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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第89回・カメラ・アイ(後編)

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【閑話休題】第89回・カメラ・アイ(後編)

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2013-07-09 17:45:00]

【閑話休題】第89回・カメラ・アイ(後編)


▼あるプロの従軍カメラマンから話を聞いたことがある。なぜ戦場へ行くのか。中には人道主義者や平和主義者もいるだろうが、ほとんどはその最大の動機が、世界をあっと言わせるような1ショットを撮りたい、その一心にある。とにかく、世界に自分の名を轟(とどろ)かせたいという、野心だという。そうだろう。でなければ、尋常の神経ではつとまらない。

▼彼が言うには、戦場に立てば当然怖いという。体中に震えがくるそうだ。ところが、いったんファインダーを覗くと、どういうわけかその恐怖心が消える。撮らなければという思いが猛然と湧き上がるというよりは、ほとんど機械的にシャッターを押しまくるらしい。その間、自分に弾が当たるなどとは考えもしないのだそうだ。不思議な仕事である。

▼強烈な1ショット、それだけを彼らは欲している。キャパも生前、自分が撮った写真をアートだとは思っていなかった。なぜなら、アートは時間とは無縁の世界だからだ。アートは無限、永遠の世界である。しかし、キャパは、その瞬間にこだわった。

▼日本で、戦争カメラマンとして有名なのは、沢田教一だろう。青森出身の沢田は、UPIの支局員となって、香港を根城にインドシナ戦線に赴いた。上司は「不必要なチャンスに賭けるな」と、日ごろから口をすっぱくして諭していたようだが、けっきょく沢田は1970年10月28日に、カンボジアの国道2号線でクメール・ルージュ(カンボジアの赤いクメール)に狙撃され死んだ。享年34。

▼沢田の写真では、銃弾の中、河を渡って逃げてくる母親と子供たちを撮った「安全への逃避」が、ピュリッツァー賞を取った。しかし、私はアメリカ軍のM113装甲兵員輸送車が、ベトコンの死体を引きずっている写真「泥まみれの死」に何より衝撃を受けた。沢田に、ベトナム反戦のイデオロギーがあったかといえば、否である。しゃにむに、ライカで最高の1ショットに迫ったのだ。

▼戦場カメラマン。これほど人間の矛盾で成り立っている仕事も珍しい。恐らく、戦争という極限の世界の一断面を、写真という技術によって切り取ってくるためには、ヒューマニズムや平和主義といったイデオロギーは邪魔なのだろう。理屈ではそう思っていても、現実に銃弾や砲弾が飛び交う中に身を置くには、もっと原始的な本能、もっと直接的なエゴがなければ、「最高の1ショット」はきっと撮れない。

▼1960年代後半から1970年代にかけて、インドシナ半島で行なわれた戦争に日本は直接参戦をしていない。にも関わらず、従軍記者の死者数はアメリカに次いで2番目に多かった。

▼最前線の戦場に赴く場合、新聞社の社員である記者やカメラマンが赴くことは少ない。死亡したときなどに発生する費用や社会的リスク(批判)を会社が負担しなければならないからだ。その点、フリーランスで活動している記者やカメラマンたちは、メディアの依頼で危険地域に取材に出ることが多い。その分、死ぬリスクも高くなる。安定した収入が保証されているわけでもなく、死んだときの保険もないから、一段と1ショットに賭ける意気込みは違ってくる。こういう従軍記者やカメラマンを、「ストリンガー」と呼ぶ。

▼日本のストリンガーで有名なのは佐賀出身の一ノ瀬泰造だろうか。やはりインドシナ戦線に赴いたが、戦火はベトナムからカンボジアに飛び火。クメールルージュの支配下にあったアンコールワットが、一体戦火でどうなってしまっているのか、世界中の注目を浴びていたころだ。そこで一ノ瀬は、単独でのアンコールワット潜入を試みた。1973年11月のことだ。友人宛ての手紙には、後に有名になった言葉が書かれていた。「うまく地雷を踏んだら“サヨウナラ”!」。一之瀬はそのまま、消息を絶った。

▼9年後の1982年、一ノ瀬が棲(ひそ)んでいたシュムリアップから14km離れた、アンコールワット北東部で遺体が発見された。生き残っていた村人の話では、クメールルージュに捕らえられ、しばらく村で軟禁状態となっていたらしい。昼間は比較的自由だったようだが、夜は鎖でつながれていた。自分の分身ともいえるニコンのカメラを奪われたことに猛抗議し、それが反抗的だということで、けっきょく11月22日か23日に処刑された。享年26。

▼アンコールワットへの単独潜入が無謀だというのは、明らかだ。UPIの支局員だった沢田と違って、一ノ瀬には強大な組織のバックアップがなかった。情報は決定的に不足していた。しかし一ノ瀬にとってそんなことは、分かり切っていたはずである。当時の日本は学園紛争が終り、反戦運動も下火になった「シラケ」の時代に入りつつあった。そのような時代の流れに我慢がならなかった一ノ瀬は、少数派の道を選んだ。

▼ヒューマニズムのためにカメラマンになったのではない。どの時代にでもいるある種の若者と同じように、爆発しそうなエネルギーの燃焼を、ただインドシナに求めただけなのだ。死の直前、母親に宛てた手紙には、「アンコールワットが撮れなくてもいい」と書き残している。何か、微妙な心の変化があったのだろうか。

▼一ノ瀬が撮ったアンコールワットの1ショットは、果たしてあったのか、なかったのか。いずれにしろ、その事実は永遠に埋もれてしまった。そして、志半ばで逝った若者の多くと同じように、その生き方に憧れる若者たちの神になった。彼の遺志にかかわらず・・・。

増田経済研究所
「日刊チャート新聞」編集長 松川行雄




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