認めた。一方、処刑の直後、処刑に立ち会わなかった南ベトナム政府高官は、レムはただの政治的スパイだったと発言しており、混乱する当時のサイゴンで、果たして一体、どの事実と事実がつながっているのか、未だに断定は難しい。

▼エディ・アダムズはこの写真で1969年度のピュリッツァー賞を獲得した。後、1975年4月のサイゴン陥落とともに、グエン・ゴク・ロアンは南ベトナムからアメリカへ亡命した。その後アメリカ政府からの資金援助を受けてワシントンD.C.郊外バージニア州バークのローリング・バレー・モールで、ピザレストランを開業した。

▼しかし1991年に、名を変えて暮らしていたロアンだが、素性が暴露されてしまい、廃業に追い込まれた。エディ・アダムズは、ロアンのピザショップを訪れた際、そのトイレの壁には、「お前が誰かは分かっているんだ、くそったれ(We know who you are, fucker)」という落書きを見たと回想している。

▼ロアンはチュオン・マイという女性と結婚し、5人の子供がいた。1998年7月14日、バージニア州バークで、癌のため死去した。

▼当のエディ・アダムズだが、ピューリッツァー賞を受賞したにもかかわらず、そのワンショットが引き起こした衝撃を、後悔していると語っている。この一枚は、「反戦のアイコン」として歴史に残ってしまった。

▼エディ・アダムズは言う。

・・・将軍はベトコンを殺した。私はカメラで将軍を殺した。スチール写真は世界で最も強力な武器だ。人々はそれを信じるが、たとえ手を加えてなどいなくても、写真は嘘をつく。写っているのは真実の半面だけだ。あの写真はけして、こうは言わなかった。
「あの暑い日の、あの時、あの場所で、あなたが将軍ならどうしただろう?」と。
「捕まえたのはいわゆる悪党だったら? 彼が、何人かの米兵をぶっ殺した後だったら?」

The general killed the Viet Cong; I killed the general with my camera. Still photographs are the most powerful weapon in the world. People believe them, but photographs do lie, even without manipulation. They are only half-truths. What the photograph didn't say was, What would you do if you were the general at that time and place on that hot day, and you caught the so-called bad guy after he blew away one, two or three American soldiers?

▼アダムズは、自身の写真によってロアンの世評を傷つけ、家族を地獄に突き落としたことを、ロアンとその家族に直接謝罪した。
こうも言っている。

・・・わたしは人々が彼について何も知らないまま、彼が死にゆくのを見たくはない。

I just hate to see him go this way, without people knowing anything about him.

真実は、けして一面ではないのだ。

増田経済研究所 日刊チャート新聞編集長
松川行雄




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