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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第370回・古代史の勉強〜DNAからみた日本人のルーツ(前編)

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【閑話休題】第370回・古代史の勉強〜DNAからみた日本人のルーツ(前編)

【閑話休題】

[記事配信時刻:2015-07-10 15:27:00]

【閑話休題】第370回・古代史の勉強~DNAからみた日本人のルーツ(前編)

▼かつて、アインシュタインがこう言った。
「常識とは、18歳までに培(つちか)われた偏見のことだ。」
わたしたちは、日ごろ世間一般の社会通念や、学界の定説といったものを聞いて、なんの疑問も抱かないことが多い。これを思考停止という。

▼たとえば、文化は常に大陸からこの日本列島にもたらされたという「一般常識」もその最たるものだろう。なぜ、逆の場合はないのか、と考えないのか。

▼以前もこの閑話休題で、韓国の前方後円墳について書いたことがある。韓国南部、いわゆる任那日本府(みまなにほんふ)あたりでは、あちこちで前方後円墳が発見されている。

▼前方後円墳は、日本独自のものである。調べてみると、中から出てきたのは、倭人(日本人)だった。しかも、年代的には、すべて日本の前方後円墳より後の時代のものであることが判明し、韓国の考古学界は埋め戻してしまった。残念ながらそこからこれらの研究はストップしてしまっており、まったく学問的な進捗が無い。

▼膨大な労働力を用いてつくられる前方後円墳が(つまり日本人の支配階級によるものが)、韓国のあちこちで発見されてしまったということは、要するに少なくとも朝鮮半島南部一帯に、古代、日本の支配が存在したということを証明するようなものだ。韓国にとってはきわめて容認しがたい「歴史事実」であろうから、「無かったことにする」気持ちもわかるが、大変残念なことだ。

▼未だに韓国では、古代、南部に日本人の支配国家・任那日本府は、架空の神話であり、存在しなかった、と全否定しているが、この日本のものより新しい前方後円墳があちこちででてきてしまったという事実は、とりもなおさず、日本人社会が、存在したことを意味している。

▼ちなみに、日本の教科書に書かれている任那日本府の事項だが、海外では、中国・カナダ・アメリカなどの教科書では、みな古代の朝鮮半島においては、南部に日本人支配地域があったと記載されている。全否定しているのは、今のところ韓国だけである。

▼半島で現存する最古の歴史書「三国史記」には、新羅の建国について、第四代王・脱解尼師今(とかいにしきん)を、倭人であるとしている。(だから韓国の歴史学界では、この史書も「無かったもの」とみなしている。)この王は、三国史記によれば、倭の東方1千里の多婆那国からやってきた人物だとしている。これは丹波の国であろうと言われている。そして、彼の治世時代に、最高位の宰相となったのは、「瓢公(ここう)」というこれまた純然たる倭人であったと書かれている。要するに、新羅は日本人王と宰相による国家であったということになる。

▼半島では、朝鮮半島の騎馬民族が日本を征服した、とさえ多くの人が信じているようであるくらいだから、逆に列島の倭人が朝鮮半島南部を支配していたなどということは、到底あってはならないことなのだ。半島人は、当時列島人(日本人)は石器時代の原始人であったから、実に文化的にも、また軍事・政治・経済的にも劣っていたとおもいたがるフシがある。日本人も長らくそうだと思っていた。

▼が、考えてみてほしい。古代(古墳時代)に、朝鮮韓国側の正史によれば、倭人(日本人)が400年の間に、後述するように、わかっているだけで27回の新羅攻撃を行っているのだ。しかも渡洋攻撃である。そのような頻繁な遠征ができるためには、国力、組織、社会体質、経済力などよほど強靭なものでなければ、持続性などありえない。どうして先進的であったはずの新羅が、劣等な倭人に、ひたすら侵攻され続けたのか、それを疑問に思わないだろうか。このことを後述するので、よく見られたい。

▼改めて、これまで日韓両歴史学界が無視、否定してきた古代の歴史書の記述を見てみよう。まず簡単に、重要な項目だけ抜粋してイメージをつくってもらいたい。

●「宋書倭国伝」には中国の宋王朝は倭王を新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を軍事的に支配する「安東大将軍」に任じたと記述してある。つまり、半島南部の倭人による軍事政権を承認したということである。

●韓国の正史「三国史記」には、「397年に百済は倭国に太子を質に出した、402年に新羅は倭国に王子を質に出した」と記述がある。人質を出すということは、言うまでもなく、隷属するという意味である。

●現在の北朝鮮にある高句麗王を称えた「広開土王碑」には、「もともとは、新羅と百済は高句麗の属民で朝貢していたが、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民としてしまった。」と刻まれている。戦後、韓国の歴史学界は、この碑文を、旧日本陸軍が改竄(かいざん)したとして、全否定されていたが、その後中国の研究者たちが検証した結果、捏造ではないと立証されている。

●「日本書紀」にも日本が新羅・百済を支配していた記述がある。神宮皇后による、三韓征伐の記述は有名だが、これは日本では、架空の「神話」であるとなおざりにされてきた。しかし、韓国側、中国側の古代正史には、明らかに倭人の半島南部の恒常的な支配が記述されているわけだ。

このように、全く違った系統の歴史書で話が一致しており、中国・韓国・日本のどの文献にも、日本が朝鮮に支配された記述はなく、日本側が支配していた事は疑いようがない。これは、どちらが優位かとか、良い悪いの問題ではなく、歴史はどうだったのか、という事実の問題である。

(古代朝鮮半島の勢力図)

この4-5世紀半ばの朝鮮半島の地図だが、左は韓国の教科書。右が日本の教科書である。
韓国のには、任那日本府は書かれていないが、日本のには書かれてある。

▼朝鮮韓国や中国の歴史書に記載されている事項を、そのまま時系列的に列挙していくと大変興味深いことがわかる。先に示した事項も合わせて、先述のものと重複する部分もあるが、整理しながら一覧してみた。

●韓国の正史「三国史記」に日本のことが最初に登場するのは、紀元前50年である。そこで、「倭人が新羅を侵そうとしたが、短期戦で撤退した」とある。

●「紀元前20年、新羅は瓢公(ここう)を馬韓に派遣し、外交関係を結ぼうとした。瓢公は、もともと倭人である」、と記述されている。

●「西暦14年、倭軍が百隻余りで襲来。海岸の村落を掠奪した。新羅は撃退した。」

●「新羅に、四代王・脱解尼師今(とかいにしきん)・脱解王が即位。倭人である」と記述されている。多婆那国(倭の東方1千里とある。丹波国か。)出身で、姓は昔(せき)という。妻は阿孝婦人。

●「西暦58年、瓢公(ここう)は、春正月に、新羅の最高官位・大輔を拝命した」とある。あいついで、王と最高位の宰相がともに倭人(日本人)がなったということは、それだけ、対日関係を憂慮した末の、苦肉の策であったのかもしれない。

●「西暦73年、121年、208年に、倭軍が新羅を攻撃した」とある。

※ちなみに、中国の後漢書その他の正史によれば、西暦150年前後から、180年前後まで、倭国では大乱が起こっている。おそらくこれが、スサノオら出雲国を中心とした、原始大和朝廷が成立していく過程であるかもしれない。スサノオの側室が卑弥呼であるとしたら、卑弥呼が全盛を振るったのは、スサノオ-第五子ニギハヤヒによる、出雲・日向・大和の統一王朝成立後である。ニギハヤヒ没後に、卑弥呼の血統が統一王朝を継承していった。卑弥呼没年は243-247年ごろと推測される。

●ちょうど、卑弥呼が死ぬ前後、「西暦232年夏、倭人が突如新羅に襲来。首都金城を包囲したが、撃破した。」とある。日本の原始大和王朝成立後、新羅への倭人の攻撃は執拗なまでに繰り返されていく。

●「西暦233年、249年、287年、292年、294年にも、倭人は新羅に襲来。」とある。そこで「王は、むしろこちらから渡海して、倭を攻めたらどうかと臣下と相談したが、新羅は海戦に不慣れであるため、取りやめになった」、という記述が西暦295年にある。

●「西暦349年、倭軍は再び来襲。金城を包囲。」とある。これで倭軍による新羅首都包囲は二回目である。さらに「西暦364年、393年にも、倭軍は来襲。393年の来襲では、再び金城を5日間、包囲。」とある。

※この頃、朝鮮半島北部では、高句麗に好太王(広開土王の碑で有名)が登場した。即位は391-392年。没年は412年である。先述通り、広開土王の碑では、「百済は、もともと高句麗に朝貢し、臣下の礼をとっていたが、西暦391年、倭軍が百済・(磨耗して碑文解読できず)・新羅を破り、臣民にした。」とある。

▼三国史記によると、西暦397年、百済王は夏に、倭国と友好関係を結び、太子を人質として、倭国に送った。」とある。年号が微妙に齟齬をきたしているが、三国史記・広開土王碑ともに、この頃、「西暦400年、造反した百済を、高句麗が征伐し、服属させた。新羅から、倭軍に悩まされているので、救援を要請された。」とある。

●しかし、三国史記では、百済と同じく「西暦402年3月に、新羅が、奈勿王の子・未斯欣を、倭に人質を送った」とある。ということは、高句麗軍の西暦400年前後の半島南部遠征は、それほど実効性のあるものではなかったということになる。

●広開土王碑では、「西暦404年、倭軍が来襲し、高句麗軍と倭軍が帯方地方で戦闘状態にはいったとある。倭軍による侵攻である。が、三国史記には、これだけの大事件がまったく書かれていない。

●三国史記には、「西暦405年、百済の太子(倭に人質として居住していた)は、王の訃報を知った。倭王は、兵百名を伴わせ、太子を百済に護送し、帰国させた。」とある。

●三国史記によると、その後「西暦405年、407年、415年、431年、440年に、倭軍は新羅を攻撃した。」とある。この新羅攻撃は、過去のものも考えると、異様なほど執拗である。また、それだけの攻撃でも、新羅が陥落しなかったというのは、新羅がかなり強勢であったのか、高句麗軍の支援があったためか、それとも倭軍がそこまで実力が及ばなかったためか、わからない。あるいは、倭人は実効支配していたものの、新羅が執拗に反旗を翻したのかもしれない。これに比べると、百済はまだ親倭的なスタンスだったことが伺える。

●中国の宋書には、「西暦443年、倭王が朝貢してきたので、倭王に安東将軍倭国王の位を与えた。」とあり、さらに「西暦451年、倭王に使持節都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓慕韓六国諸軍事を加号した。」とある。つまり、宋の皇帝は、この段階で倭王に、朝鮮半島南部全域に及ぶ、軍政権の資格を与えた、ということになる。

●この当時はまだ日本は中国の王朝に対して臣下の礼をとっており(冊封)、度重なる新羅討伐を進める上でも、中国王朝から公的な軍政権の資格が必要だった、ということかもしれない。また、中国王朝のほうでも、半島南部における施政能力において、半島人諸国ではなく、倭人に与えたということは、すでに大量の倭人が半島南部にいたという実効支配性と、政治・軍事・経済の観点から見ても倭人が適当であるという認識だったのだろう。

●三国志では、「西暦444年夏、倭軍が再び新羅に来襲。首都金城を10日間包囲。新羅軍は討ってでたが、大敗。しかし、倭軍は撤収した。」とある。ということは、やはり新羅の倭人の支配は、決定的なものではなく、非常に長年にわたり、実効支配を進めることに難渋したということになりそうだ。新羅が、執拗に抵抗運動を繰り返したと読解するのが自然だろう。

●一方、任那・加羅といった半島最南部は、まったく戦闘の記述が無いことから、完全に実効支配しており、あるいは倭人の純然たる政権であった可能性が高い。百済もかなり恭順していたということになる。いずれにしろ、倭軍による新羅の首都包囲はこれで四回目である。

▼その後、倭軍は、459年、462年、463年、476年、477年、482年、486年、497年、500年と新羅侵攻を繰り返しており(三国史記)、この波状的な遠征は偏執的ですらある。

▼この後、中国では隋朝が成立するが、随書によると、「新羅も百済も、倭には大変珍しい文物が多く、また倭を尊敬しており、ともに使節を往来させている」とある。隋が成立したのは、581年である。三国史記で最後の倭人による新羅攻撃は500年であるから、81年の差があり、この間に、戦闘記録が無いことから、おおむね倭人の半島南部の実効支配あるいは、友好関係が珍しく長期間にわたって維持されていたということかもしれない。しかし、562年には任那は新羅によって滅亡させられているので、この西暦500年代、一体韓半島でなにが起こっていたのか、はっきりしない。ただ、結果からみれば、この西暦500年代に、倭(日本)の半島南部支配は揺らいで、退潮著しくなっていったと考えられそうだ。

▼というのも、この後、三国史記に倭人が登場するのは、いきなり白村江(はくすきのえ)の戦いの記述である。まず、西暦660年に、隋の後の唐と新羅の連合軍が百済を攻撃して、滅亡させている。そして、両軍は倭軍と衝突。663年に倭軍および百済の残党軍は白村江の海戦で捲土重来をはかるが、結局倭軍が敗退。倭軍は、朝鮮半島における橋頭堡を一挙に失った。

▼こうして、3世紀前後から7世紀に至る、四百年に及ぶ古墳時代に、日本は半島南部に深く勢力を押し出していたことは明らかであり、一般に日本人や韓国人が思っているような、すべては半島→日本列島の流れではなく、逆であったことがわかる。

▼日本が、積極的に大陸の文化を吸収していったのは、この後、飛鳥時代、平安時代である。古墳時代の末期、伝統的に祭祀を専横していた物部氏が滅び、海外との折衝を管掌していた蘇我氏が奪権して以降である。それだけ、隋そして唐という強大な帝国が大陸に登場したインパクトは大きかったということだろう。朝鮮半島から学んだのではない。唐が日本の大陸政策を大きく転換させたのである。

▼しかし朝鮮半島のような、唐の属国・植民地の境遇は選ばなかった。日本は、それまでの古墳時代に見せ付けた強大な軍事力と経済力(がなければ、これだけの夥しい遠征など維持できなかったはず)を基礎に、中国と対等な立場を固持した。例の聖徳太子が隋の煬帝(ようだい)に宛てた「日出る処の天子、日没する処の天子に・・・」によく表れている。唐の時代もその後も、半島の政権はつねに中国の皇帝に臣下の礼(冊報を受けた)をとっており、要するに属国に甘んじたが、日本は唐から一切冊封を受けていない。つまり、独立国を維持したのである。

続く


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