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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第104回・花火

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【閑話休題】第104回・花火

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2013-07-31 18:00:00]

【閑話休題】第104回・花火

▼夏の風物詩と言えば、花火だ。直径約90cmの三尺玉ともなると、スカイツリーと同等の600メートルまで到達するそうだ。ちなみに、これは花火が打ち上がる高さだ。三尺玉の到達点を中心に、そこからさらに花火が開くので、花火そのものの頂点はもっと上だということになる。三尺では約880mに達する。横の広がりも凄い。「片貝まつり浅原神社 秋季例大祭奉納大煙火」(新潟県小千谷市)では、世界最大経の正四尺玉が地上800mまで打ち上げられるそうだ。

▼いわゆる「花火師」というのは俗称で、免許などの資格はない。ただし、業界団体である社団法人日本煙火協会が、煙火消費従事者の技能を証明するものとして「煙火消費保安手帳」を交付。この手帳の所持者が花火師ということになる。現在この手帳を所持している人は全国で1万5000名程度いて、その内、女性も約1000名いるという。

▼ヨーロッパでは、16世紀頃には花火が打ち上げられていたらしい。ただ、向こうの花火は、筒型のシリンダータイプで、貴族がお城で打ち上げるものだったので、高度が低いそうだ。お城のライトアップの意味合いもあったらしい。日本の納涼花火という概念はないようだ。ただ、お祭り、とくに鎮魂の意味合いは海外でもあるという。

▼日本では、1613年に英国王の使者ジョン・セリスが江戸幕府初代征夷大将軍、かの徳川家康に献上したという『駿府政事録』の記録が最も古く、これが最初とされてきた。ただその後、『仙台藩資料大成』収録の『伊達家治家記録』に、1589年には米沢城で伊達政宗が唐人による花火を楽しんだ、との記述が発見された。

▼どちらが先かはともかく、どうやら戦国末期から江戸初期あたりに、花火が普及し始めたということらしい。戦国時代の終焉とともに、刀、鉄砲、火薬といった軍事技術の民間転用の精華の一つが、この花火だったと言われている。

▼「た~まや~」とか、「か~ぎや~」といったかけ声は、両国川開きで人気を競った花火師の屋号だ。そもそも玉屋は、鍵屋で番頭を務めていた腕のよい職人が独立し、暖簾分けしてもらった分家である。屋号も、鍵屋が守護神としていた鍵屋稲荷の祠(ほこら)に祀(まつ)られている狐の一方が「鍵」を、もう一方が宝珠の「玉」を持っていることに由来するという。

▼以降、玉屋は1810年から両国の川開きで鍵屋とともに花火製作を担い、鍵屋をしのぐほどの人気を博したのだが、1843年に出した火事が原因で玉屋は江戸を追放された。掛け声は残ったが、一代限りで滅んでしまったことになる。ちなみに鍵屋は、現在にいたるまで15代続いている。

▼気になる花火の値段だが、開花したときの直径が100メートルとなる3号玉で1つ4000~5000円、150メートルの5号玉で1万5000円と意外に安い。7号玉になると3万円から、10号玉(尺玉)で10万円以上となるが、開花すると450メートルにもなる20号玉( 2尺玉)は80万円程度と一気に値段が跳ね上がる。もちろん、これは花火玉単体の値段で、打ち上げのための設備や人件費、警備などの経費も当然必要になってくる。1万発の規模で5000万~1億円ほどの費用がかかるようだ。

▼せっかくの花火である。写真に収めたくなるのは人情。ところが夜だけに、結構難しい。そのへんに詳しい人によると、デジカメで撮影する場合、撮影モードに「花火」があれば迷わず選択することだそうだ。ない場合は「夜景」モードにして、シャッタースピードを遅め( 3秒程度)になるようにするという。花火は火薬が燃える光の軌跡なので、短時間だと光の点しか写らず花火らしい画にはならない。シャッタースピードが遅いので三脚は必須。フラッシュは無意味なので、発光しないように設定しておかなければならない。なお、花火は思っている以上に明るいので、ISO感度は100など低めで良いそうだ。

▼かつて1987年、まだドイツが東西に分かれていた時代。西ベルリンで行なわれた「ベルリン市制750年祭典」で、7千発の花火が夜空を彩った。花火師の佐藤勳氏らが打ち上げたものだ。初めて見る日本の花火の美しさにベルリン市民は深く感動したらしい。しかし、それ以上に市民の心を打ったのは、佐藤さんの記者会見での言葉だった。

「ベルリンの地上には壁がありますが、空に壁はありません。日本の花火は、どこから見ても同じように見えます。西のお方も、東のお方も、楽しんで下さい」

▼翌日、佐藤さんの言葉はドイツの朝刊の一面を飾った。壁を越えようとして、累計192人が射殺されたベルリンの壁が取り払われたのは、その2年後のことである。

増田経済研究所
「日刊チャート新聞」編集長 松川行雄



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