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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第370回・古代史の勉強〜DNAからみた日本人のルーツ(後編)

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【閑話休題】第370回・古代史の勉強〜DNAからみた日本人のルーツ(後編)

【閑話休題】

[記事配信時刻:2015-07-10 15:35:00]

【閑話休題】第370回・古代史の勉強~DNAからみた日本人のルーツ(後編)

▼さて、長い前振りはこのへんにして、話を本論に進めよう。このように、通説としてあるものを、文字通り鵜呑みにするのではなく、果たしてこれは事実か、間違いか、と疑問を持つことが大事なのだ。

▼なんでも、話をひっくり返せばよいというものではないが、それで新たな事実が判明することも多いのだ。

▼現在は、遺伝子研究が飛躍的に進歩しており、日本人のルーツについても、通説が覆されつつある。

▼言語学的には、以前この閑話休題で述べたように、字は漢字(中国から伝来)と、それをくずした仮名文字、文法は朝鮮語文法(というより、モンゴル、満州、ツングース、トルコに連なる、アジアの三日月地帯の民族語文法)がかなり濃厚に残っており、古い大和言葉には、大量に南方渡来のものが混在しているので、いわゆるハイブリッド(混血種)だと認識される。

▼しかし、言語というのは、必ずしも、血統やDNAと一致しない。それはそうだろう。日本生まれで日本育ち、日本語べらべらで、母国語もしゃべれなくなったフランス人の子供がいたとしても、彼のDNAはラテン系白人種を示している。

▼では、日本人のDNAというものは、一体どういうものなのであろうか。これまた一般には、朝鮮民族が大勢を占めていると思いがちだ。わたしもそう思っていた。多数派を占めるであろう朝鮮半島人のDNAが多いと考えがちなのだが、この見方は現在見事に破砕されつつある。

▼日本人の大勢を占める血統というものと朝鮮韓国、中国人たちと、どうも違う種らしいということが近年のDNA分析によって明らかになってきているのだ。その原因が、縄文人の存在だ。古墳時代の前である。

▼縄文人は、古代日本にあって、1万6500年前から、3000年前まで非常に長い歴史をもっている。そして、その縄文時代の末期に次第に大陸から渡来した弥生人(朝鮮民族、漢民族、モンゴル族、ウイグル族、トルコ系、あるいはその他のツングース系など雑多)と、この二種類が現在の日本人の大勢を占めていると考えられてきた。縄文人の時代は、驚くべきことに1万年の長きにわたっている。

▼そして縄文人の時代から、弥生人の時代への移行期というのは、ちょうど中国の周王朝から、春秋時代にかけての頃に該当する。完全に弥生時代に移行したのは、中国では戦国時代である。

▼しかし、この縄文人が現在のわれわれ日本人に一体どういう影響を与えてきたのか、縄文人とはそもそもどういう人たちなのか、ということは、これまでほとんどわかっていなかったといっていい。以下、以前NHKで放送された日本人のDNAに関する番組を、換骨奪胎して、紹介しておく。

▼静岡県三島市にある国立遺伝学研究所の分析がある。斉藤成也教授は、アジア人から数千人単位でサンプルを取り、DNAの分布を座標に表してみた。それによると、中国人(漢民族)、韓国人などの分布が、かなりまとまっているのに対し、日本人のそれは、かなり彼らから逸脱した広い範囲に分布していることがわかった。

(東アジア人のDNA分布)

ご覧のように、日本に住む沖縄人、アイヌ人は、連続した分布となっているものの、明確に漢民族・朝鮮民族と分布は異なっている。

▼そこで、斉藤教授の仮説は、図表にある日本人のDNA分布図(右肩上がりで楕円形に分布)の一番右上のあたりに、縄文人のDNAが位置しているのではないか、というものだ。

▼縄文人は日本列島全域に居住していたことが、その土器からわかっている。従って、縄文人こそが日本人のDNAの分布を決定づける大きな意味を持っていることは間違いない。

▼茨城県つくば市の国立科学博物館の神澤秀明研究員は、福島県の貝塚から発掘された縄文人の歯からDNA分析を行ったところ、先述の斉藤教授のつくった分布図と重ね合わせた。すると、縄文人のDNAは、やはり日本人の分布図の右上に位置していて、日本人全体のDNA分布を、東アジア人のそれとかなり異なり、日本列島人としてかなり違ったものにしているということがわかってきたのだ。つまり、縄文人によって日本列島人のDNAが、アジアと大きな違いを生んでいるということだ。

▼そうなると、縄文人とは一体誰なのか、ということになる。この答えを解く鍵は、男性にだけ受け継がれるY染色体であった。Y染色体とは、父親から息子に、代々男性にのみ受け継がれる遺伝子であるから、これを遡ることで、男性の血統の先祖を辿ることができる。

(Y染色体の系譜)

▼すでに世界中でこのY染色体の研究が進められているが、現在までのところ、もともと一人のY染色体の持ち主(男性)から、世界中の男性が分派してきた系譜が割り出されている。その種類は、AからTまで、大きく分類すると20種類だ。

▼このうち、一番古いと考えられるY染色体は、アフリカに多い。驚くべきことに、日本人のDNA区分によると、この古いDの人がいるというのだ。従って、日本人にはかなり人類の先祖に近い部類の男性が、来ていたということになる。

▼徳島大学大学院医師薬学研究部の佐藤陽一準教授が、遺伝的な病気の研究のために、2000人以上の日本人男性のY染色体を分析した。これによると、日本人の男性のおよそ半分、53.9%は中国や朝鮮半島に普通に見られるO(弥生人)というY染色体のタイプだそうだ。ところが、32.2%はこのD(縄文人)というタイプなのだそうだ。この二種類で、日本人男性の86.1%を占めていることになり、その他は13.9%にすぎない。

▼問題は、このDの多さである。なぜなら、このDというタイプのY染色体は、韓国や中国では皆無といっていいほど見られないものなのである。しかも、上述の通り、Dというのは、Y染色体の分岐においては、相当古い段階で分岐した種類と考えられるため、おそらくこのDタイプの人が、いわゆる縄文人であろうと推察されるわけだ。

▼つまり、Y染色体から考えられるのは、まず日本にはDタイプの縄文人がいて、後に大陸からOタイプの弥生人が渡来してきた、という構図になる。この二種類が、縄文時代・弥生時代を経て、いわゆる先述の古墳時代を形成し、盛んに朝鮮半島に進出していたわけだ。

▼興味深いことに、このDタイプという、人類史上もっとも古い部類の男性Y染染色体の人が多くいる地域というのが、実は世界で日本以外にわずか二箇所だけある。それは、チベットと、インド洋上のアンダマン諸島である。

▼日本人の3割超の男性については、その父親をずっと辿っていくと、最終的にはチベットやアンダマン諸島の人たちに行き着くということだ。

▼もともとアジア全域にDタイプ(縄文系)の男性は広く分布していたのだろうが、次第にOタイプ(弥生系)の男性が数的に支配的となっていったと仮説される。チベットのような、陸の孤島、アンダマン諸島や日本列島のような島嶼国のように、外界と隔絶された地域では、このDタイプ(縄文系)が高頻度で残ったというのが自然な解釈のようだ。

▼このように、日本人のルーツというものは、確かに大陸渡来の弥生人が半分を占めているものの、他の東アジア民族と決定的に違うのは、なんといってもその前に列島に存在していた、縄文人であり、これが日本人の祖形になったということだろう。

▼この縄文人は、三内丸山遺跡で明らかになったように、一般に大陸から持ち込まれたと日本人が思い込んでいる稲作を、水耕田ではない方法で、すでに盛んに行っていたことが判明している。弥生人以前である。なんでもかんでも、大陸から持ち込まれたなどと、先入観で考えないことだ。

▼ましてや、縄文土器は、驚くべきことに南太平洋のバヌアツで、同じものが多数出土しており、縄文人が刃につかった黒曜石のヤジリなども出土していることからみて、南方からもかなりの縄文系(Y染色体のDタイプ)の人々が列島に来ていたか、あるいは逆にこちらから南太平洋に散っていったのか、いずれにしろ相当の海洋民族であったことが推測される。

▼実際、南米エクアドルのバルビディア遺跡で、おびただしい「縄文土器」が発掘されたのである。その形状、製作方法など完全に「縄文土器」なのである。これを発掘調査している米国研究団は、仮説ではあるけれども、日本列島の縄文人たちが、8000kmの海を渡って、エクアドルまでこれを伝播したとしている。

▼なぜなら、バルビディア遺跡の時代はその中心が紀元前3000年なのである。つまり、日本列島の縄文時代の末期に当たっている。弥生人が逐次列島に流入してきたことで駆逐された縄文人の一部が、太平洋を渡った可能性は確かに高い。

▼そんなことができるわけがない、と思うのは、現代人の発想の貧弱さである。何世代にもわたって、移動が続けられたのである。バヌアツ、エクアドルだけではない。ポリネシア、ミクロネシア全域、そしてニューカレドニア、パプアニューギニア、イースターでも発見されている。縄文人というのは、とんでもない海洋民族であったということになる。対馬海峡を渡るくらい、物見遊山ていどの安易なものだったに違いない。つまり南方から来たというばかりではなく、後には縄文人が南洋に散っていったということも、十分考えられるということだ。

▼この縄文人の長い時代の後、大陸から弥生人たちが入ってきた。確かに彼らは、縄文人には無いものもたくさんもっていた。それが、スサノオを筆頭とする出雲系の原始王朝を打ち立てゆき、縄文人(その直系子孫であるアイヌ人たち)を駆逐していくことになる。スサノオたちは、ちなみに朝鮮系ではない。モンゴル系である。その本名フル、フトゥなどから、明らかだ。

▼いわゆる弥生人を始めとする縄文人以降の渡来人には、モンゴル系の原始大和朝廷ほか、多くの支配階級になっていったものがある。たとえば、ずっと時代を下るが、平氏はペルシャ系の可能性が高いとされているし、平安時代に強大な勢力を誇った秦氏などは、ユダヤ系、ネストリウス派のキリスト教徒集団であったとも言われる。が、不思議なことに、そうした有力な支配階級に、有力な朝鮮族の痕跡はほとんど無い。渡来人数としては、百済の難民や、半島南部の任那一帯に居住していたものも含めれば、かなりの人数になったはずだが、大変不思議なことである。

▼さて、このように弥生人が列島全域を支配していゆき、時代は弥生人がリードする格好で、縄文・弥生人が混交していき、日本という原型がつくられることになる。その原型が出来上がったところで、いわゆる先の古墳時代が到来したのである。スサノオの時代である。

▼そこで、古代史の解き明かす最大のポイントが鉄器文化である。縄文人は石器のみで、鉄器を知らず、中国などから学んでいたというこれまた一般通念がずっとこれまではびこっていたわけだが、これもどうやら違うらしいということがわかってきた。

▼従来、弥生人が鉄器を持ち込んだのだ、というのが定説であった。魏志倭人伝には、卑弥呼の時代に鉄の鍬(くわ)を倭人が使っているという記述があるが、これは中国から入手したものだろう、といったようにも確かに思える。しかし、もっとはるか昔、縄文人の時代にすでに鉄の鋳造は行われていたのだ。ところが、圧倒的に量が少なく、石器との併用時代だった。

▼そして弥生人の流入で、ますますこの鉄器というものの重要性が認識されたことはいうまでもない。すでに、戦国時代、中国は世界的にも最大の製鉄国家になっていたのだ。おそらく、鉄器を大量に持ってやってきた弥生人の前で、縄文人たちは支配屈服させられていったと推察できる。それが、スサノオの八岐大蛇(やまたのおろち)伝説に仮託されたのであろうし、弥生人とはまさに出雲を中心とした原始大和王朝の成立過程とみなしてよさそうだ。

▼一方、中国へは朝鮮半島南部から盛んに鉄の原料やインゴットが運ばれたことがわかっている。良質な鉄素材が、半島南部に分布していたのだ。その中心は、加羅、そして任那である。ところがどういうわけか半島人は、この鉄に注目せず、ひたすら青銅器ばかりをつくっていた。逆に半島南部に産する良質の鉄原料に目をつけたのは、漢民族以外では倭人だった。

▼こうしてみると、何ゆえ、弥生・縄文の混交が終わり、いわゆる日本人の祖形が出来上がった古墳時代に、執拗に朝鮮半島南部に進出を試みていたのかが見えてくる。鉄の原料とインゴットの争奪戦にほかならない。

▼この鉄の重要性と、半島南部の鉄素材の分布をよく知悉していた弥生人。海峡を自由に往来できる海洋技術を持っていた縄文人。この二つの血統によって成立していた原始倭人が、先述のように執拗に半島南部に勢力を拡大していったというのも、これで理解ができる。

▼加羅・任那は、わずか500年の間に、中国や高句麗と伍していけるだけの国力を培っており、それには倭人たちが深く関わっていたことは間違いない。この倭人の既得権益である鉄生産地を奪取するために、新羅と唐は、全力でかかってきたということになる。

▼やはり大唐帝国の出現が、日本にとっては衝撃だったのだろう。そのため、古墳時代以来の伝統であった原始大和朝廷が退場し、伊勢の大神をつくりあげて、強力な中央集権国家へとステージアップを図ったのが、飛鳥・奈良時代ということだろう。聖徳太子から推古天皇に至るプロセスだ。ここに技術力と経済力で、新たな大和朝廷の成立に貢献したのは、先の秦氏の一族である。稲荷も八幡も秦氏の立てた神社である。

▼それには、大きな社会変動と内乱を経なければならなかった。その間隙を突かれるように、日本は半島南部の勢力圏を奪われたという構図である。そしてこの強大な大唐帝国に侵略されることを恐れ、対等にして互角の独立性を必死に保ち、むしろ唐からかつてない海外文化の積極輸入に方向転換したという経緯が推測できそうだ。

▼長い長い閑話休題だが、どうだろうか。これで、遠い時代、そして日本と朝鮮半島との一番最初の係わり合いというものの、その発端が一体なんであったか、かなりはっきりしてきたではないか。なにゆえ、半島南部に前方後円墳が多数出土しているのか、ということも、これなら十分理解できるというものだ。状況証拠からすれば、百済などはほとんど倭人国家といってもいいくらいだ。唐・新羅連合軍に対して、百済と倭人が白村江の最後まで共同戦線をとりつづけたのも、友好国以上の深い関係(血のつながり)があったとすれば、容易に理解できる。

▼当時、半島人にとって不幸だったのは、日本の古墳時代のような統一王朝が存在せず、小国分立をしていたことだ。鉄を産するのに、なぜか青銅器に固執したのも不可解だ。なぜ、古代の半島に統一王朝が成立しなかったのか。そもそも朝鮮民族とはなんなのか。これは今後の課題だろう。

▼縄文時代というと、先入観から石器だけを使った原始人の時代と思いがちだが、こうしてみると、いかにこうした常識が、でたらめかがわかってくる。これも近年の内外の遺跡発掘で、次第に明らかになってきたことだから致し方ないが、そういった事実に興味を持たないと、いつまでたっても、本当の日本の古代史というものも、ルーツもわからない。

▼考えても見るがよい。この驚くべき、稲作も鉄器も持っていた縄文人である。8000kmの大海原を世界に散っていった縄文人である。それは、紀元前1万6500年前から、3000年前までである。エジプトなど、たかだか紀元前3000年前である。メソポタミアなど、たかだか紀元前3500年前である。いかに、日本の縄文文化というものが、古いものかわかる。古代エジプト人には、8000kmの大海原を渡ったためしなど、到底なかろう。常識はまず、疑ってかかろう。

増田経済研究所 日刊チャート新聞編集長
松川行雄




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