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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第88回・カメラ・アイ(前編)

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【閑話休題】第88回・カメラ・アイ(前編)

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2013-07-08 17:30:00]

【閑話休題】第88回・カメラ・アイ(前編)


▼ロバート・キャパという戦場カメラマンがいた。ハンガリー系のユダヤ人だが、スペイン内戦に従軍した際の、「崩れ落ちる兵士」の写真で有名だ。この写真は、1936年7月12日号のLIFE誌に掲載された別名「死の瞬間の人民戦線兵士」のことである。ところが、実は、ロバート・キャパなどという人間はいなかったのだ。

▼ロバート・キャパはそもそも本名ではなく、アンドレ・フリードマンが本当の名前である。しかもキャパは、もう一人いた。弟のコーネル・キャパだ。弟のほうは、コルネール・フリードマンといった。兄弟でキャパを名乗ったから、分かりにくい。さらに言えば、キャパが撮った写真と言われているもののうち、初期のものは恋人のゲルダ・タロー(本名ゲルダ・ポホリレ、ポーランド系ユダヤ人)との共同作業であったから、どこからどこまでがキャパ本人(兄のアンドレ・フリードマン)の写真なのは不明である。

▼戦争カメラマンとしてあまりにも有名なロバート・キャパは、実は三人の作品が混在していることになる。ある程度は分別されているようだが、初期のものはどうにも区別ができないようだ。とくにゲルダ・タローと暮らした時期のものは、まったく区別がつかないらしい。

▼「崩れ落ちる兵士」によって一躍、ロバート・キャパの名前は世界に知られることになった。ところが、この写真は偶然、足が滑って転ぶ兵士を前から撮っただけ、なのだという。さらに、撮ったのはロバート・キャパではなく、恋人のゲルダ・タローだったというのだから、二度驚く。このことは、NHKの特番(沢木耕太郎推理ドキュメント)などによって、詳細に検証されている。

▼そもそも、「ロバート・キャパ」なる架空の人物を作り上げようとフリードマ
ンをそそのかしたのは、ゲルダ・タローだった。ちなみに、このゲルダ、なぜ
このような名前を名乗っていたのかというと、戦前パリで岡本太郎と交友があ
り、TAROという東洋的なその発音に魅せられてタローと名乗ったのだそう
だ。

▼ゲルダはスペイン内戦のとき、混乱するブルネテの戦線において負傷者をトラックに運んでいる最中、暴走してきた共和国軍の戦車と衝突。重症を負い、野戦病院で死亡している。当時、フランコの反乱軍(ファシスト)は、ブルネテが自分たちの支配下にあると世界に主張していたが、真実はゲルダが残した多くの写真に残されていた。ブルネテはまだ共和国軍が制圧したままだということが、写真で明らかになったのだ。その中には、彼女自身が遺体として野戦病院の台の上に横たわっている写真も含まれていた。1937年没。享年27。

▼ともあれ、二重の「うそ」をついていたロバート・キャパは、自分を一躍有名にした写真について、生涯ほとんど語ることはなかった。後ろめたかったのだろうか。無理はない。ただ、その後のキャパの仕事は、戦場カメラマンとしてはまさに「偉業」と言えるものだった。

▼スペイン内戦( 1936~1937年)、日中戦争( 1938年)に始まり、第二次大戦( 1941~1945年)を経て、1954年5月25日、インドシナ戦争の最中のベトナムで、仏軍の地雷除去作業に同行。このとき、安全を確認したはずのエリアで地雷を踏み、絶命した。左足は吹き飛び、胸はえぐれていた。まだしばらく息はしていたらしい。コンタックスは左手に握ったままだったが、右手で持っていたニコンは行方知れずになった。最後に撮った写真が、カメラに収められていたが、それは稲田に沿って地雷を探知しながら歩いていく仏軍兵士たちの後ろ姿を写したものだ。この1枚の直後に、キャパは地雷を踏んだ。享年41。

▼キャパは死ぬまでに、伝説的な写真を世の中に送り続けた。その中に、「最後の一人、Last man to die.」という写真がある。(後になってみれば)ドイツ降伏まであと20日というときだった。場所はドイツ領ライプツィヒ(ゲルダが育った町)。二人の米兵が、アパートの二階のバルコニーに重機関銃を設置し、ドイツ兵残党のスナイパー(狙撃兵)から、友軍の渡河行軍を援護しようとしていた。

▼米兵の一人が撃たれ、バルコニーから部屋の中に仰向けに倒れこんだ。キャパは駆け上がって、その兵士を撮った。すでに絶命していたが、おびただしい血が生き物のように床に広がっていく、不気味にして悲惨な一枚だ。ドイツ軍のスナイパーが、最後の抵抗を必死でしようとしていたのか、それとも恐怖にかられ、ただ流し撃ちをしたら、たまたま当たってしまっただけなのか。はっきりしていることがある。その米兵一人が死ななくとも、ドイツの無条件降伏は不可避だった、ということだ。なにしろヒトラーが自決するまで、あと20日だったのだ。

▼そのような局面で、米兵の死はあまりにも無益な死であるとも言える。が、戦争とは、しょせんすべてが無益な死の集積なのだろう。キャパの一枚は、その冷徹な事実を見事に訴えている。

▼かつて、ワーテルローの会戦( 1815年)でウェリントン将軍は、からくもナポレオンを撃破して英雄となった(後に英国首相にもなった)。会戦直後に、凄惨な戦場をつぶさに視察しながら吐き捨てた言葉が有名である。「戦争に勝者も敗者もない。みんな負けるんだ」。

▼キャパが、「最後の一人」にこめた思いは、誰にも分からない。あの写真が与えるさまざまな解釈や受け止め方に、キャパは興味があったのだろうか。おそらく(勝手な想像だが)、彼はただ、戦争を撮りたかっただけなのだ。事実をフィルムに収めたかっただけなのだ。
(以下、明日の後編に続く)

増田経済研究所
「日刊チャート新聞」編集長 松川行雄



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