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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第59回・エトランジェ

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【閑話休題】第59回・エトランジェ

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2013-05-28 17:30:00]

【閑話休題】第59回・エトランジェ


▼エトランジェ。異邦人という意味だ。自分の国のためにさえ、命を賭ける決意と覚悟を持つことは難しい。ましてや、異国の地でその選択をするということなど、考えもおよばない。

▼19世紀を代表するフランスの画家、ドラクロアの名画『民衆を導く自由の女神』は、誰しも一度は見たことがあるだろう。1830年のパリ7月革命を題材にしたものだ。半裸の女性が、死体を踏み越えながら、三色旗をかざして民衆を鼓舞している絵画である。画中、シルクハットをかぶり、マスケット銃を持っているのがドラクロア自身だとも言われている。自由の象徴であるこの通称「マリアンヌ」と呼ばれる女性は、仮想の人格とされているが、実際のモデルが実は英国人女性だったことは意外に知られていない。

▼砲弾と銃声が響く中、7月27日から続く「栄光の三日間」と言われるクライマックス。王党派のバリケードを突破するため、最後の攻勢をかける群集の先頭に立っていた1人の女性が目撃されている。「恐れずに進むのです。もし私が倒れたら、どうかこの三色旗をお願いします」・・・。その後の運命は誰も知らない。おびただしい同士たちとともに、倒れたのかもしれない。彼女がフランスとどういう縁を持っていたのか、持っていなかったのか。無名の1人の女性の歴史は、ページの行間に埋もれたままで、永遠に知られることはない。なぜ、革命の瞬間に彼女が立っていたのか。その選択とは、いったいどういう意味だったのか。

▼このような異国で命をかけた例は、数知れない。心を動かすのは、何も革命ばかりではない。ビジネスマンとして、密かにその国の発展に熱い思いを抱きながら、日々黙々と異国で仕事をしている人々もいる。

▼第二次大戦中のことだ。インドネシアは日本の軍政下にあった。総じて日本軍によるインドネシア軍政は、軍民ともにインドネシアの独立を前面に押し出していた。この点、中国戦線やフィリピン戦線とは決定的な違いがあった。今村均(いまむら ひとし)大将による軍政は、基本的に国際法に準拠したもので、公正を旨とする点で一貫していた。戦後、連合国からも高い評価を得ているのは確かだ。大本営からは再三にわたって、強圧的な軍政にすべきだとして批判を浴びた。だが、「これは侵略ではないはずだ」の一言で、今村大将は頑として拒否した。

▼今村大将は、後にラバウルに転任していったが、その意を汲んだ軍政府も同様だった。日本軍は、インドネシア占領直後に、それまでオランダ殖民政府に拘留されていた独立運動家のスカルノ、ハッタらを解放し、「独立準備委員会」を設置。実力部隊として、インドネシア独立軍(正式にはPETA=郷土防衛義勇軍。後のインドネシア正規軍の母体)を創設して、精鋭強化に努めた。

▼日本が無条件降伏をした翌日、8月16日の23時頃、スカルノ、ハッタらは前田精海軍少将邸に集まり、すでに起草されていた憲法前文の独立宣言採択。8月17日の10時頃、スカルノ邸でインドネシア共和国独立宣言を、英蘭連合軍の許可を得ずに行なった。

▼だが、日本の敗戦後、混乱もあった。日本軍は連合国から武器弾薬をすべて連合国軍に引き渡すように命令されていたが、総じて日本軍は非協力的であった。自分たちが育てあげたインドネシア独立軍に、横流しをする部隊。撤退しながらわざと武器弾薬を放棄して、追尾してくるインドネシア独立軍に事実上、引き渡していった部隊。ときには、連合国との板ばさみになって、引渡し要求を迫るインドネシア群衆との間で、戦闘が起こったケースもある。

▼そのような状況下、ジャワ島東のセマランでは悲劇が起こった。セマランは人口の半分が中国系で、もともと反日感情が非常に強い特殊な地域だった。同時にそれは、共産主義者の支配地域とオーバーラップしており、邦人居留民の安全が懸念された。共産党過激派は、日本軍民に限らず、インドネシア人でさえも、共産党にくみしない者は、拉致・監禁・虐殺などを行なった。

▼昭和20年10月14日の夜、インドネシア人たちが日本人の住宅地に来て、ここは危険だから、と日本人を連れ出し、市内のブル刑務所に入れた。多くの日本人はインドネシア人に従ったが、連行されることに不安を感じた人たちは、それを振り切って日本軍のいる所に逃げ込んだ。このブル刑務所への誘導が生粋のインドネシア人主導によるものだったのか、圧倒的多数を占めていた華僑主導によるものだったのかは不明である。

▼いずれにしろ、機関銃や手榴弾まで使われ邦人が連行されたと聞いて、英・蘭連合軍に降伏するため待機中だった日本軍は、その夜半に出動した。逆にこれが引き金となり、インドネシアの暴徒は、刑務所に送り込んだ日本人を襲った。百数十人の日本人が殺され、60人が行方不明。このとき、かすかに息が残っていた阿部頌二(あべ しょうじ)という青年が自分の身体から流れる血で壁に、次のような文を書いた。

バハキヤ・インドネシア・ムルディカ(インドネシア独立に栄光あれ)
インドネシア独立喜び死す
日本人万歳 大君…

日本軍とインドネシア独立軍の一隊がブル刑務所に駆けつけたときには、虐殺が終わった後だった。刑務所の壁には、阿倍青年の「血書」があり、ジャカルタからやってきた軍政監部政務班長の斎藤鎮男や独立政府の国務大臣を務めていたサルトノも実際に見ている。

▼この血書は、阿倍青年の死体の下で、まさに虫の息で倒れていた高見角次郎によって明らかになった。高見は、山梨県身延山の駅の助役をしていた人物である。そして、血書の本人、阿倍青年は、山形鶴岡市湯野浜出身。森永乳業に勤務していた。ジャワ、スマトラにあった森永農園駐在。享年二十七歳。インドネシアを愛し、独立を願っていた一人の青年が、断末魔の中でしたためた血書は、ただちに独立政府スカルノ大統領に報告された。

▼その後、日本軍の将兵の中から1000人前後が残留し、インドネシア独立軍に参加。英・蘭連合軍と4年の戦争を続行、700人が戦死した。すべてが、純粋にインドネシア独立のために残ったわけでもなかろう。戦犯容疑を回避する理由の人もいただろうし、国に帰っても身寄りがないなどという人もいただろう。ただ、彼らがインドネシアの独立に賭けたことは事実だ。

▼独立戦争で倒れた日本将兵は、現在カリバタ国立英雄墓地に眠っている。生存者はわずか9名と聞くが、皆かなりの高齢だろう。いまでも、独立記念日の式典には正規軍の軍装のみならず、旧日本軍の軍装も用いられている。インドネシア独立軍が、旧日本軍の軍装だったからにほかならない。

▼昭和24年12月、ついにインドネシアは350年ぶりにオランダから独立した。 阿倍青年の父・阿部松五郎氏は、昭和33年に日本を訪れたインドネシア共和国スカルノ初代大統領に招待を受けている。軍属でもないまったくの民間人が、異国の地で運命の岐路に立たされたとき、いったいどのような覚悟を持てるものだろうか。

増田経済研究所
「日刊チャート新聞」編集長 松川行雄




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