忍者ブログ

増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第110回・一騎打ち(後編)

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。

【閑話休題】第110回・一騎打ち(後編)

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2013-08-08 17:45:00]

【閑話休題】第110回・一騎打ち(後編)

▼太平洋戦争の最中、エースがそろっていたラバウル航空隊に、笹井醇一中尉がいた。東京・青山生まれ。出撃全76回の戦果合計は、単独撃墜27機、共同撃墜187機。海兵(海軍兵学校)出身者としては最高記録だという。台南航空隊以来、やはり撃墜王の坂井三郎一飛曹に指導をうけた。坂井にとっては、笹井が上官ではあったが、容赦なく鍛え上げた。

▼笹井も、持ち前の闘争心でめきめき腕を上げていった。坂井と常にコンビを組んでいたが、笹井がドッグファイト(格闘戦)をし、坂井がこれに横槍を入れてくる敵機を排除するという役割分担だった。二人のコンビネーションによる撃墜数は、日を追って増えていった。

▼ニューギニアのポートモレスビー攻撃では、坂井がまず米陸軍ベルP-39エアラコブラ戦闘機3機編隊を発見。笹井に、「どうぞ、お召し上がりを」と手で促したところ、笹井は一瞬、両翼を「ごちそうさま」の意味で上下に振るや、わずか20秒で3機すべて撃墜した。「三段跳び」と言われた、このあまりに鮮やかな撃墜技巧に、坂井も絶句したそうだ。

▼しかし、ガダルカナル近くのサンタイサベル島南端上空で交戦のこと。笹井を常に守り抜いてきたその坂井が、米戦闘機編隊と誤認して不用意に接近。実は、ダグラスSBDドーントレス急降下爆撃機8機だった。米機の旋回機銃斉射を避けきれず、重傷を負った。

▼坂井は右側頭部に一弾が命中。そのため左腕が麻痺状態になった。計器すら満足に見えないという状況だった。被弾時のショックのため失神したが、海面に向けて急降下していた機体を半分無意識の状態で水平飛行に回復。坂井はまず止血を行ない、出血多量による意識喪失を繰り返しながら、約4時間にわたり操縦を続けてラバウルまで奇跡的な生還を果たした。右目は失明した。治療のため内地帰還の命令を受ける。そこから、笹井は一人になった。

▼1942年8月7日以降、ラバウルのパイロットたちは、ガダルカナルまでの往復2千キロ以上、零戦の狭い操縦席で往復7時間半から8時間半もの過酷な飛行を伴う戦闘を余儀なくされた。一方で米海兵隊戦闘機隊が、8月20日にガダルカナル飛行場に進出。同島上空の制空権を確保され、南太平洋最前線の戦況は大きく転換しようとしていた。

▼運命の8月26日がやってきた。笹井は陸攻17機援護のため、零戦9機の指揮官としてガダルカナル島近くで、迎撃してきた米海兵隊のF4Fワイルドキャット戦闘機12機と交戦。そこには、米海兵隊撃墜王のマリオン・カール大尉が含まれていた。笹井は、これを狙った。

▼笹井は、空戦から離脱したカール大尉機を逃がさなかった。この機を逃して、エースとの一騎打ちはない。笹井は単機のまま、はるか上空にて追尾。カール大尉がガダルカナル飛行場への着陸操作に入ったところを、雲の切れ目から急降下。奇襲の一撃を行なった。が、米地上部隊の対空砲火援護で、撃墜寸前にカール機は笹井機の攻撃を回避する。

▼敵基地上空に単機で突入という危険極まりない暴挙だった。自分の存在が、敵に察知された時点で離脱するのが常道だ。なにしろ、迎撃機が相次いで飛び立ってくることは必定だからだ。多勢に無勢。きわめて不利な戦況となる。しかし、笹井は一騎打ちにこだわった。このことが、カール大尉に、終生、戦慄を持って想起させ、また同時に感服させることにもなる。

▼対空砲火に邪魔をされた笹井は、カール大尉に上昇の暇を与えず、直ちに反転して、再攻撃。対空砲火を避けるため、低空での壮絶な空戦に挑んだ。地上では、米海兵隊員数百人が、この前代未聞の、ゼロ戦の単機殴り込みによる一騎打ちを、眼前で見守っていた。

▼両機は、真っ向から反航。低空だから、けっきょく上昇してすり抜けるしかない。左右に逃れようとすれば、隙だらけになるため、一方的に撃墜される。笹井は、正面からの両機銃撃による相打ち、あるいは体当たりも覚悟かという全速力の突撃を行なった。カール大尉機を失速・墜落か、上昇して逃げるかの二者択一に追い込んだのだ。

▼どちらを取っても、死が待ち構えている。カール機は絶体絶命の状況に追い込まれた。動いたほうが負けだ。忍耐の限度を超えるカール機が、逃げを打って機首を上げる瞬間が勝機だった。笹井は、零戦の上昇機動力を生かした、圧倒的優位の縦の上昇運動に引きずり込もうとしたのだ。

▼笹井機がその攻撃位置を確保する寸前、カール大尉は瞬時の判断で、逆に捨て身の一連射を放った。無二の射撃の名手と言われたカール大尉以外、誰にも命中させることはできなかったであろうと言われる。笹井機は、機首を激しく持ち上げつつ、飛行場至近の海岸線上空に爆発炎上して散った。わずか十秒あまりの劇的な一騎打ちだった。

▼当時、ラバウル基地にあった報道班員の吉田一によると、笹井機が戻らぬため、基地全体が、まるで息をひきとったかのような悲哀に包まれていたという。この日、斎藤正久司令(大佐)は、陽が沈むまで飛行場に立ち続けた。若い搭乗員が、指揮所裏に生えたジャスミンの白い花の下で、飛行服の袖に顔を埋めてすすり泣いていたのも目撃されている。

▼この晩、笹井の未帰還を知らない従兵が、宿舎食堂のいつもの場所に笹井のはし箱を並べた。笹井と別れて帰還した高塚寅一飛曹長が、「笹井中尉は、めしを食わんといっとったぞ。笹井中尉のはし箱はな、明日から俺が使うぞ」と泣き出しそうな表情をして吼えたてていたという。その高塚飛曹長も翌月、9月13日のガダルカナル攻撃で未帰還となる。

▼一方で、内地に戻った坂井に対しては、「坂井ががっかりするから知らせるな」と半年もの間、誰も笹井の戦死を知らせなかったという。笹井を常に守り抜いてきた坂井は、後日「俺がついていたら・・・」と、唇を噛んだ。

▼ミッドウェー、ガダルカナルと主に最盛期の零戦相手に激闘を繰り返したカール大尉にも、この8月26日の笹井との一騎討ちは強烈な印象を残した。特に米国本土帰還後の訓練教官時代に、折に触れて、この勇敢な零戦パイロットとの一騎打ちを引き合いに出した。「着陸時といえども戦闘態勢を解くな。最後の最後まで絶対に気を抜くな。いかに不利な状況に追い込まれても、決してあきらめず、直ちに機位を立て直せ」と戦闘機訓練生に叩き込んでいたという。その後の太平洋戦史に、一騎打ちの記録はない。

増田経済研究所
「日刊チャート新聞」編集長 松川行雄



日刊チャート新聞のコンテンツは増田足のパソコン用ソフト、モバイル用アプリから閲覧可能です。

15日間無料お試しはこちらから
https://secure.masudaasi.com/landing/pre.html?mode=cs
PR

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。